第16話 おゆうと竜②
「ひっ」
おゆうはとっさに方向転換したが、伸ばされた化け物の爪で頬が薄く切り裂かれる。走り始める間もなく肩から背中にかけて爪でえぐられ、おゆうは地面に転がった。
(食われる!)
「ああ、いい匂いだ。お前を食えばどれだけ力を得られよう」
恍惚とした声に目を閉じた瞬間、とてつもない轟音が響き、地面が震えた。
時が止まったかのような静寂に恐る恐る目を開けると、化け物がいたあたりがまるで雷が落ちたかのようにプスウスと焦げている。
そしてその向こうにおゆうは信じられないものを見た。
「竜神さま?」
黒いウロコ、赤味がかった黒いたてがみ、恐ろしく大きな牙と爪。おゆうなど簡単に丸のみにできるであろう巨大な竜が、空からこちらを見下ろしている。
(ああ、私はあの竜に喰われるんだ)
そう思ったが、不思議と怖くはなかった。
竜が地面に降り人の姿をとっても、なぜかおゆうは驚かなかった。心のどこかでそれがカイトだと分かっていたのだ。
「おゆう!」
まるで、そうしなければおゆうがどこかへ行ってしまうのではないかと恐れるように、カイトはおゆうをきつくきつく抱きしめた。
◆
この地には甘い匂いがする。鳥が種を運ぶように偶然が偶然を呼び、人ならざるものには何物にも代えがたいような宝がこの地にはあふれ始めていた。それを食らったものは大きな力を付けるため、それを求めて化け物たちが集まるのだ。
それを育て、大きくしてからなどとは考えない。
今強くなれればそれでいい。
おゆうの危機にカイトは己が何者であったかを思い出した。
「あなたはやはり、ただの人ではなかったのね。帰るところも思い出しましたか?」
おゆうの傷は深かったが、カイトの看病で一命をとりとめた。
「俺は……おまえの側にいるよ」
カイトはおゆうのために町を襲う化け物たちを退治した。家も叔父もなくなったが、あこの仇をとり、自分を育んでくれた町をおゆうは守りたかった。
あこのいた場所を、カイトと出会えた場所を、おゆうはこのまま地獄にはできなかった。
おゆうが雨を呼び、カイトが風と雷を呼んだ。
二人が手を取れば何者にも負けることはなかった。
人々はカイトを竜神と崇めた。
やがて人々が立ち直り、なんとか化け物を抑えた頃、カイトはずっと目を背けていたことをおゆうに打ち明けた。
一度故郷に帰らねばならないこと。そこでしなくてはいけないことがあること。
何年も無駄に過ごしたことで、一刻の猶予もなかった。
「おゆう、待っててくれ。必ずお前の元に帰ってくる」
おゆうの身を守れるようカイトは己のウロコの一部を渡した。彼女がカイトの力の一部を使えるように。
何年も待たせる気などなかったが、結局カイトは帰ることができなかった。
おゆうとの間に、娘が生まれたことも知らないまま――。
◆
海斗からはじけ飛んだ刺青のようなものは、おぞましいほどの数の化け物に変じた。
薄いフィルターをかけたような視界に広がるそのおぞましい光景に、ゆかりは息をのむ。憑りつかれるにしても到底ありえない数だ。
「こんなにも!」
よくも無事でいてくれた。よくゆかりの元にたどり着いてくれた。
金縛りがとけたしずかが「和史、窓をお開け!」と叫ぶと、祖父も弾かれたように立ち上がり掃き出し窓を大きく開けた。
バケツをひっくり返したような土砂降りの中、化け物たちが一つの黒い蛇のように外へ飛び出す。
残った化け物をしずかが滅する中、海斗がゆかりの手を握り雨の中へと飛び出した。黒い蛇が雲の中に潜り込むかのように高く舞い上がったかと思うと、くるりと輪を描く。
「ゆかりちゃん」
「うん」
空を見ながら自分を呼ぶ海斗にゆかりはただ頷く。やることは分かっていた。それでも束の間ためらって海斗のほうを見上げると、髪から雨を滴らせながら彼がゆかりを見て微笑む。
「できるよ、大丈夫だ」
いつもと同じ穏やかなその目に頷き、ゆかりは海斗の首にかかるお守りに手を当てた。
海斗の背から黒い
黒い蛇がこちらへ垂直に降りてくる。
ゆかりを食べたいというたくさんの声がザラザラと脳みそをこすり、気が遠くなりそうになるのを、ゆかりは必死で気力を立て直した。
「悪しきものよ、
ゆかりの言葉と共に竜が天に昇る。
ゆかりの力は海斗のものとなり、海斗の力は竜になる。
黒い雲に稲妻が走り、蛇をすべて飲み込んだ。
竜がさらに上昇する。旋回し雲を巻き上げると、踊るように八の字を描いた竜がゆるりと戻ってくる。スルスルと縮んだそれは静かに海斗の中に戻っていった。
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