2.
土民は手遅れだった。
だが、土民だと思われた男が実は土民の振りをした野盗だと聞かされ、寧人は多少、罪悪感を和らげた。
「よくある手口だ。人気の無い農村に根を張り、そこを訪れた旅人に土民面で宿を貸す。そして差し入れに薬を混ぜて、寝ている間に身包みを剥ぐ」
「わたしが眠りこけていたのもそれで……」
「薬が粗悪だったか配分を間違えたか、あまり深い眠りにはならなくてよかった」
「それで貴様は食わなかったのか……そしてわたし達が眠りこけていると思い込んで外に出たところを穢物に……」
「この村に土民が一人もいないのは、この時期になると人が残していったものを漁りに来る穢物の群れの通り道だからだったんだろう。これも、よくある話だ」
「それと偶然かちあったのか……不運な奴だ」
寧人の嘆息に、キリは何も答えなかった。自然、沈黙が横たわる。
穢物の襲撃から既に三刻(約三時間)は過ぎているだろうか。
寧人はあれから、キリの持ってきた女物の着物を羽織ると下帯や他の小物類を取りに小屋へと戻った。キリは本当に着物そのものしか持ってこなかったのだ。
その間、キリは穢物の死骸を片付けた。散乱する肉片の一辺とて逃さないつもりで掻き集め、村はずれの雑木林に掘った穴で燃やし、埋めたのだ。
穢物の死骸には暫く穢が残る。流石に次の畑開きまでには消えているだろうが、死骸がそのままでは縁起が悪すぎる。少なくともこの畑は使えなくなり、困る百姓が出てくる。
あの野盗の死骸も同じだ。
外に出ればよく見かけるが、穢に殺された人の骸は無残だ。全身は黒く乾いた炭のようになり、手足を虫のように縮めて転がる姿は焼死体のように見えなくもないが、焼死体はこれほどの悪臭を放ちはしない。その生々しい臭いは風向き次第で一丁(約百メートル)先まで匂うこともあるほどだ。
それに、焼けたわけではないので生前の容姿を残したままなのがまた惨たらしい。穢で死ぬとき、人は地獄を総嘗めにする苦しみを息絶えるまでの短い時の中で味わう。その苦悶の表情も見分けられるのだ。正視できるものではない。
キリはその遺体も、穢物を埋めた場所よりさらに村から離れた森の奥で、簡素だが丁寧に葬った。
それには寧人も手を貸した。穴を掘り、手を合わせただけだが、ちらりと盗み見たキリの横顔は、無表情の中にどこか物憂げなものが垣間見られた気がした。
そうして空が白み始める前に作業を終えた二人は、冷たい水で軽く身体を浄めて、再びあの小屋の囲炉裏の前に対面していた。
囲炉裏にはキリが持っていた米餅が炙られている。米餅はうるち米を餅のように潰して丸めて薄く伸ばしたものを乾かした保存食だ。食べ方としては醤油などを塗って火で焼くか、水で煮て雑炊のようにして食べる。
醤油が焼ける香ばしい香りが立ち込め、寧人の腹がきゅうと鳴る。それを聞かなかったことにして、仇討のことを切り出そうとした寧人の眼前に、煎餅が突き出された。焼きたての温もりが寧人の鼻を摘まみ上げる。
「食え」
「いらん」
口を開いた途端、涎が落ちそうになって慌てて閉じた。口の中が落ち着いてから、改めて宣言する。
「敵の施しは受けん」
「好きにしろ」
囲炉裏には四枚の煎餅がある。キリの巨体なら裕に入りそうな量だが、普通の人が食べるには少し多い。キリは二枚を残して、再び彫像のように動かなくなった。どうやら、残った二枚はもともと寧人の為に焼いたもののようだ。
さっきよりも激しく、寧人の腹が鳴く。
「なんだったか」
不意にキリが口を開く。唐突の朴訥とした喋りは意表を突くが、その声は自然と耳に馴染む。
「武士は食わねど……じゃないな。据え膳……」
「据え膳食わぬは男の恥、か」
「それだ。据え膳食わぬは武士の恥」
「男の恥だ。それにそれはこういう場合の諺ではないぞ」
「そうなのか」
「そうだ」
呆れた寧人が言い捨てると、
「まあ、いい」
キリは納得したか否かよくわからない調子でそう締めた。
不思議な男だ。不愛想で言葉足らず。強面なのに気配は薄い。図体はでかいのに妙に無邪気。自儘でありながら気も遣う。
「……このまま捨て置くのも作った百姓に悪いな」
呪文のように言い訳を唱えて、寧人は寄越された煎餅を手に取った。キリは目を向けもしなかった。気遣いか興味が無いだけか、今の寧人は悩む程度にキリを知っていた。
「その格好だと、本当に女のようだな」
無神経、を付け加え忘れていた。
「ほ・ん・と・う・に! 女だからなっ」
「……そうか」
自分の失言に今更気付いたのか、少し気まずそうに声が落ちた。その姿からは謝罪を口にしなくとも申し訳なさが伝わってくる。
こういう素直な所が、寧人にはむしろ可愛らしく映ってしまうから困る。謝罪はちゃんと口にしろ、とは思ったが。
「その方がいいと思うのだが……」
意外な一言だった。
「……女の姿で一人旅は、余計な面倒を引き寄せるからな。それに――」
キリの目が寧人を見る。先を促す目だ。言い掛けたものの、寧人にこの先を続けるつもりはなかった。
「何でもない、続きなど端からない」
「そうか」
薄壁の向こうで、朝鳥が鳴きながら飛び立つ。高い空から烏の声が落ちてきた。夜が明けようとしている。
室内には、寧人が煎餅をかじる音と、ときたま薪が爆ぜる音だけが異様に大きく聞こえた。
「俺は、一寝入りしてから出立する」
不意に、キリが言った。
寧人は、継の語があるかと構えていたが、なかった。
つまんだ煎餅の一欠けを見下ろし、己の身の振り方を考えた。
「わたしは――」
やることは変わらない。まだ、何も成してはいない。
「わたしは、まだ、貴様を信じた訳じゃない」
「仇か」
「そうだ。貴様がわたしの仇ではないと見極めるまで、貴様についていく」
「徒労だ」
淡々とした端的な答えに、寧人はふっと小さく笑った。自嘲気味な笑い方だった。
「そうかもしれない。だとしてもな……今のわたしには他に当てもない」
「仇討以外に、ないのか」
「無いな」
「そこまで、大事か」
「大事だ。仇が討てねば家名の恥だ」
妙に力んだ言葉は、自分に言い聞かせるようだった。
「わたしの一命を賭してでも……」
だが、続く言葉は次第に力を失っていく。
キリは何かを堪えるように瞑目し、
「……お前の生だからな」
諦めるようにそう言った。
キリが何を堪えて何を諦めたのか、寧人には想像もつかない。だが、少しだけ救われた気がした。
「そうだな、わたしの生だ。わたしが、使い道を決める」
キリは何も答えず、その場にごろりと横になった。
「昼まで寝る」
寧人に背を向ける格好なのでその表情は窺い知れなかったが、寧人には声が少し重く聞こえた。
「おまえは寝ないのか」
そう問われて、寧人は肩頬を吊り上げて笑った。嘲るような笑みだが、キリには見えない。
ずっと、その問いを待ち構えていた。
「ド助兵衛と同じ部屋で眠れるか」
この男には出会い頭から面白くない気分を味わわされっぱなしなのだ。このくらいやり返しても罰は当たらないだろう。
それに寧人にはまだやることがあった。出立までに、キリに切られた小袖と袴を縫わなければならないのだ。幸い、袴の腰紐と腰帯、そして前身頃を少し縫うだけで済む。一刻もあれば終わる作業だろう。
「……そうか」
少し申し訳なさそうなキリの声に、寧人は留飲を下げたのだった。
寧人が荷から針と糸を持ってくる間に、キリの背中から寝息が立ち始める。がたいの割に子供のような静かな寝息を子守歌に、囲炉裏の火明かりで作業を進める。
案の定、縫物自体は一刻半(約一時間半)で終わった。外はすっかり明るくなり、小鳥や山烏の声がひっきりなしに騒いでいる。
キリにまだ起きる気配はない。叩き起こそうかとも思ったが、待ちきれなくなった幼子のようなので止めた。
仕方なく、寧人はキリが起きるのを待つことにした。とはいうものの特に手遊びもない。素振りでもと考えたが、寒暁の空気にその気も萎えた。
「こいつは、何処からきて、何処に行こうとしているんだろうな……」
独り言ちてキリを見る。眠りこけた男から返事があるわけもなく、気怠い空しさが寧人に溜息を吐かせる。
斯く言う寧人は、ここから三里(約十二キロ)ほど南下した盆地にある元町『田日良町(たひらのまち)』を目指していた。そこで、数に目途をつけず穢物斬りを雇っているという話を聞き付けたからだ。しかもそれを聞いたのは三十里も離れた城下町でだった。それほど大々的に喧伝していれば、仇である『羅切』も現れるかもしれない。
蛇の道は蛇。寧人は穢物狩りに身を窶すことで穢物斬りである仇を探してきた。
そうしてキリと出会った。
縫い終えた小袖と袴に、キリに気付かれないよう着替えて旅支度を整えた寧人は、丸太の柱に背を凭れさせて一息つく。
実のところ、『羅切』を見つけたのは、これが初めてではない。『穢物斬り羅切』の名は、穢物に困る国府の外の人間にとって救いの神のような名だ。どこからともなくふらりと現れ、並み居る穢物をたった一人で蹴散らす。鬼を斬ったこともあるという。だからもう一つの異名は『鬼斬り羅切』。
『羅切』についてよく伝え聞くのは、顔の右側に傷がある事、それだけだ。あとは雲を衝く大男だったり、巫女のような手弱女だったり、黒髪だったり金髪だったり……恐らく、その名にあやかろうとした穢物狩りたちが恩恵に預かりやすくするため出鱈目を吹聴してきたせいだろうが、外見の特徴が噂や地方でてんでバラバラだった。
寧人が三年前に見た『羅切』は、茶髪で右の頬に確かに傷があった。穢物狩りとも思えないあからさまに穏やかな立ち居振る舞で、その穏やかさに皆が騙されていたわけだ。
どうにもしっくりこない。
正直、落ち着いて考えればキリとあの『羅切』は似ても似つかない。キリの髪は乾いた濡羽色で、仇の『羅切』は茶色。雰囲気とて、キリは感情らしい感情も見せず、他者に媚びるようなところはない。
肝心の傷にしても、顔右半分を断つような凄惨な傷跡ならもっとはっきり覚えていそうなものだが、仇の『羅切』の傷跡がどんな具合であったか、実のところ、寧人は憶えていない。遠目から一瞥しただけで、記憶がはっきりしていないのだ。
仇の『羅切』はその名を騙るいわゆる詐欺師だった。髪の色や雰囲気を変えるのも詐術の一つと考えられなくもないが、キリにそんな器用な真似ができるようには思えなかった。
「いや、それもまた――」
騙しの手妻かもしれない。
とにかく、油断はならない。
身上を明かした以上、キリが本当にあの『羅切』であれば、どうにか寧人を出し抜こうとするはずだった。寧人にとってはそここそ付け入る隙となる。
最大限に警戒しつつ少し間抜けを演じて油断を誘う。そうして奴の尻尾を掴んで……。
頬が妙に冷たくて、寧人は目を開けた。
「よひゃれ……」
涎、と言おうとして口が上手く動かなかった。
寧人の顔はいつの間にか木の床に頬擦りして寝涎でべとべとになっている。考え事をしている間に、寧人は眠ってしまっていたのだ。
「奴はっ!?」
飛び起きると、身体の上から古びた筵がずり落ちた。誰かが――この村にはキリしかいないのだが、寧人は認めたくなかった――眠る寧人を気遣ったのだろう。
次に寧人は自分の身体に異変が無いかが気になった。しかし衣服にも荷物にも何処にも異常は見当たらないし感じられない。
そうこうしている内に寝惚けた五感が目覚め、外から静かな気合の音が聞こえてきた。
刃が空気を切り裂く音――刃風だ。
寧人は突っかけるように草鞋を履くと、外に出た。
そこには、諸肌脱ぎで小太刀の片手素振りに精を出すキリの姿があった。それは寧人が知る素振りとはかけ離れていた。ひたすらに刀を振るだけでなく、軽業師も裸足で逃げ出す身熟しで旋風のように動き続けているのだ。
寧人はしばしその動きに見入っていたが、やがてキリがそこにいる事自体が不思議になって思わず口に出していた。
「……逃げなかったのか」
「起きたか」
キリが動きを止めた。
「……今、何時だ」
うっかり見惚れていた自分を誤魔化すように、寧人が時を尋ねる。キリはおもむろに太陽の位置を見てから、
「昼二ツ(午後二時)といった頃合いだろう」
と告げた。寧人もそのくらいと見た。
「すっかり寝過ごしたな……」
「急げば間に合う」
日足の早くなったこの時期、あと二刻ほどで日が暮れる。
置いていこうと思えば――むしろ置いていった方がキリにとって面倒はなかったはずだ。それをわざわざ日暮れ前まで待った上に、寝入った寧人に気遣いまで見せた。
「……何故、先に行かなかった」
「付いてくると言っていた」
キリの答えは相変わらず端的で、何を考えているのかわかりかねる。だが、寧人はそれ以上の追及はしなかった。寧人はこれ以上キリのことを知りたくないと思っていた。知り過ぎれば、本当に仇であった時、辛い思いをする羽目になる。
ほろ苦い思いを隠すように、話柄を変えた。
「そもそも、貴様は何処に向かおうと言うのだ」
「田日良(たひら)町だ」
「同じか」
「同じ?」
キリの疑問を無視して反問する。
「田日良ということは、貴様もあの話を聞き及んでか」
「そんなところだ」
汗を噴き赤さを増した筋肉が近付いてきて、寧人は戸の前から上り框まで退がった。それほどの鍛錬の後だというのに、キリの息は平生と変わらない。
小屋に入ったキリは戸のすぐ脇にある水瓶から柄杓で水を掬うと、帯に挟んでいた手拭いをそれで湿らし、汗を拭い始める。
なめし革のような浅黒い肌は若々しく艶めく。それは寧人の目にも美しく映ったが、そこに刻まれた何条もの金創はキリが動くと悶え苦しむように歪み蠢き、痛々しい。穢士の時代、そして流浪の時代とに刻まれた彼の生き様のようだった。
キリが身体を拭き終え、着物を直す。見てはいけないものを見てしまったような気まずさを残しつつ、寧人は小屋に上がるキリに問うた。
「貴様はどんな話を聞いて来たのだ?」
「穢物斬りを集めていると聞いた」
手早く荷を纏めながら、キリが答える。
「それだけか」
「それだけだ」
袷とはいえ着流し一枚で旅をする非常識な男の荷は少ない。振分荷の紐を縛るだけでほぼ支度は終わったようなものだ。
「呆れた奴だな。では、田日良が今どんな状況かも知らぬのか」
「知らんな」
「では、聞かせてやろう」
「歩きながら聞く」
そんなやりとりの間に、キリの身支度は終わっていた。慌てた寧人も自分の荷を取りに板間へ飛びあがったのだった。
話というのはおおよそこんな具合だ。
「近頃、田日良の町中に忽然と猿の穢物が群で姿を現すそうな。しかし人に手を出すことはほぼなく、時に若い娘を攫うこともあるが主に食い物を奪っては同じく忽然と去っていく。それが決まって新月の夜だという。そこで丁名主は連名で町の代官に穢物狩りを集める許しを請い、このほど各丁名主ごとに数に限りを設けず、穢物が現れなくなるまで雇い入れる事と定まったらしい」
気持ちよく晴れ上がった晩秋の空の下、二人は田日良に向けて歩を進めていた。
二人が歩くのは四角い岩肌がせり上がる山肌と薄野原に挟まれた小径で、農村に向かう農夫たちが踏み固めただけの荒れ道だ。それでも霜にはまだ早く、晴れが続いたおかげで歩き易く平らかだった。砂埃も、風がないので気にならない。
上等な道のお陰で、旅慣れた二人の足は急いだ風でもないのに、滑るように往く。
まだ冬と呼ぶには早い時候、すっかり日が高くなった時分に身体を動かすと暑いくらいだ。しかし目に飛び込んでくる風景はすっかり晩秋のそれだった。
白っぽい岩石の壁はキリの倍ほども高さがあり、その上から枝を差し掛ける楓や樺は赤や黄色に色付いて寧人の目を楽しませた。
遊山であればこの上ない贅沢だが、いつなんどき穢物に襲われるかわからない旅路の中ではのんびりと風景を楽しむ余裕はない。
さりとて、襲われることが日常である旅人は必要以上に張り詰めることもなかった。あまり常から緊張していては、いざという時に柔軟な対応が出来ないし、いざという時が来る前に疲れ果ててしまう。
「わからないのは穢物が忽然と姿を現すというところだ。田日良は元町であるが故、疎林ながらも桃橘榊があるという。であれば、町の外から穢物が侵入するのは容易いことではない。加えて、穢物は必ず新月を選び、町中に出没しながらも住民にはほとんど手を出さない。元来、穢物は人を見境なく殺すはず。それがまるで盗人衆のように統率されているというではないか。解せん」
「穢物が、桃橘榊を越えてくるのか」
「いや、そうではないようだ。文字通り神出鬼没、霞の如く沸いて風に溶けるよう消えるとか」
「地からか」
「ちから? ああ……そうだ、空ではないらしい」
「それは、不思議だな……」
「そうだろうそうだろう」
我が事のように得意がる寧人の歩が緩み、キリに置いていかれそうになる。慌てて歩を速めた。
「それにな、これは冗談だと思うのだが、こんな話もある」
前を歩くキリが話に興味を向けるたのを見て寧人は切り出す。
「鬼が出るそうだ」
キリの足が止まった。その背中にぶつかりそうになった寧人も止まる。
「そういえば貴様は、鬼を探していると言っていたな」
「片角の鬼か?」
「いや、そこまではわたしも知らぬ、あくまでも噂だ、噂」
「そうか……」
「だが、あながち噂と切り捨てられるものか……」
「何がだ」
「噂であれ、鬼が出るなどと言われれば臆する者も出てこよう。そうなれば、人集めに差し障りが出る。それでも出てしまった噂……火のない所に煙は立たぬというしな、あながち、見間違いと笑い飛ばせるものでもなかろうが……流石に鬼はなぁ」
言いつつも、最後の方で寧人は噴き出した。耐えかねて鼻で笑い飛ばしたような笑い方だ。キリは何も答えず、再び歩き出す。
昨晩の夜、鬼を探していると言ったキリの真剣な顔を思い出した。気を悪くしたかと少し気兼ねした寧人だが、そんなことはなかった。
「俺は、見たことがある」
普段通り平板な声で、唐突にそう切り出してきた。
「見たとは、鬼をか……?」
「そうだ」
「ああ、まあ……そうか、うん、そうか」
ここまで鬼を信じている人間に出会うのが初めてだった寧人は、流石に戸惑った。思わず、曖昧な笑みが浮かぶ。
「信じられないか」
「それは、まあな」
「いい、知らないならそれに越したことはない」
キリの足が俄かに早くなる。歩いているはずなのに、寧人が駆け足にならなければ追いつけないほどだ。
「わかったわかった、貴様が鬼を信じているのは十分に承知した、もう笑わん、だからそう拗ねるな、大の男が」
「拗ねてない」
「拗ねているだろうが」
これ以降、二人の間に会話らしい会話が交わされることはなかった。
というのも、足を速めたキリについていくのがやっとで、寧人に喋る余裕がなくなったのだ。余裕があれば喋ったかは別だが。
つい先程まで中天近くにあったはずの陽が、山際に触れようとしている。
秋の日は釣瓶落とし。結局二人は、西日に追い立てられるようにして田日良町へ入ったのだった。
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