第14話 ゆかり・優しく甘く

 ゆかりの周りがまるで水の中に沈んだかのようだ。

 海斗の前で将棋を打っていた祖父は凍ったように動かなくなり、ゆかりの前にいたしずかも苦悶の表情を浮かべ、必死に金縛りを解こうとしている。


 父母と祖母が出かけているのは不幸中の幸いだろうか。


 突然空気が変わったかと思うと、海斗の姿が一変していた。

 最初に透明になっていた時のように大きな黒い翼が生えた海斗は、全身に入れ墨ような模様が浮き出ている。

 その恐ろしい形相に全身が粟立つが、彼から「ゆかり」と呼ばれ、カッと体が熱くなった。

 呼んでという海斗の名前を口にしようと思うものの、ゆかりの唇がカラカラになって声が出ない。なのに水中にいるみたいに体中が重く、呼吸さえままならない。


(早く。早くどうにかしないと、しいちゃんも和くんも危ない)


 本能が、このままでは殺されると訴えていた。

 あれはゆかりを食べようとしている化け物だと。今目の前にいるのは、海斗でありながら海斗ではない何かだと訴えている。


 どうにか自分の胸元に手をあてるも、ゆかりのお守りは今海斗の胸にあることを思い出し、背中に冷たいものが流れた。


「名前を呼んでよ」


 繰り返された海斗の呟きにハッとする。

 なぜか泣きそうな顔に見える海斗は、きっと海斗自身だ。


 ゆかりは細く息を吸う。海斗のことはいつもフルネームで呼んでいた。巽君とも、ましてや海斗君とも呼べなかったから。

 海斗がばさりと黒い翼をはためかせると、次の瞬間ゆかりの真正面に立ち、片手でゆかりの首を掴んだ。じわじわと力が加わるのを感じる。殺されると思うのに、海斗の目が悲しそうに見え、恐怖を上回る何かがゆかりの全身を駆け巡った。

 ゆかりは右手を伸ばし、精一杯笑みを浮かべて彼の胸にその手をあてると、海斗がはっと息をのむ。

 刹那、彼に重なっていた何かが一瞬ブレた。


「海斗君」


 優しく、心を込めて彼の名前を呼ぶ。


(本当は、ずっとこんな風に呼んでみたかったんだ)


 クラスの皆みたいに、他の人みたいに。でもだからこそ、あえて違う呼び方をしていたゆかりは天邪鬼だ。


「海斗君?」


 まるで首なんてしめられてませんよという風に、微かに首をかしげてもう一度名前を呼ぶ。苦痛にゆがむ顔なんて絶対海斗に見せたくなくて、精一杯、可愛らしく見えるように微笑みながら。


 自分の意志とは関係なく、ゆかりの左の目からつ……と涙がこぼれた。


(海斗君、本当は君が私の相棒じゃないかと思ってた。男の子なのにね。――でもよその人を私に、この土地に、縛り付けるわけにはいかないじゃない。万が一相棒だなんて思ってしまったら、私はきっと、君にはそれ以上を求めてしまう。君の恋も人生も応援できなくなると思った。だったら最初から期待も希望も持たないで、無関係でいたほうがよかったのよ)


 そばに行きたい。離れなきゃいけない。

 自分の中に相反する気持ちが常にあった。

 ゆかりが二人分の力を付ければ、その時初めて素直に、かつ自由になれるんじゃないかと思っていた。


 海斗になら食べられてもいいかな――ふと、そんなことを考え、ゆかりはぐっと彼の胸元のお守りを握りしめる。


(じゃあ、海斗君じゃないやつに食べられるわけにはいかない!)


 首を絞めようとする指が震えてる。海斗は力を入れることを拒み、手をはなそうとしている。

 ゆかりはお守りを通し、自分の力を海斗の体のほうへ送っていく。首を絞められているにもかかわらず、普段よりもスムーズに、より強い力を発揮できていることを感じた。


「悪しきものよ、この地にあだなすものよ。これはお前の体じゃない。――海斗君、戻ってきて」


 その呼びかけに海斗の目の色が変わる。海斗自身がそこにいる。

 一瞬海斗に、複数の影が浮かびブレた。


「海斗君、負けないで」


 彼が自分を雁字搦がんじがらめにしている何かを引き離そうともがき、どうにかゆかりから手が離れる。


「ゆ……ぅ……」


 ゆかりの名を呼ぼうとしたのだろう。海斗の唇が震え、それでも何かに口をふさがれたかのように声が止まってしまう。


 ゆかりはもう一度海斗を呼ぼうとして小さく首を振り、腹と目に力を込めた。


(ちがう。甘い言葉なんて、私には似合わない!)


「海斗、甘ったれるな! いつまでも何してるのよっ。早く戻ってらっしゃい!」


 まるで学校でふざけている彼を叱るように。

 何気ない日常の延長のように。

 いつものようにプンッと怒った顔を見せたゆかりの前で、海斗の目が微かに面白そうな色を浮かべた。


 彼を覆う入れ墨のようなものが薄くなったり濃くなったりする。


「敵わないなぁ」


 海斗の呟きにゆかりの中で、自分とは違う何かが震えた。


 知らないのに、懐かしい風景が見えた。

 見慣れない服を着た傷ついた男が――人ならざるものと共に戦い、守ってくれた男が見える。

 愛し、愛され、それでも去らねばならなかった最愛の人。


『おゆう。お前の元に帰る。必ず』


 まるで耳元で言われたかのような、低く響く誓いの声。鼓膜以外のどこかでそれを感じた瞬間、ゆかりの中の誰かが、海斗のシャツごと握ったお守りをグッと引っ張った。


「ええ、カイト・・・。待ってた!」


 背伸びをして、限りなく唇に近い海斗の頬に口づける。


 待ってた。ずっと待ってた。

 私の半身。私の竜。必ず帰って来るって信じてた!


 海斗がゆかりの体をかき抱き、互いの力が入り混じる。


「「まわはしきはね」」


 二人が拒絶それを口にした瞬間外が急激に暗くなり、咆哮のような神鳴かみなりがなった。

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