1.

「誰だ、こいつは」

 がたつく引き戸を開けた青年浪人の、第一声がそれだった。

「相部屋の先客だぁよ」

 愛想の欠片も無くそう答えたのは、背後に付き従っていたこの村の土民だ。垢で煮染めたような異臭のする、小汚い小男だった。

「聞いていないぞ」

「いま言っただ」

「相部屋であれだけの金をとるのか」

「嫌なら他を当たれぇ」

 鈍くさい水掛け論に、青年は噤んだ。不服を顔に描いたようなへの字口だ。

 こいつ呼ばわりされた当人は、二人の来訪など気付いていないような素振りで囲炉裏傍に腰を据えている。

 異風だった。辺鄙な農村に泊りを求める割には旅装どころか気軽な着流し姿であるし、その身の丈は六尺(約百八十センチメートル)を優に越えている。それでいて、表情もなく火を見つめる横顔は、丸めた背と相俟って巨大な童のような印象を与えた。見た目と雰囲気と恰好がちぐはぐな怪漢だ。

「他に泊れる家は無いのか」

 道中羽織に裁着袴、手甲脚絆と見本のような旅装束に身を固めた青年が眉を顰めた。旅塵に塗れていてもわかる、描いたように流麗な眉。すっと通った鼻筋に血色の良い唇、汚れの少ない額はくすんだ金色の総髪よりも輝く白さだ。碧の丸い眼差しがどうにも幼く見えるのも含めて、男の格好をさせておくのが惜しい美丈夫だった。

「薪の残りが少ないんだぁよ。わし一人すら冬を越せるか怪しいだ、相部屋で勘弁してくんろ。薪代を弾むってんなら話は別だんが……」

 言い口は下手だが、断固とした要求があった。要は独りで泊まりたければ出すものを出せということだ。

 この時期、本来は農村に人はいない。農村とは農耕期にのみ国府や元町の方から募った農夫たちの一時の生活拠点とするべく設けられた仮住まいだ。農閑期になると課役を終えた農夫たちは安全な町に戻る。それを破って農村に居着いたものを土民と呼ぶが、彼らは人がいなくなった村の最低限の補修などを受け持つことで目こぼしされる存在だった。

 目こぼしであろうが、土民が農閑期の農村の事実上の差配人であることに変わりはない。彼に楯突けば、村でゆっくりと休むことは叶わない。

 山間の初冬での野宿は寒さに加えてもっと直接的な危険が伴う。それは農夫が農閑期に農村を後にする理由と同じだ。

 冬には飢えた穢物(けもの)が空っ風と共に山を下りてくる。

「わかった、相部屋でいい」

「そうげすか」

 少し残念そうな男はそれ以上何も言わずに自分の小屋へと戻った。一晩中穢物を相手にするくらいなら、得体の知れない男と同じ部屋で寝る方がまだましだ。

 穢物とは、穢れた野生の獣の総称だ。およそのにいる獣はすべて穢れれば穢物となる。野犬、山猫、猿、イタチ、狼、熊……それらは穢れると、本来の体格や攻撃性をそのまま増強した形で人に牙を剥く。穢物とは人を憎む人の天敵。その原因は誰も知らない。天地が開いたときからそう決まっていた。

 穢物の何が厄介かといえば、まさしく、穢物を穢物たらしめている穢(けがれ)故だ。穢は人を殺す毒だとも、人を殺す病だとも言われている。要するに、人を殺すものだ。どう殺すかといえば、穢に触れた人間には黒斑と呼ばれる痣が浮く。更に穢れれば黒斑は痛みを伴い広がり膨れ、やがて黒腫と呼ばれる肉腫で肉体を蝕み、やがて命を奪う。

 穢物は、そんな穢に命を奪われることなく、穢に身を任せて己が力と化したのだ。穢を纏った歯牙にかかれば、穢に耐性のない庶民は穢物に触れられただけでも。多少、耐性のある武家や公家でも大きな傷を受けたり穢やその血を大量に飲み込んでしまえば命を取り留めるのは難しい。

 唯一、この世でまともに穢物の相手を出来るのは、客子(まれこ)と呼ばれる特別な人間が成る穢士(えじ)だけだった。

「邪魔するぞ」

 青年は先客に一言断り、上り框に腰を下ろして草鞋の紐を解きにかかる。大男からの返事はない。

「わたしは寧人(ねいと)と申す。浪人だ。武者修行で天下を転々としながら穢物を狩って糊口を凌いでおる。貴殿は?」

 脱いだ草鞋と足袋を使い古した畳紙に包んだ青年は、それを旅荷の風呂敷包みと一緒に編笠に載せて上り框の端に置いた。やはり、男からの返事はない。

 これといった特徴のない農家だ。土間には竃と水瓶、板間の中央には囲炉裏が切られ、部屋の隅の衝立の影には夜具が一揃え仕舞われているのだろう。それが二人分あるのを祈りながら袴の裾をはたいて旅塵を落とすと、寧人は得物の槍だけを左手に板の間へと上がった。

「寝ておるのか」

 丸い金具の石突で男の傍の床板を叩くが、男は小動もしない。

「起きてる」

 寧人はそれが男の声だったと気付くのに、腰を据えるまでの時を要した。古ぼけたなめし革をこすり合わせたような、若さの感じられない声だ。

「なんだ、お主、口が利けるのか。唖かと思ったぞ」

「起きてるし、口も利ける」

「名は?」

「……キリ」

「キリ? 変わった名だな。字は?」

「字はない。キリだけだ」

「ますます変わっている」

 陽が落ちてだいぶ経つ。囲炉裏の火灯りだけが氷のような闇を拭う唯一の光源にして温もりだ。肌寒さを感じた寧人が火を強めようと火箸で囲炉裏をつついた時だった。キリと名乗った男は不意に黒い蓬髪の下の顔を見せた。

「おまえ、鬼を見たことはあるか。一本角の鬼だ」

 鬼。その名を聞いて吹き出さなかったのは、キリの面持ちがあまりにも真剣だったからだ。

 その顔右半分は使い古した手拭いが眼帯のように覆っているが、声よりもよほど若々しい顔付きだ。日と風に鍛えられて幾分か草臥れているものの、まだ壮年と呼ぶにも早いか。

 その顔が、口元を歪めもせずに真面目くさって鬼を口にする。滑稽が過ぎると逆に笑えないのだと、寧人は密かに思い知らされたものだ。

 鬼とは、御伽噺の住人だった。

 身の丈十丈(約三十メートル)を越える巨躯に八眼六臂、その怪力は山を砕き海を埋める。歩いた跡は穢が溢れ、雑草も生えなくなる。そういう、滅法な破滅の権化なのだ。

 そんなものが実在すればこの世はあっという間に地獄と化してしまいそうなものだが、確かに鬼は存在するらしい。とはいえ、それも何百年も大昔の話。数多の古文書にあるだけで、今世で鬼を見たという者はいない。それは鬼を見た者が全て死に絶える故だという者もいるが、眉唾だ。

 とにかく、鬼とは聞き分けのない子供を脅しつける文句が精々で、本気でそんなものを探していると口にすればたちまち正気を疑われる。男の纏う草臥れた雰囲気はそこから生まれる面倒事が原因なのかもしれない。

 こういう手合いに対して選ぶべき返答は一つ。

「……鬼は、見たことはないな」

「そうか……」

 それで会話を打ち切る。

 当たり障りなく話を受け流して、これ以上の関りを回避する。それが、こういう人物に対する寧人の処世術だった。

 穢物が跋扈するこの世に於いて、穢物除けの結界たる桃橘榊(ときさか)に守られた町からわざわざ出てくるのは、町に居られなくなった無宿者か変わり者だけ。どちらにしろ碌でもないものだ。故に、旅人同士であってもその身の上を詮索するような真似は御法度だった。

 夜は静かに更けていく。早く眠りに就きたいのは山々な寧人だったが、冷え切った身体を温めないことにはしっかりと眠れない。場合によっては風邪をひく。そうなれば旅人には命取りだ。金もないのに親切にしてくれる人間は町の外にはいない。皆、自分たちが生きていくのに手一杯なのだ。

 そうまでして町の外で生き抜かねばならない理由が、寧人にはあった。

「……わたしも人を探しているんだが――」

 憎んでも憎み足りない、口にするのも躊躇われる兄の仇の名を挙げる直前、不躾に戸を叩く音で寧人の言葉は遮られた。

 叩き割りそうなほど喧しいこの音が聞こえていない訳ではなかろうが、キリに動く気配はない。目は開いているから寝ているわけでもない。まるで木彫りの人形のように最初と同じ姿のままそこに座っている。

 憮然としつつも寧人は立ち上がった。訪問者が誰かはわかっている。さっきから割れ鐘のような声で開けろと催促しているのは例の土民だ。

「待たせたな」

 戸の心張棒を外すと、寧人より頭一つ低い所に土民の不機嫌そうな顔があった。

「こんなところに物取りになんざ入りやしませんよ、心張棒ははずしといておくんなせえ」

「なんだ、そんな文句を言いにわざわざ寒いなか罷り越したのか」

「ちげえますよ、こいつを差し入れでげす」

 そう言って、片手に提げていた鉄鍋を掲げて見せた。小ぶりな鍋だが中には湯気を立てる粥が入っている。味噌仕立てなのか湯気から食欲をそそる香りが漂ってくる。

「これは……お主を少し見損なっていたようだ、心配り痛み入る」

「もののついででげすよ。鍋はそのまま置いといてくんろ」

「心得た、かたじけない」

 戸が閉まる直前、男の口元が歪んでいたことに寧人は気付けなかった。鍋の中身に目が吸いつけられていたのだ。

「おい、キリ殿、心憎い差し入れが届いたぞ」

 はしゃぐ一歩手前のように高く弾んだ声で、寧人は板間に飛び上がる。そういう甲高い声を出すと、ますます男らしくなくなるのだが本人は気付いていないようだった。

「冷める前に頂こう。椀をだせ」

 旅人は自分用の椀を一つくらい持っているものだ。露店で食い物を頂く時に必要だし、清水を飲むにもあると捗る。投げ銭受けにすることもあるが、それは寧人にとってあまり思い出したくない使い方だった。それはともかく、寧人は戻るついでに上り框の荷物から素早く椀を取りだした。

「俺はいらん」

 キリの口から発せられた言葉を理解するのに、寧人はしばしの時を要した。コクリと小首を傾げたまま優に三拍は固まってから何かを閃いたように愛想良く笑った。

「なんだ、椀がないならわたしの椀を後で貸すぞ」

「そうじゃない。俺は食わない」

「……何を言っている……?」

 旅烏の贅沢は二つだ。一つは満腹の飯。もう一つは屋根の下での安眠。

 だから、寒天の下で眠る時には最低限の腹拵えを、屋根のある場所で眠る時は少しでも食い扶持を残す。贅沢に慣れれば旅の空が恨めしくなる、然りとて、片方でも満たさなければ生きているのが辛くなる。そうやって切り詰めなければならない旅烏にとって、偶の施し、それも囲炉裏を囲んでの温かい粥ほど贅沢なものは無い。

 この男はそれをいらないと言ったのだ。寧人が信じ難く思うのも無理はなかった。

「お主、さては流れて日が浅いな? それで拗ねてそんな態度なのだろう。ならば教えてやるが、食える時に食うのは我ら無宿者の鉄則ぞ。この一杯が十日後の命を繋ぐかもしれんのだからな」

「お前もやめた方がいい」

 したり顔で蘊蓄を垂れる寧人の方を、キリは見向きもしない。一気に、寧人の眉間に皺が寄る。

「……親切で言ってやっているのだぞ」

「忠告はした」

 忠告しているのはこっちだ、という言葉は呑み込んだ。暖簾に腕押し馬耳東風、喋ったかと思えば全く噛み合わない。寧人は相手にするのを諦めた。

 考えてもみればいらないと言う者に無理に食わせる飯はない。あまり量もない折角の御馳走だ。むしろキリの不可解な態度には感謝しなければいけないくらいなのだが……やはり、面白くない。

「お主、何を楽しみに生きておるのだ」

 粥を掻き込む合間に、益体もない嫌味が漏れた。

 どうにも、大の男が童のように不貞腐れているのは見るに堪えない。それが寧人には面白くなくて、放っとけばいいものを放っておけない。

「何故、食わんのだ」

 返事があるはずもないと思いつつも問わずにはいられなかった。

 案の定、返事はない。

 苛立ち紛れに掻き込んでいった粥はあっという間になくなった。

 元より眠気を覚えていた身体だ、腹がくちくなれば眠くなるのも当然なのだが、それにしても堪えがたい眠気が寧人を襲う。それを不思議に思う余裕もなく、寧人はその場で丸くなって眠り込んでしまった。

 そして、悲鳴に叩き起こされた。

「ひっ、ひゃんだ……!」

 身体が重い。頭が痛い。眠りの足りない身体が無理やりに血液を循環させる疼痛が、鈍く寧人の身体を苛む。

 ここがどこなのかすら判然としないまま周囲を見渡し、囲炉裏の向こうに見覚えのある、というか最後に見た時と全く変わらない姿勢の男を見つけて、寧人は少しげんなりした。こいつは、喋ることと共に動き方も忘れているんじゃなかろうか、と。

 しかし、キリが全く動じていないところを見ると、悲鳴は現実にあった事とは思い難い。

「夢……か?」

 夢で飛び起きた。この唐変木の目の前で。しかもよく覚えていないが奇声を上げた気がする。

 少しばつの悪い思いをしながら、寧人がちゃんとした寝床を作ろうと立ち上がりかけたその時だった。

 ひぇぇっ、おたすけぇぇっ……!

 遠くから、男の悲鳴が聞こえた。聞き覚えのあるだみ声は、あの土民の男のものだ。同時に、悲鳴を追いかけるようにして複数の吠え声も聞こえた。それは桃橘榊の外で夜を明かしたことがあるものなら一晩で耳に馴染んでしまう獣の声。狼のそれだった。

 寧人はかたわらの槍を取り上げるとそれを支えにふらつく身体を無理やり立たせた。意識だけはしっかりと覚醒しているのに、肉体がまだ眠っているような感覚。無理に動かせばすぐに目覚めるだろうと、草鞋も履かずに土間へ飛び降りた。

「やめておけ」

 無視すればいいものを、寧人は立ち止まった。

 悲鳴を、助けを聞きながら身動ぎ一つしなかったキリに対して、寧人はもう期待を止めた。いないものとして扱うと決めていた。だが、そんな彼が今さら自分を呼び止める理由に腹が立った。無性に腹が立って、しっかりと手切れを言い渡さなければ気が済まなかった。

「やめておく理由が無い」

「行く必要はない」

「聞く耳持たん」

 宣言通り、寧人は戸を開け放つ。外は月明りで十分に見渡せるほど明るい。どちらに土民がいるか確かめようと耳を澄ませた寧人を、背後からの落ち着いた声が邪魔する。

「手遅れだ」

「言いあっている間にそうなるだろうな、急げば間に合う」

 もういい加減、この男の相手をしているのもうんざりした寧人が駆け出そうとしたその背中を、聞き捨てならない言葉が引き留めた。

「相手は穢物だ」

「……何故、穢物だとわかる」

「穢の匂いが――戸を閉めろ!」

 急に、キリの声が激しくなった。その調子の変化についていけず、寧人が呆然と振り返ったその首に向かって、表から飛び掛かる黒い影。寧人の頬を掠めた火箸が黒い影に当たらなければ、寧人はその黒い影――狼の穢物に敢え無く噛み殺されていただろう。

「構えろ、気付かれてる」

 いつの間にか近付いたキリが、寧人を押し退けて外に出た。

 その左手には何処から取り出したのか使い古された小太刀が握られている。反りの浅い、肉厚の刃を持つ少し短めの小太刀だ。刀身は一尺三寸(約四十センチ)もないのではなかろうか。

 寧人も戸から出ると、朱塗りの素槍を構えた。独特の構えだ。

 全長七尺(約二百十センチ)程の槍の中程前方、太刀打ちの根元を両手で持ち、身体の前で横に寝かせている。これでは突くにも払うにも中途半端な長さしか使えず、槍の利点たる間合いの長さを活かせない。

 しかしその構えが伊達でも未熟でもないことは構えの馴染みから見てとれた。腰から下の落ち着きようは、一朝一夕で身に付くような生半なものではない。

 寧人が気構えを落ち着けるのとほとんど同時に、右手の暗がりから狼の穢物が飛び掛かる。元々小さくはない狼が、穢物と化して人間の大人より一回りも大きい巨躯へと変化している。その巨体を縦横無尽に巡らせる四肢には、小刀ほどの爪が生えていた。

 組みつかれればその爪で地に貫き留められ、強靭な顎で牙を突き立てられる。それだけでも致命的だが、その真の恐ろしさは彼らが穢物であることそれ自体だ。穢は人を瞬く間に死に至らしめる毒となる。

「やっ!」

 短い気迫と共に寧人が身を捻ると、次の瞬間には石突がぐんと延びて空中にいた穢物を撃退していた。槍の向きを変え、突き出す。この二つの動きを一拍でしてのけたのだ。寧人の独特の構えには、それを可能とする工夫があった。

 地に落ちた穢物へ、間髪入れずに翻した槍身を突き立て止めを刺す。過たず急所を貫かれ、狼の穢物は短い断末魔の内に絶命した。

 寧人はそれを顧みず、油断なく辺りを見回す。既に周囲は狼の穢物によって囲まれていた。その数およそ十五ほど、月明りの届かない暗がりに隠れているものも含めれば二十を超えるだろう。

「群れの通り道か……道理で土民がいない訳だ」

 穢物がじりじりと包囲の輪を狭める中でも、キリは平然としたものだった。その余裕が癪に障るも、食って掛かる余裕は寧人に無い。

 農村の家屋は農地ごとに一軒立てられた休息小屋程度のものだ。隣家と一町ほども離れているのはざらだった。この小屋も前方は畑、後方に林が迫っている。

 穢物は戸を開けて家屋に入ることはない。しかしそれは家屋に人がいるかいないかわからない時だけだ。ひとたび人がいると知れれば、穢物はどんな手段を用いてもその人間を殺さずにはおかない。穢物とは、そういう生き物なのだ。人類の天敵たる所以がそこにある。

 既に姿を見せた以上、小屋に立て籠もっても守りの薄い戸口や明り取りを噛み破って侵入してくる。キリがすぐさま外に出たのもそれが理由だった。狭い小屋の中で穢物に集られれば、いかな武人でも身を守り切れない。

「ここは小屋に立て籠もって入り口で交代しながら少しずつ相手にするしか――」

「数は少ない、後ろは任せる」

「なっ、人の話をっ――」

 聞く耳持たず、キリは満月の光に濡れた世界へ飛び出していた。

 二十近い数が少ない? 囲まれてどうする? 様々な疑問が渦巻くも、それを口にする暇はなかった。キリの背中はどんどん遠ざかる。このままでは完全に分断される。

 キリがどうなろうが寧人の知った所ではない――とも言い切れないか。彼が死ねば本当に孤立無援になる。そうなれば寧人にここを切り抜ける自信はない。それに見殺しにすれば多少の後味の悪さは残るだろう。たとえ奴が自分勝手に飛び出した因果だとしても。

 それより問題は自分自身の方だ。寧人は自分の限界を知っている。一人で小屋の入り口に頑張っても倒せるのは精々が十数体、いずれ数に押し負ける。

 寧人自身が生き延びる可能性はキリとの共闘以外に道はない。実力の程もわからない初対面の男に、しかも策も無しにいきなり飛び出していった無鉄砲に命の半分を預けるのはこの上なく不安だったが、他に仕様もない。彼に勝算がある事を祈りつつ、寧人は寧人に出来ることを全力でこなすしか打つ手はなかった。

「ええい、儘よ!」

 寧人が走り出すと、穢物が数体、それを待っていたかのように小屋の入り口との間に割って入り退路を断つ。先程、一頭を返り討ちにしたのが奏功したのか、いきなり襲い掛かってくることはなかった。

 秋口までは下草が青々と茂っていたのであろう畑も、放置された今は茶色い枯れ草が横たわる荒地と化している。寧人が駆け出すのとほぼ時を同じくして、殺風景な舞台の真ん中でキリは三頭の穢物に襲われていた。

 黒い毛皮を青白い月光に瑞々しくぬめらせた若い狼だ。血気に逸る若い三頭が包囲網から飛び出したような形だった。

 それを見つけた寧人の背筋に冷たいものが走る。もし寧人であれば、あの数は凌ぎきれない。爪が掠る程度ならともかく、まともに噛みつかれでもすれば忽ち穢に侵されて、いきなり死なずとも痛みで碌に動けなくなる。そうなれば、穢に侵されて黒腫の塊となる醜い死が待っている。そんな光景は見るのも嫌だった。

「くっ」

 飛び出す前に大口を叩いた以上は腕にそれなりの自信があるのだろう。だが嫌な想像が寧人の足を急がせる。

 急げば手近の一頭くらいは引き付けられると踏んでいたが、そうはならなかった。

 瞬き程度の一瞬後、寧人が見たのはほとんど同時に跳びかかった三頭がキリの周りに頽れる光景だった。

「何を、した……?」

 唖然としたままキリの傍らに着く。キリがその疑問に答える訳もなく、その時間もなく、寧人は慌ただしく武器を構え直した。

「それで、どうする」

 キリの背後を守り背中合わせに武器を構えながら聞く。既に二人は囲まれている。狼の穢物たちが唸り声をあげて二人を値踏みしていた。

 狼の穢物はこの国では最も数の多い穢物だ。寧人も何度となく相手にしてきた穢物だが、これだけの数を同時に見るのは初めてだった。

 元によるが、穢物化した獣はみなある程度の知恵をつけている。狼の穢物は群れで行動する分、連携のとれた攻撃を得意とする。これまでの四匹はまだ若い個体であったから、数を頼り血気に逸ったのだろう。しかしこうして統率が戻れば、もうあんな各個攻撃は望めない。次の攻撃はこちらの隙をついた必殺の連携攻撃になるはずだ。

 正直、寧人にはこの状態から如何にしてこの状況を乗り切るのか、見当もつかなかった。

 だから、キリの答えに意表を突かれた。

「おまえはそこで自分の身を守れ」

「はぁっ? それでどうな――」

 寧人が振り返った時には、キリは視界から飛び出していた。

「莫迦か貴様っ!」

 一人で穢物の群れに、それも狼の群れに飛び込むなど自殺行為以外の何物でもない。さっきの動きには驚かされたが、やはりあの男は気を病んで頭の働きがおかしくなっている。寧人は少しでも彼を信じようとした自分を呪った。死にたがるのは勝手だが今の二人は運命共同体、片方が死ねばもう片方も助からないのだ。

 寧人は少しでも自分の生存確率を上げようと、キリの後を追おうとした。だがその行く手を三頭の穢物が阻む。この数を同時に相手にするのは初めてだ。

「ええい! やるしかないのかっ」

 これまで寧人が引き受けた依頼はそもそも自分で熟せる限界よりも少し下のものを選んでいた。仇討ちの旅を続ける路銀稼ぎで死んでしまっては元も子もない。頼む方も死なれれば後始末の手間が増える。無理に押し付けてくるようなことはなかった。慎重さがここまで命を繋いでくれた。寧人にはそんな自負があったが、あの男はその自負を勝手にかなぐり捨てて寧人を窮地に追い込んだ。寧人としては怒りを通り越してあきれ果てるところだが、そんな余裕もない。

 命のやり取りに於いて、有利なのは仕掛ける方だ。受ける方は後手に回る分、相手を上回る力量が必要になる。それは一対多の場合も変わらない。相手の連繋を断つように攻め懸けるべきだった。

 しかし、今はその時宜を逸した。だが、穢物相手に専守は愚策。後れを取ったとしても二人で呼応して迎撃するのが次善だった。迎撃の奥意も遅速にある。仕手の早いものから対応していくのだ。それは相手が攻めに時差を掛けても変わらない。先の先。その時差を越える速さで最初の攻め手を凌げばいいだけだ。二人であれば交互に先手を潰していける分、立ち回りに余裕が生まれるはずだった……とまれ、あれやこれやと理屈を練る時はとうに過ぎた。

 寧人は覚悟を決めると、それまでの慎重さをかなぐり捨て、大きく前に身を投げ出した。向こうに合わせる気がないのであれば、こちらが合わせるしかない。キリの拙速に合わせるのだ。

 体を開き、左手を槍身側、右手を石突側で肩幅ほどの間を開けて握り、槍を己の正面に寝かせた。寧人の変わった中段構えは、先の先を追及した真髄だ。

 立ちはだかる穢物は三頭。最も手近にいるのは正面、右手側から僅かに遅れた一頭が寧人の攻撃後の隙を狙って動き始めている。三頭目は二頭目と同士討ちにならぬよう後詰として正面奥に陣取っていた。

「やるしか、ないのだ……!」

 自らに言い聞かせ、心を乱す不安を排除する。完璧とは言い難いが、寧人の頭に勝算はあった。その勝算を生かすも殺すも、寧人の思い切りに掛かっているのだ。

 寧人は槍の間合いより半歩踏み込んだ。その時には正面の一頭が噛みつこうと首を伸ばしてくる。踏み込んだ左足の重心を載せつつ腰を捻ると、腕を動かすことなく穂先が正面を向く。僅かな動きから最速で突き出された白刃に、相手は対応する間もなく自らの勢いで串刺しになった。

 その陰に、飛び掛る態勢を十分に作った一頭が垣間見える。寧人はここで踏み留まるどころか更に踏み込んだ。

 重心がしっかり乗った左半身を軸に半身を回転させれば、背後にあった石突が正面を向く。その勢いで、槍身に貫かれた死骸も抜け落ち、勇み掛かってきた相手の機先も制する。狼の穢物は急に状態が変わった寧人を警戒して歩幅を緩めた、相手が躊躇ったその隙を逃さず寧人は一拍置いて石突を突き出した。相手に、このまま攻めかけるか一度様子を見るか躊躇わせるための一拍だ。

「ふっ!」

 残った息を全部使った渾身の一撃は、迷った穢物の右目を叩き潰した。悲鳴を上げて退く一頭は捨て置き、寧人は最後の一頭に意識を向ける。

 このように、変り中段は即応力に優れた臨機応変の動きを可能にする。特に狼のように素早い相手に正しい構えでは、懐に潜り込まれた時、手も足も出せなくなる。その点、変り中段は棒のように扱うことでそうした窮地にも対応できるのだ。間合いを犠牲にして速さを取る構えだった。

 二頭までならば、今までもこうして相手にしてきた。ここまでは上々、ここからは未知の領域となる。

 無論、予測はしていた。最後の一頭は仲間の死骸を飛び越えて最短距離の正面から仕掛けてくるはず。

 その心積もりで重心を僅かに後方に移す。飛び掛ってきた相手を槍身で掬い上げるべく間を取ろうとしていた。

 だが、思惑は外れた。

「……おのれ……」

 三頭目は、威嚇の唸りを上げるだけで動かなかった。

 予想外の一拍が流れを断ち切った。片目を潰されたことで怯むどころかより憎悪を滾らせた二頭目が、寧人の首根っこ目掛けて態勢も十分に飛び掛かる。

 拍子を外されて溜めた力が霧散するのにも構わず、腰の捻りで強引に槍身を捩じり上げて二頭目の喉を下から貫き絶命させた。

 喉を破った際に太い血の道を切ったか、口腔から傷口から寧人が思った以上の血が飛び出した。穢物の血は人を死に至らしめる。多少浴びた程度ならすぐに処置すれば事無きを得るが、その処置は町まで行かねば受けられない類のものだった。

 自ら後ろへ倒れ込むように仰け反り、辛うじて飛びついてくる死骸を避ける。完全に重心は離れ、腰が浮いた。

 それを見越していたかのように三頭目が動いている。態勢を立て直す時間はない。穂先は横に流れる穢物の死骸に刺さったまま持っていかれている。必殺の瞬間だ。

 それからの一瞬は、ほとんど独りでに寧人の身体が熟していた。

 死体に引きずられた穂先を引き戻そうとはせず、むしろ突き出した。すると、後方に倒れ込むような身体の動きに対して、槍が三本目の足のように支えとなった。しかし槍はそれなりにしなるただの棒だ。足のように踏ん張ってはくれない。寧人の身体は自重と槍のたわみで三頭目の牙を潜るように横に滑り、最後にはたわみの戻る力と均衡を取り戻した寧人自身の跳躍で、穢物から二間(三・六メートル)ほども間合いを離した。

 この幸運は何も偶然ばかりではない。槍を支えに重心を入れ替えつつ身体を動かす型が、確かに寧人の槍術には盛り込まれていた。こんな大道芸、何の役に立つのかと思いながら何百何千と繰り返した型の流れを、身体が自然になぞった結果だった。あの一瞬に、寧人が槍術を収めてきた数十年が詰まっていたのだ。

 穢物ですら、まさかあの間合いを外されるとは考えてもみなかったらしい。自分がどうしてそこにいるのか、どうしてあの人間の喉に噛みついていないのか、不思議そうに佇んでいた。

 それもほんの瞬き数回の間だろう。だが、寧人が体勢を立て直し、その脇腹へ槍を貫き通すのに必要な時間は稼げた。

 中途半端な体勢からだが狙いすました一撃で正確に心の臓を捉えた寧人は、信じ難いものを見るような気分で荒い呼気を吐いた。

 寧人は生まれて初めて、三頭もの狼の穢物を真っ向から相手取り、勝利を収めた。

「終わっ……たっ!?」

 溜めに溜めていた息を吐いた途端、均衡を崩して尻餅をつく。己でも信じ難い上々吉に、気が緩んだものだ。

「いたた……」

 強かに打ち付けた尻を撫でながら、満足のいく結果に笑みが零れる。緊張に引き攣った笑みだったが、笑みを浮かべることでその緊張が抜けていく。

 寧人とて、まだすべてが終わったわけではないとわかっている。しかし息吐く暇もなく命の間仕切りを往ったり来たりしていたのだ、一息つくくらい必要だろう。

 そう思いながら、キリの姿を見つけようと顔を上げると、視界一杯に居並ぶ牙があった。

 月光にやたらと白く光る牙が、上と下から、ゆっくりと迫る。生臭い吐息まで感じ取れる至近、回避は間に合わない。

 四頭目がいたのだ。三頭を囮にして、回り込んできた四頭目が。その牙が、今、確実に寧人を捉えようとしている。声を上げる暇すらなく死が迫る。

 死を覚悟した時、寧人の脳裏に兄の顔が浮かんだ。

 町の外に出る以上、死ぬときは呆気なく死ぬだろうと覚悟はしていた。だが、やはりいざ死ぬとなると無念極まりない。

 優しく柔和でどこまでも自分に甘かった長兄――大好きだったが、病に夭折した。

 頼りにはなるが剛直すぎて気の利かなかった次兄――少し苦手だったが、決して嫌いではなかった。

 寧人は家運を傾けた賊に返り討ちにされた次兄の仇を討つべく、御家に旅立たされた身だった。

 その兄の仇討も半ばに、ここで穢物に噛み殺される自分の不甲斐なさが悔しい。

 泣き顔に歪みかけた寧人の顔が噛み砕かれる、その直前。何処からともなく飛来した棒が、襲い掛かる穢物の後頭部を直撃した。

 大人よりも大きな狼の巨躯が、まるで棍棒で殴られたかのようにつんのめり、横倒しに倒れる。

 跳ね返り宙を舞う棒が鞘であることを、寧人は視界の隅で見るとはなしに見ていた。塗りの剥げた質素な黒鞘が誰のものか、考えずともわかる。

 そも、頭が働く前に身体が動いていた。

 三頭目の腹に突き立ったままだった朱槍を力任せに引き抜き、立ち上がろうと体を捻り藻掻く穢物の脇腹へと血濡れた穂先をがむしゃらに突き込んだ。

 型も技もない、尻を地べたにつけたまま腕の力だけで何度も、何度も……寧人が我に帰ると、穢物の腹はずたずたに引き裂かれて臓物の破片をあたりに散らしていた。無論、四頭目は絶命している。 

 己の為した所業から逃げるように、後ろへ転(まろ)ぶ寧人の顔色は蒼白だった。だが、今度は状況を忘れていない。急いで帯紐に差していた懐剣を構える。が、再度の奇襲はなかった。

 狼の群れはもう、寧人に戦力を裂いている余裕などなくなっていたのだ。

 見るも無残な狼の死骸に触れぬよう気をつけつつ、槍を引き抜く。その間にも周囲を見回して警戒を怠らずにいたが、二十頭以上もいた巨大な狼の影が無い。月明りを見透かして、小山のように黒々とわだかまるのは狼の穢物の死骸だろうか。キリの周囲に連山のように転がっている。動くものはキリを取り囲む六頭とキリ自身のみだ。

 キリが駆け出してから一寸刻(約六分)も経っていない。その短い時間で、それもたった一人で、キリはあの数の穢物をここまで減らしたと言うのか。

 唖然とする寧人は、ここでようやく自分が何をしようと命を張っていたのか思い出した。キリの助太刀に駆けつけようとしていたのだ。

 あの数を本当にキリが一人で片付けたのであれば今更助太刀もなにもないが、それを確認するためにも……と、急いで立ち上がろうとして腰砕けに尻から落ちた。

「こ、腰が抜けて……」

 途端、発作的な動悸が起こり、こめかみに疼痛が走る。

 首元や脇の下からぬるりとした嫌な汗が噴き出す。

 どこか見えない場所に大怪我を負ったか、穢過ぎたか……一瞬の不安に駆られた寧人だったが、何ということはない。もう過ぎ去ったはずの死の直感に、身体がいまさら恐怖しただけだった。

 しかし震える足腰は主のいうことを聞く様子もなく、失禁しなかっただけマシというような状態だ。これではキリの戦い振りを見守るしかない。彼を一人で戦わせることになる。

 これ以上戦えない、戦わなくていいと思った瞬間、寧人の昂っていた神経がわずかに落ち着きを取り戻し、恐怖の発作も緩んだ。呼吸が一気に楽になり、頭の血の巡りもよくなってくる。

「そういえば、助けられたのか……」

 戦いながら、あの男は寧人の様子も見てとり、その危機に助け舟を出した、ということか。

「わたしが助けになるつもりだったんだがな……」

 月光に濡れた荒地の上で、踊るように入り乱れる七つの影絵を見ながら、寧人が自嘲気味に独り言ちる。

 もはやキリの業前を疑う余地はない。彼は強い。それも寧人が今まで見てきた穢物狩りの中でも屈指の強さだ。

 いつの間にか、寧人の不安は興味に呑まれていた。あのどこか抜けた隻眼の男が、小太刀一本で如何にして穢物と渡り合うのか知りたかった。

 枯れ草を踏みつけて立つ彼の佇まいは何処にも構えたところが無い。そう、構えらしい構えを取らず、左半身をやや引いた形で自然体のままだらりと小太刀を左手に提げているだけなのだ。

 寧人では、その姿から彼の力量を推し量ることは叶わなかった。あまりにも無防備に見える。

 興味の殻から再び不安が顔を覗かせる。それが寧人の心境に影響を及ぼす前に状況は動き出した。

 キリの背後から不意を突くように飛び掛かった一頭が、キリの間合いを僅かに外したところへ着地してから改めて真っ直ぐに襲い掛かる。見せかけの大きな跳躍で間を外し、キリの感覚が外れたところを襲おうという魂胆か。ただの野生の獣に出来る芸当ではない。だが、穢物はそうしたことをやってのけるのだ。

 キリは狼の小細工を見ることなく、ただ半身になって躱した。まるで背後が見えているかのように洗練された最低限の動きだ。

 躱された狼は着地と同時に身を捻り、キリの右手側から間を置かず襲い掛かる。

 キリが半身になったことで寧人にも見えた。襲い掛かった狼の陰から、別の一頭が距離を詰めている。しかも左側からも別の一頭が攻めかけていた。これでキリは左右から挟まれた形になる。更には残り三頭の内の二頭も前後を挟む形で駆け出した。残り一頭は後詰か。まるで人間のような連係だ。

 もし躱した一頭に対応すれば、時間差で攻め寄る一頭に追い詰められ、背後に回した左の一頭か前後から襲い来る二頭に仕留められる。よしんば右からの二頭をいなしたとしても、攻め寄せる三頭、後詰の一頭の連係を掻い潜らねばならない。そんなこと、人の身に可能だろうか。

 ここでキリが倒れれば、寧人に為す術はない。

 寧人が固唾を呑む。

 キリが動いた。

 倒れ込むようにすっと身を傾けると、最初の一頭を無視する形で右の二番手に跳んだ。

 戦いの通法は先に述べた通りだ。基本は先の先。後の先はあくまで先の先を読み切れこその戦法だ。キリのそれは先の先でも後の先でもない。出鱈目だった。これではむざむざ自分から挟み撃ちになるだけだ。寧人の喉が悲鳴の形に開こうとする。

 だが、そこを肺から絞り出した空気が通る前に事態は終わった。

 打ちかけたキリは、狼より早かった。

 人間にあるまじき動きで狼との距離を詰め、寧人は初めて狼が面喰らう顔を見た。そう感じた時にはもう、最初の一頭と時間差で来た一頭は、ほぼ同時に首の血道を断たれて昏倒していた。

 血飛沫すら上がらない、最低限の刺突による殺傷。あの速さの中で正確に血の道を貫くのがどれほど困難か。驚きを通り越して呆れかえるような所業だ。

 一度攻め懸ければ、連係は止まらない、止めてはいけない。最初の二頭がやられたと気付いた後詰が、後ろ足に力を込めて駆け出す。後詰の一頭も泡を喰ったように駆け出した。

 残った四頭同時の一斉攻撃だった。既に間合いを詰めていた三頭から最も攻撃の速い一頭を見極めるのは至難の業だ。

 だが、そもそもキリには常識が通じなかった。

 事もあろうに、彼は襲い来た最初の一頭に右腕を、次の一頭に右脛を、差し出すように噛ませたのだ。

 今度こそ、寧人の喉から悲鳴が漏れた。庶民ならば即死、武家や公家でも命の保証はない穢の量が、彼の身体を蝕んでいるはずだった。

 だがキリの動きは止まらない。まるで痛みを感じていないかのようにその動作は精彩を保ち、己を噛み切ろうとする二頭は無視して三頭目と四頭目を一薙ぎで切り捨てた。

 そうしておいて、傷を広げようと頭を振る二頭の首に、無造作に小太刀を突き込んでいく。

 僅かの間、無念そうに食いしばっていた二頭もやがて力尽き、咢を開いて頽れた。

「おまえっ!」

 その頃には寧人の活も戻っていた。転ぶようにキリの元へ駆けつける。

 だが、血こそ流しているものの、キリは至って平然としたものだ。穢れた証である黒斑も見当たらない。傷も、腕と足に巻いた布の下に防護があるのか、そんな風な血の流れ方だった。

 それでも怪我は防げても穢は避けられないはずだ。あれだけの穢を受けて無事な彼を見て、寧人は逆に戸惑った。

「おまえ、大丈夫、なのか……?」

 不安げな声をその背中にかけると、血振りをくれた小太刀を所在なさげに逆手に持ったキリが振り返る。

「問題ない」

 寧人は、月下のその顔を、乱戦で手拭いが外れたキリの素顔を見て、息を呑んだ。

 全身総毛立つ。

 頭が煮えそうなほどに血が昇る。

 衝動的な怒りに身体が震える。

「おまえも、よく生きてた」

 恐らく励ましなのだろうが、寧人の耳にそんな言葉が届く余裕はなかった。己の鼓動が脈打つ音で、鼓膜が痛いのだ。

「貴様は……」

 月影に晒された彼の素顔を睨みつけ、呻く。

 手拭いの下に隠れていた右顔は、三条の傷跡が痛々しく縦断していた。今しがたついたような生々しいものではない。かつて負い、塞がりきらなかった古傷だ。真っ二つな右目の瞼を見るに、視力も完全に失われているのだろう深い傷だ。

 寧人は一度大きく息を吸いゆっくりと吐いた。怒りに身を任せて挑みかかる前に、確かめなければならないことがいくつかある。

 そんな寧人を、キリは無機質な目で眺めている。

 幾分か落ち着いたところで、寧人は静かに切り出した。

「その傷は、いつからあるのだ」

「……五年以上前だ。他人が怖がるから、隠していた」

「そうか、ならば……」

 寧人の身体の陰で、槍を握る指に力が籠る。次の一問一答で、念願が叶うのだから無理もない。

「七河国(なかのくに)川広元町、藤花勇人(ふじばなゆうと)……この名に聞き覚えがあるだろう」

 命懸けだったこの三年の苦労と努力と憤激が、寧人の声を震わせる。怒鳴らぬよう、加減が大変だった。

「無いな」

 寧人の尋常ならざる様子は見てわかるだろうに、キリは一言で否定した。足元の穢物の死骸を突きまわしたり、周囲を見回したりと真摯さの欠片も感じられない対応だ。

「そんなはずはなかろう! その傷、見紛うものか!」

「死骸を片付けるぞ」

 寧人の一喝も微風の如しで、キリは足元の穢物の片足を掴むと決して軽くはない死体を片手で持ち上げた。無論、寧人はもとより普通の人間がそんなことをすれば、穢に侵されあっという間に絶命する。

 闘争の最中にも薄々気付いていたキリの正体。

 これだけの穢に塗れてなお平然としていられる生き物は、この世に一つしかない。

「……貴様、穢士なのだな」

 穢士であれば、穢物も獣と変わらない。奴らは、穢物と同じくらいに穢れているから、穢に侵されないのだ。

 それ故、穢士は穢物を狩る為の手先として重用される。

 穢物の機敏な動きに対応した小太刀、端から穢を無視するような突出、そして人並み外れた業前。どれも穢士と符合する。穢士は歩けるようになると穢物を殺すための修練を始めるという。それから死ぬまで毎日毎日、死と隣り合わせの修練と実戦の日々を送ると云う。常人では辿り着けない高みへと昇るのも無理はない。

「どうでもいい昔の話だ」

 切り捨てるように言って、キリは踵を返した。片付けの続きを再開しようとしたのだ。

「動くな」

 その背中に、寧人が槍の穂先をつける。

 キリは動きこそ止めたが、その立ち居に緊迫感はない。振り返ることすらせず、面倒臭そうに繰り返す。

「俺は何も知らない」

「穢士の言葉を鵜呑みに出来るか」

「俺がお前に嘘をつく意味はない」

「そうか、ならば質問を変えよう」

 キリが口下手なのはこの短期間でも知れた。言葉巧みにかわされる心配はないと踏んだ寧人が直截に問う。

「穢物斬り羅切。この名であれば聞き覚えがあろう」

「……そう呼ばれることもある」

 穢物斬り。

 寧人も身をやつしているその生業は、職業として認められているものではない。浪人や無宿者が自称するので、その代名詞でもある。仕事の中身は傭兵のようなもので、穢物を相手取れる者を特にそう呼んだ。

 ただし、昨今に於いて特に穢物斬りを強調して呼ぶ場合それは特定の人物を指すことになる。すなわち、羅切だ。

 『穢物斬り羅切』あるいは『鬼斬り羅切』は最強の穢物斬りの名だ。町の外でこの名を知らぬ者はいない。

 桃橘榊という結界樹林の外では、常に穢物の危険に晒される。桃橘榊とは文字通り、桃と橘と榊から成る混合林だ。穢物はこの三木を嫌って近付かない為、穢物払いの結界の役に立っている。

 桃橘榊は手入れに手間と費用が掛かる。その為、国家元首たる主上が住まう国府以外の、元町――すでに滅んだ、滅ぼされた国の国府――の桃橘榊は手が回らず、隙間だらけの疎林と化している。穢物はその間隙を縫って町に侵入する。農村に至っては桃橘榊の木材を使った柵ていどの気休めしかない。

 そうして侵入した穢物や、その侵入を未然に防ぐため、穢物を狩って回るのが穢物狩りだ。

 国府には穢士がいる。彼らは国子飼いの穢物狩りとも呼べるが、自由はない。国の命でしか働かない。元町に穢士が出張るのは、相当な大群や鬼型と呼ばれる強大な穢物があらわれた時だけだ。

 それに、穢士は嫌われている。穢物を殺すためだけに生まれてきた彼らを、庶民や公家、特に武力で安寧を守る武家は、穢物と変わらない生き物として捉えている。

 貴重な生まれの穢士が囲われるのは、なにも稀少だからだけではなく嫌われ者でもあるからだった。嫌われ者を自由に振舞わせたくないと思う者が多いから、国府以外で彼らが活躍する機会は限られている。

 故に、寧人のような武家出身の、穢士ほどではないが穢物を狩れる者は外の世界で重宝された。

 だが所詮は穢物狩りも国府どころか元町にすら居着けない流れ者。その素性は怪しいものが多い。中には穢物狩りを自称して狼藉を働く無法者もいた。

「我が兄は、羅切に殺された」

「俺は知らん」

「知らぬと言うなら聞かせよう! 貴様は川広元町が代官、藤花家に助力を請われ、前金だけを懐に逃亡を企てたっ、そしてそれを見咎めた我が次兄を切り捨てて逃げたのだ!」

「覚えがない」

「まだ言うか!」

 寧人は己の怒声にハッとした。怒りに駆られて、身体が独りでに穂先を突き出していたからだ。

 止めようのない、そして外しようのない間合いだった。

 己が罪を認めさせずに仇討を遂げるは本懐ではない。だが、それもこれも奴の身から出た錆。真面目に取り合わぬ向こうが原因なのだと、寧人は一方的に呑み込んだ。

 穂先が流された。

 真っ直ぐ疾った穂先が、車輪に回された小太刀に弾かれたのだ。じっと凝視していた寧人ですら、いつどうやって小太刀を背に回したのか、見切れぬ程の早業だった。

 小太刀を振るうと同時に跳躍したキリは、身を翻して寧人と対峙した。

「俺がお前に嘘を吐く必要が無いのは……」

 キリと寧人の間合いは一間強(約四メートル)。一歩踏み込めば槍の間合い、対して小太刀で寧人を捉えるには二歩の詰めが必要になる。状況は寧人の圧倒的有利だったが、逆に踏み込まれてしまえば近間での取り回しに優れた小太刀と、棒術の動きを取り入れた寧人の槍は対等となる。

 一般に穢士は、穢物との戦闘に特化したが故、対人での戦闘が不得手だという。

 先程の業前に尻込みするものはあったが、気後れして相手に呑まれればむしろどつぼだ。寧人はその一般論を支えに気を取り直し、丹田に気魄を込める。

「問答無用っ!」

 渾身の力で突き込む。だが、思った以上にあっさりと躱される。まるでどこを突くか知っていたかのような動きだった。

「俺が嘘を吐かなくていいのは――」

 その上に尚、繰り言を繰り返す。怒りのあまり、寧人の視界に光がちらつく。全てを言わさず、怒涛の突きが繰り出される。

 一見すれば闇雲に突き掛けているようでも、人中、稲妻、章門を結ぶ上半身の急所を中心に、見せ太刀を交えて繰り出される連撃は人を殺すための業だ。

 寧人自身、己の業前が未熟なことは重々承知しているが、仇討の為とただひたすらにこの技の習熟に励んだ成果は目を見張るものがあった。生半の腕であれば、この攻めをいなしきれるものではない。

 だがキリは違った。事も無げにそのすべてを躱し、いなし、凌いで見せた。それも、一歩も後退せずに。

 むしろ寧人が退くまで、キリは防御に徹した。

 防がれはしたものの、寧人はキリの防戦を“手も足も出なかった”と解釈していた。実際、キリは反撃らしい素振りを微塵も見せず、凌ぐことに集中していた。

 だが、防戦に疲弊したとは思えない余裕が、彼にはある。

 現にキリは、遮られた言葉を続ける機会をずっと待っていた。

「俺はおまえより強い」

 直截に無礼な物言いに、寧人の思考力が更に奪われる。

「ふ、ふざけるな! お前の強さなぞ関係ないっ、わたしは兄の仇を討つ! 討たねば、私の生に意味がなくなる!」

「俺を殺して意味を得る生とは、なんとも勝手だな……」

「言うな! さあ、尋常に勝負いたせ!」

「しない」

「ならば潔く討たれろ!」

「おまえに俺は殺せない」

 寧人は、槍身を突き出しつつ一足飛びに間合いを詰める。

 キリがそれをいなすと、寧人は小太刀に槍柄を押し付けつつ廻し、石突で横殴りに薙ぐ。

 勢いと体重を乗せた転撃は、半ば相手に倒れ掛かるような捨て身の攻撃だ。絶妙な呼吸と緩急で、寧人がキリに体重を押しつけ支えさせる形をとった。キリは素直にそれを受け止める。

 まるで巌にぶつかったかのような強靭さだった。身軽を身上とする穢士とは思えない腰の粘りだ。

 キリの言う通り、寧人は彼に敵わない。それは寧人も薄々感づいている。こうして対峙してみても、攻めの手応えがまるでないのだ。岩山に向かって蟷螂をかざしているような気分になる。

 実際、上背のあるキリと、同年代の男性と比べれば頭一つ分背の低い寧人が並ぶと、大人と子供のような様相だ。

「それでも、わたしは戦うしか……!」

 故に寧人は、敢えて槍の得意とする間合いを外し、棒術の奇抜な動きに賭けた。槍とて至近で扱えぬ技が無いわけでもない。それと棒術の動きで相手を翻弄できれば、そこに一縷の望みがあると考えた。

 太刀打ちを押し付けてキリの小太刀を巧みに抑えつつ、槍身と石突で左右から打ち据えようとする。これで致命傷にはならないが、二の腕を痛めつければ間違いなく有利になる。

 だが敵もさるもの。キリは軸にされている小太刀を右に左に傾け、寧人が均衡を取り辛くする。そのせいで一撃一撃がキリの腕に触れる程度かそもそも当たらないかにまで弱められた。

 それでも懲りずに同じことを繰り返す。

「貴様を倒す以外には、貴様に殺されるか、路傍で行き倒れる明日しか、ないのだっ……!」

「なら、なおさら戦えない」

 上半身に集中していた攻めの不意を突き、膝を踏みつぶすような寧人の蹴りがキリを襲う。

 キリは狙われた片足を引いてそれを躱した。

 寧人は踏みつけをそのまま踏み込みとし、キリが引いて半歩分空いた間合いを埋める。

 同時に、下方から石突を伸ばしつつ掬い上げた。掬い上げた石突は手を支点に寧人の背後に回り、今度は穂先がキリを向く。その瞬間に穂先を突出す。流れを止めることなく、石突が殴り掛かり穂先が疾り、かと思えば逆から穂先が襲い掛かり石突が突き上げる。

 体重を乗せた腰を支えながらも軽妙に動く足捌きと、腕の一部と化すほどに扱い慣れた槍捌きがあってこそ可能な攻めは、先ほどまでの絡みつくような連撃と違う流れるような打突の嵐だ。

 いくら小太刀と言えど、手数では棒の方が上回る。捌ききれなくなったとき怒涛の攻めは相手を呑み込み、それを嫌がって退がれば槍の真骨頂たる間合いで必殺の刺突が追い縋る。獲物が槍であることを逆手に意表を突いての至近戦、そこからこの二段構えの接近戦へと移して相手を確実に追い詰める。寧人が練り上げた業の粋だ。

 なまじな者であればその勢いだけで制圧できるところだが……キリは違った。一手一手の遅速を見極め、受け、流し、躱し、しかも――

「これは、凄いな」 

 口を利く余裕まであった。

 対して、寧人にそんな余裕はない。口を開けば息が漏れる。息が漏れれば力が抜ける。力が抜ければ連打に隙が生まれる。

「近間も遠間もよく練られている。穢物に対して動きを止めないことは有用だ」

 しかし人は息を吸って吐かねば死んでしまう。どうしても生まれる隙を如何にして誤魔化すかがこの連打の鍵なのだが、呼吸を読む法は穢士の最も得意とするところだった。

「だが、まだ甘い」

 寧人の息の限界、その寸前。キリはまるで知っていたかのように、気の抜けかけた横薙ぎをしゃがんで躱す。同時に、長い足を伸ばして寧人の両足を払いに掛かった。

 寧人はその時、両足を前後に開いて踏みしめていた。咄嗟に後足に重心を移したが、完全にとはいかなかった。前足を持っていかれ、膝を突きそうになる。

 ところが偶然、槍の石突が掬われた片足の代わりに寧人を支えた。ほとんど無我夢中で縋りつくように槍へ重心を預け、腕の力と腰のバネで身を浮かせた。

「驚いたな」

 悠然と立ち上がるキリと、槍を支えに後方へ飛んだ寧人は、一間の間を置いて向き合う。

 たった一間。キリであれば一跳びで詰められる間合いを、彼はそうしなかった。

 侮られている。そう感じた寧人は、頬が熱くなり視界が歪むのを感じた。

 そもそもここに至るまで、キリは一度も手を出していない。足払いとて片手に持った小太刀でされていれば、その時点で終わっていたのだ。キリは、寧人を傷付けるつもりが無いということか。

 それでいて寧人の攻め手は全て躱している。しかも、半歩しか退かずに。どれだけの力量差があればそんな芸当ができるものか、判らぬ寧人でもない。

 キリは、見せつけているのだ。二人の力量の差を。そうして戦意を削ぐか、逆に相手の怒りに火をつけて冷静さを失わせるものか。敢えて後退せず、その場から動かずに捌いて見せるのもその為だろう。

「おのれはぁっ!」

 激し、食って掛かる。

 飛び込み様に真っ向唐竹に槍身を叩きつけ、半身で躱されたところに半回転させた石突で薙ぐ。受け止めた小太刀を抑え込み、再び肉薄する。

「無駄だと……」

 全てを言わせず、寧人の怒涛の攻めが再開される。先程よりも鋭い連撃がキリを包み込むように圧倒する――かに見えたが、宣言通り、結果は変わらなかった。

 キリは先程と同じように、片手で持った小太刀と身躱しだけで応じて見せる。

 怒りに呑まれた力任せの攻めは確かに苛烈だが、単調になりがちだ。キリにとっては前のものより凌ぎ易かった。

「これでも戯言をっ」

 感情的な大声を張り上げ、渾身の力でキリの小太刀に太刀打ちを叩きつけ、押さえ込む。顔を真っ赤にして押し切ろうとする寧人に対して、キリは涼しい顔でびくともしない。

 大兵のキリに細身の寧人が力比べで敵う筈もないのだ。その程度の算段すら出来ないほど我を忘れている。そう、キリが考える。それが寧人の狙いだった。

 寧人は怒りに我を忘れてなどいない。敢えて大声を張ったのもキリの気を逸らす為。身体を密着させた攻撃も、効果が無くても執拗に続けた乱打も、この一撃を確実に叩き込む布石だ。

 鍛えようもなく、どんな相手でも確実な痛手を負わせられる、単純であるが故に見落とされがちな急所。しかも男であれば肉体的にも精神的にも辛い。

 要するに、金的蹴りだ。

 人は引っぱられたり押されたりした時、堪えようと無意識に同等かそれ以上の力を返す。ずっと同じ圧力に晒されていたなら猶更、本人が意識していない力が身体に入っている。

 寧人はこの瞬間、全身全霊の力と体重を掛けてキリの小太刀を押した。初めてキリの腕が動き、太い腕が膨れるようにしてその力を受け止めた。

 刹那、力を抜くのではなく膝を曲げて重心を落とし、上身を後方に反らせて力を外した。

 するとどうなるか。どんな達人でも、外された力の分の均衡を失う。

 前のめりになりかけたキリは、踏ん張って均衡を保とうとする。さすがの反応だ。鈍い者はここで前のめりに倒れるが、キリの上半身は小揺るぎしただけだ。下半身の重心だけで堪え切っていた。

「む……」

 だが、隙とも呼べないほんのわずかな隙がそこに生まれた。

 一方、寧人の身体は押していた力を上に逃がしたことで浮つき、後ろへ引っ張る向きに回転している。その力に逆らわず、寧人は片足を前に伸ばした。

 均衡を崩しながらの一撃には力を込められないものの、相手の前への力と自分の後ろへの力を和して侮れないものとなる。

 人の身体の自然を逆手に取った柔の業は、異を感じた時には既に術中にある。重心を落としてしまったキリは避けること儘ならず、寧人の足は吸い込まれるようにキリの股ぐらへと伸びた。

 寧人は内心で快哉を叫んだ。これが決まれば少しの間、相手の動きを封じられる。その内に止めを刺せば仇討は終わり、旅が終わる。

 そう、すべてが終わるのだ。

 そのすべてには、寧人の命運も含まれていた。

 それは仇討の旅に出た時に覚悟したことだった。

 仇討ちを果たしたとしても、寧人にはそれを喜んでくれる人も守れる場所もないのだ。ただ、知らない土地で誰にも知られずに年老いていく。そんな無為の生を過ごすくらいならば、敵の利になろうとも家名の為に徒花を散らす。そう誓った。

 張り詰めた覚悟の中での三年間。その苦境もこれで終わると実感した途端、寧人の気が緩んだ。

 脱力は蹴りが届くまでの瞬間にほんのわずかな遅れを生み、須臾の間の逡巡は寧人の命運を大きく狂わせた。

 寧人の足の甲がキリの着流しに触れるか触れないかといった刹那、キリの姿が消えた。

 いくら寧人に逡巡が生まれたとて、前のめりに均衡を崩していたキリが身体の自由を取り戻せるほどの時間は生じない。キリは、身体の不自由に逆らわず、前へと跳んだのだ。

 重心が前へと向いているのだから、前方に動くのは理に適っている。だが、言うは易しで普通の人間の膂力で成し得るような真似ではない。それも、それほど背が高くないとはいえ、助走なしに人の背丈を越える跳躍なぞ、人間業とは思えなかった。

「ましらかっ」

 頭上を過ぎる影に、寧人は思わず叫んでいた。その時には寧人の背後にキリが着地している。

 反射的に寧人は振り返る。

 振り返りながら、悪手だったと歯噛みする。すっかり態勢を整えて待ち構える相手に対して、ここは一にも二にも距離を取るべきだったのだ。

 だが、キリの驚異的な動きと、必殺の一撃を躱された衝撃が、寧人の判断を誤らせた。

 振り返った先には、小太刀を下段に構えたキリの姿。

「残心が甘い。技に慢心が見える」

 それまで、一切の反撃をなさず防戦に徹していたキリが、初めて攻めの姿勢を見せた。

 寧人には、何も出来なかった。ただ振り返っただけの寧人に、対応するための準備はなかった。

 掬い上げる一閃が、月光の尾を引いて二人の間に奔る。

 ただの一振り。それだけでキリは小太刀を引いた。

 寧人は、立っていた。

 何が起きたのか判らず、予測も出来ず、ただ、立っていた。妙に、夜気が肌に刺さる。戦いの最中の火照った身体にはむしろ心地良い感覚。

「あ……?」

 キリが間の抜けた声を上げた。無表情な顔に愕然とした色が広がっていく。

 その時には、寧人も違和感を無視できなくなっていた。

 妙に寒い、そして身体が軽い。

 小太刀で斬り割られた自分の身体がどうなっているのか怖くて見たくなかったが、痛痒もない不可解さに、ついに見下ろした。

「――っ!」

 悲鳴にならない悲鳴が、喉に詰まった。

「す、すまない、そういうつもりじゃ……」

 キリが滑稽なほどに狼狽えている。

 しかし寧人にもその様子を笑う余裕はない。

「じゃあどういうつもりだったんだこの助平がっ」

 寧人は、身体の前面をものの見事に曝け出して立っていた。

 腰紐を断たれた袴は地に落ち、下穿きまで切り落とされ、前身頃を切り裂かれた小袖はその下に晒しで無理やり隠していた持て余し気味の乳房を余すところなくひけらかしていた。

 要するに、脱げていた。

 寧人は、その場に崩れるようにして胸元と股間を隠すと、人を斬れそうな三角眼でキリを見上げた。その碧眼にはうっすらと涙が浮かんでいる。

「袴を落とせば足手纏いになって容易に追ってこれないと思って、だが、女だと知ってればやらなかった」

「袴だけ落とせばいいものを何故下帯と晒まで切ったっ!?」

「て、手元が狂って、そんなつもりは」

「信じられるかド助平!」

「と、とりあえずこれで隠してくれ」

 そう言ってキリは自分が着ていたものを脱ぎ始める。

 キリは旅烏とは思えないほど軽装、つまり、小袖の着流し姿だ。一枚しか着ていないものを差し出せば、当然、今度はキリが裸になる。

 月影の下に晒した褌姿は、大木を彫り上げたかのように荒々しい筋肉に覆われて、満月の青白い光で濡れたように輝いている。

「いらんわ! 脱ぐな! 仕舞え!」

「いや、でも……」

「いいからあっちを向け! そしてわたしの荷から替えの着物を持ってこい!」

「わ、わかった」

 ばたばたと慌てて小屋に戻るキリの後姿からは、並み居る穢物を独りで屠殺し、尋常ならざる身熟しを見せつけた異常さは微塵も感じられなかった。

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