幻想的密室殺人④

 俺には、風の便りで聞いた凄腕冒険者のようなチート級のスキルもなければ、〈戦神せんじん〉とうたわれる傭兵のような身体能力もない。人類史上最強との呼び声高い魔法使いのような魔力量も、被害総額大金貨1億枚超えの大怪盗のような知能も、〈魔性の天使〉の異名で知られる貴族令嬢のような魅力も、〈最高にして最悪〉と言われる魔道具発明家のような閃きもない。


 しかし1つだけ面白いスキルがあった。それは自我が明確になったときにはすでに俺の中に存在していた。


 名を〈法令魔法〉。

 法学部の学生だった俺が日本で勉強した法学上の概念を、ファンタジー的な現象として発現させる魔法だ。

 例えば〈事情判決の法理〉がある。

 この法理は〈行政処分等に関する訴訟において、その処分等が違法又は違憲ではあるが、取消し、又は無効とすると公益を著しく害してしまう場合に、違法又は違憲である旨を宣言しつつも処分等の効力自体はそのまま有効とする判決を容認することで、社会全体の利益と個人の利益との調和を図ろうとする原理〉のことだ。

 簡単に言うと〈違法な処分ではあるけど、色んな事情を考慮して取消さないよ〉ということである。


 これがファンタジー世界の魔法になったとき、何が起きるかというと──。







 濡れた白銀が淫魔の胸部から飛び出す。


「!?」淫魔が驚愕する。「なぜ……」


 ハリエットの刺突しとつが淫魔の防御魔法──魔膜ままくを突破して心臓を貫いたのだ。

 

 しかしハリエットに油断はない。想定外の事態に隙を晒している淫魔から剣を抜き、一閃。淫魔の右腕と右の羽が、ぼとり、ぼとり、と地に落ちる。鮮血が、うっすらと積もった雪を溶かしていく。


「くっ」淫魔が肩の切断面へ手をやる。だがその程度で血が止まるわけがない。


 肩で息をしているハリエットが、けれど強い口調で言う。「あなたの負けだよ。おとなしくして」ロングソードを居合いのように構え、抵抗に備える。


「……ちっ」淫魔の戦意が霧散する。「好きに、しろ」


 終わったか。

 

 全てが見えたわけではないけど、ハリエットがやったのは〈淫魔に近づく〉〈触手の塊を見てルートを変える〉〈淫魔の背後に移動し突き刺す〉ということだけで緩急などの小細工は行っていなかった。所謂、見てから回避、というやつだ。つまりは、身体能力の強化率が間違いなく上がっていた──俺の魔法の効果ではない。ハリエットにも奥の手があるのだろう。

 しかしこの世界、強力な、あるいは有用なスキルには不都合な点──デメリットやリスク等があることが多い。重い対価を支払っていなければいいが、なんとなくそこを訊いても教えてはくれない気がする。


 さて、〈法令魔法・事情判決の法理〉の効果だが、〈防御魔法その他の防御スキルへの貫通効果を武器や攻撃スキルに付与する〉ことだ。

 推測するに、事情判決の法理の〈違法ではあるが、有効である〉という要素が〈本来防がれてしまう攻撃ではあるが、通用する〉に変換された結果だと思う。

 これがハリエットが淫魔の魔膜を破ったからくりだ。


 スーツの内ポケットから魔法で耐久性を上げられた薬瓶くすりびんを取り出す。


 淫魔に近づく。「これを飲んでください」


「なん、だそ、れは」


「スキルの使用を阻害する薬です」


 ものすごく希少でとってもお高い薬だ。

 そもそも魔族は心臓を破壊されると再生するまでスキルが使用できなくなり、かつ身体能力が低下する──首を切断しない限り死なない。だから、人間用の、魔族に効くか分からない高級な薬を与えるのは合理的とは言えない行為だ。

 それでも飲ませたい理由の1つは、真犯人か否かを落ち着いて調べるために城に留置させる際の安全確保をより確実なものにしたいからだ。

 

 ただ、仮に素直に真実を話してくれて、淫魔が真犯人であると判明したとしても問題はある。

 アイラに対する起訴の取り下げはすんなり行くだろうが、その後の淫魔の扱いが問題なんだ。

 俺たち人間の法は人族(人間、エルフ等)を権利義務の主体としており、当然その効力は人族を対象にしている。魔族への言及はほとんどなく、せいぜい〈魔族は絶対的な悪であり、あらゆる権利を持たない〉〈魔族には苦痛と絶望を与えなければならない〉といった趣旨の文がちらほらと見受けられるくらいだ。


 で、魔族が人間に捕まった場合どうなるかというと、人間以上に苛烈な身体刑を科されてから斬首される。その前に研究対象になることもある。

 魔族との戦争終結から久しい現代ではそもそも魔族を捕まえること自体が稀であり、したがって魔族の身体刑や死刑もほとんど行われていないが、アーシャ教の教典や前例を考慮するとこの淫魔もそうなる可能性が高い。


 だが俺はこれを覆したい。相手が魔族であろうと重すぎる負担を強いるのは間違っている。

 たしかに、〈あらゆる権利を持たない〉という文言をそのまま適用するならば、どのような扱いをしても許されることになる。


 でも、いくらなんでもそれは違う。多くの人が支持する教典に書いていたとしても、だ。

 裁判官に法解釈権限があるとはいっても限度がある。だからこんなことを願う俺は悪なのだろう。


 というわけで(?)嫌そうな顔をしている淫魔にしつこくお願いする。

〈念入りにスキルを封じた状態(=危険が少ない状態)〉と〈協力的な態度〉を交渉のカードにしたいのだ。これが薬を飲ませたい理由の2つ目。


「飲まないと後ろにいるアホっぽい子が、嬉々として人間の闇の深さを教えてくれますよ」実際にやるつもりはないが、暗に、身体能力お化けがいじめちゃうよ、と脅す。


 しかしハリエットが余計なことを口走る。「え、私、闇魔法使えないよ……」


 世の中には、口さえ開かなければ美人なのになぁ、と言われる女性がいるが、まさにそれである。あなたは黙ってて、頼むから。


「……はぁ」淫魔の溜め息。「寄越、せ」


 承諾してくれたようだ。でも渡すのは躊躇われる。


「私が飲ませますので口を開けてください」


「……」数秒の沈黙の後、淫魔は顔をやや上に向けて口を開けた。


「それじゃあ行きますよ」口が閉じないように固定して液体の薬を流し込む。


「ん、ん……」特に抵抗はないが若干涙目だ。


 薬瓶が空になった。


「はい、終わりです」 


 それじゃあサウサートン町にある衛兵の詰所に行って護送用の馬車を借りますか。







「は?」若い女衛兵が目を白黒させる。淫魔を見て、俺を見て、また淫魔を見る。「は?」 


 駄目だ。魔族の逮捕という想定外の事態に脳がフリーズしてらっしゃる。

 仕方ない。後でフォローするってことで勝手に馬車を拝借しよう。


 ……ん? いや、俺もハリエットも使用権限は普通にあるから勝手に拝借というのはちょっと違うか。


 混乱中の女衛兵に挨拶。「それでは失礼します」







 お城のどデカイ玄関ホール。俺、ハリエット、淫魔にダーシーと警備の兵士が会している。


「夜中に起こされたと思ったら、これはこれは……」ふかふかのナイトガウンを羽織ったダーシーが、興味深そうに拘束された淫魔を見る。


「申し訳ありません」とりあえず謝るという日本人的対応である。


 予定では、淫魔に朝まで俺の自室に居てもらい、ダーシーが起床したら報告と相談に行くつもりだったのだが、馬車を確認した門衛もんえいが即、報告に駆け出してしまったのでこうなった。


 ダーシーが腕を組む。「で、ノアはこれをどうしたいんだ?」


「人間の被疑者に準じて扱いたいと考えております」まずは断られる前提で無理な要求をする。


「……商人の真似事か?」こちらの意図は読まれていたようだ。「通したい要求はなんだ?」


 流石にダーシー相手にこの程度の小細工は通用しないか。

 

 俺がやろうとしたのは〈ドア・イン・ザ・フェイス〉と呼ばれるテクニック──最初に過大な要求をして断らせ、その後に本命の要求をすると返報性の心理により承諾してもらいやすくなることを利用するもの──だ。

 しかし初歩中の初歩であるためこのテクニックを全く知らない人間にしか通用しない。この世界では一般的ではないかもしれない、と思って試してみたけど、まぁ無理だよね。


 どうしようもないので馬鹿正直に述べる。「淫魔の管理と処刑を私に一任していただきたく」


「……」珍しくダーシーが即答しない。


 俺たちを見守る兵士から緊張が伝わってくる。

 裁判官が魔族を管理するというのは、少なくとも俺の知る範囲では前例のないことだ。それを新人風情が粛清も厭わない権力者にお願いしているのだ。固唾を呑んで、といった態度も当然だろう。


 ダーシーが、ふん、と鼻を鳴らした。「こういう顔が好みなのか?」嫌らしく口角を上げる。「私では抱いてもらえないわけだ」


 ざわ、と兵士たちが色めく。


 パワハラとセクハラの合わせ技ではなかろうか?


 しかしそれを主張することはできない。異世界には夢ではなく、より不都合な現実が溢れているのだ。


 カードを切る。「……心臓は破壊し、スキル封じの薬も飲ませました。本人に抵抗の意思もありません。認めていただけませんか」


 ダーシーは厳罰主義者であるが、それは道徳的な意味で厳罰が必要と考えているのではなく、少ないコストで効果的な犯罪抑制ができるからにすぎない。だから、国教であるアーシャ教の教典に書かれていることでも、従った場合のメリットがなく、かつ破った場合のリスクが少なければ躊躇いなく無視する。

 つまり、身体刑を実行していないのに〈しっかり苦痛を与えました〉と嘘をついてもバレる可能性が低い情況ならば、わざわざ実際に身体刑を実行するのは時間と労力の無駄でしかないと考えるはずなんだ。

 したがって、俺が淫魔を管理する、則ち淫魔に関わる人間が少なくなるというのは、領民や他の貴族などに嘘をつきやすくなるためそれほど嫌がらないと思われる。この場合のダーシーの懸念は、淫魔が抵抗してクライトン伯爵領に損失が出ることくらいだろう。しかし、念入りにスキルを封じたことでその懸念も潰している。

 それに、これは俺の主観的な感想だが、おそらくダーシーは優しい性格をしている。より正確には、〈自分の支配下にいる人間に対しては、基本的には優しい人間〉といったところだろうか。

 悪くない上司だと思う。こうやって前衛的なお願いをしても、最低限、話を聞いてもらえるのは、本当にありがたい。

 さて、そんな優良上司(?)の返答は……。


 ダーシーが組んでいた腕を下ろす。「淫魔はノアの部屋で管理しろ」またすぐに組む。「それから期間は1週間だ。1週間以内に全てを終わらせろ。この2つが条件だ」


「……」なるほど。


 期間を短く設定したのは、情が移るのを防止するため、あるいはいたずらに処刑を先延ばしにさせないためだろう。

 つまり〈人目に触れさせないならば身体刑は科さなくてもいいが、1週間以内の斬首刑だけは必ず実行しろ〉ということだ。


「どうした? 不満か」瞳に嗜虐の色。俺の胸にダーシーの手が触れる。「ノアの態度次第では多少は考えてやってもいいぞ……」


 兵士たちから先程よりも強い好色めいた気配。


 他人事ひとごとだと思って……。


「いえ、不満はありません」やんわりと手を押し返す。「認めてくださり、ありがとうございます」


「……もう少し面白い反応をする気はないのか?」


「ユーモアのセンスはないので」


 肩を竦める、ダーシーが。







 自室に戻ってきた。


「はー」疲れた。 


 時刻は夜中の3時。室内はそこそこに寒い。暖炉に火をつける。 

 ぼふん、とベッドから音。振り返るとハリエットが俺のベッドに倒れ込んでいた。かなり疲れているのだろう。


「付き合ってくれなくても大丈夫だぞ」


「……ぅ」もごもごしている。「……」すぐに寝息が聞こえてきた。


 あらら。


 横からハスキーヴォイス。「何を考えている」今まで静かだった淫魔が不意に疑問を口にした。


 俺の部屋にいるのはこれで全員だ。1対1対1で完璧な男無女比(?)になっている。


「正しい法の探求ですかね」


「はぐらかすな」淫魔には理解してもらえなかったらしい。「私をどうするつもりだ」


勾留こうりゅうと取り調べ、そして処刑ですね。拷問するつもりはないので、そこはご安心を」ここで思い至る。「私はノアと言います。貴方は?」名前を知らないのは不便だ。


「……ヴァレーリヤ」静かな夜だから聞き取れる大きさの声で名を告げた。


「それではヴァレーリヤさん。まずはメイソンさん殺害事件についてお話ししましょう。サウサートン町のメイソンさんのことは知っていますか?」


「……」しかしヴァレーリヤは答えない。「なぜ拷問しない」


 魔族側も人間に捕まった場合にどのような扱いを受けるかは分かっているみたいだ。

 でも大抵の物事には例外がある。法律にも人間にも。


「妥当性に欠けるからです」


〈魔族には苦痛と絶望を与えなければならない〉という規定を〈身体刑を科す、例外のない義務〉と解釈するならば、あるいは魔族の扱いに関する慣習──慣習上、魔族への取り調べは拷問を伴う場合がほとんど──に法源性を認めるならば、俺の行為は違法だ。ダーシーの許可があるから表面上は若干グレーに近づいた感じがしなくもないが、知識のある人の大半が真っ黒な違法行為とみなすだろう。

 しかし、魔族の死ににくい性質を利用した身体刑や拷問は、凄惨さにおいて人間に行われるものを凌駕する。それを受け入れたくはない。仮に身体刑や拷問を実行せざるを得ない場合でも、せめて人間に対するものと同程度に抑えたい。


 まぁ、いろんな理屈は用意できるけど、そんなことを並べ立ててもおそらく無意味だろう。

 だからもっと人間的で自分勝手な本音を、得心のいかない顔をしているヴァレーリヤに伝える。


「拷問が嫌いだからです」それだけではない。「それに四肢切断も八つ裂きも串刺しも火炙りも嫌いです。あんなものは存在しないほうがいい。したがって可能な限り拷問はしません」


 死刑制度には賛成だが、だからといってたくさん苦しめてもいいとは思えない。


「……」熱に浮かされた薪の弾ける音だけが室内をいろどる。やがてヴァレーリヤが何かを呟く──独りちる。「……り……うじゃないか」


 何を言ったかは分からなかった。訊き返そうと口を開きかけるも、ヴァレーリヤに先を越された。


「……知っている。メイソンのことは知っている」


 どうやら話してくれる気になったようだ。


 形のいい口が動き、過去が語られ始めた。




▼▼▼




 繁殖期が終わり、ヴァレーリヤが魔界にある淫魔の里に行くと、とある話題で持ち切りだった。


「ヴァレーリヤはどっちがいいと思う?」フョークラが訊いた。


 フョークラは友人と言っても差し支えない存在だ。年齢も近くて話しやすい。


「そうだな……」と悩むフリをするが答えは決まっている。「ゲオルギー様」


「えーなんで?」フョークラは違うみたいだ。「ズィークフリド様のほうがいいじゃん」


 そんなことはない。


 しかしあえて口にはしない。


 ゲオルギーとズィークフリドは魔王の座を巡って争っている。

 フョークラによると、ズィークフリドは人間の国を積極的に征服するべきだと考えいるらしい。ズィークフリド曰く、人間は残酷で傲慢な醜い種族であるので、絶対にこの世界から駆除しなければならないとのことだ。また、人間の土地や資源の奪取による魔界の拡大と成長を狙っている。

 一方、ゲオルギーは穏健派だ。曰く、人間と積極的に関わるようなことはせず、内政に力を入れて魔界全体の生活水準の緩やかで確実な成長を目指すそうだ。


 正直どちらにもあまり魅力を感じない。が、強いて選ぶならばゲオルギーだ。人間とはよく交わるが、彼らは残酷で傲慢なだけの存在ではないように思える。とはいえ人間のことはそれほど詳しくない。ズィークフリドが正しい可能性もある。

  

 ズィークフリドとゲオルギーは、近々戦場で雌雄を決するらしい。

 しかしヴァレーリヤにとっては遠い世界の話。フョークラもそうなのだろう。だからこうして気楽に噂話として楽しめる。


「ゲオルギー様ってなんかキモくない?」フョークラが失礼なことを言った。「あれはない」絶対ない、と繰り返した。







 ほどなくしてズィークフリド率いる吸血鬼軍とゲオルギー率いる堕天使軍の戦いが始まった。

 いずれも魔界を代表する種族。その武力は言うまでもなく強大だ。


 しかし今のところヴァレーリヤの日常に影響はない。淫魔の里は戦場から離れている。だからやはり対岸の火事だ。そう思っていた。だが──。


「堕天使種?」炎狼えんろうの里からの帰路に就いていたヴァレーリヤが、淫魔の里の上空に突如として出現した魔法陣から1人の堕天使が現れ、そのまま落ちていく様を見て首を捻った。


 転移魔法? でもどうして私たちの里に?


 分からない。しかしあと少しで里に入る。その時に訊けばいい。


 努めて歩を進めようとして、また足を止めた。


「あれは……!」


 今度は巨大な魔法陣が先程よりもずっと高い位置に出現した。

 実際に見るのは初めてだが、おそらくあれは大規模殲滅魔法だ。ヴァレーリヤの見立てを裏付けるように、強烈な殺意を孕んだ魔力が魔法陣から溢れ始めた。

 どう考えても淫魔の里が殲滅範囲に含まれている。

 

 どうすればいい……?


 分かっている、ヴァレーリヤにできることなど何もないことも、願っても時間は止まらないことも。

 

 そして魔法陣から真紅の魔力が放たれた。


「っ!」


 血のように紅い魔力だ。血の雨が降り注ぎ、大地を破壊しているのだ。則ちそれは淫魔の里の壊滅を意味する。


「みんな……」


 立ち尽くすことしかできない。終わりを告げる真紅が止むのを待つことしか。







 事実上の魔界最強を決める戦いを制したのは、先祖返りの天才と称されるズィークフリドであった。

 魔王になったズィークフリドは、まず最初に自分に従順な者を選別──反乱の恐れのある者を徹底的に粛清した。おびただしい魔族が殺され、魔界の人口もかなり減ってしまった。

 

 すぐに人間との戦争が始まる、このままならば。


 魔界全体が不安と殺意の混じり合った異様な空気に包まれる中、ヴァレーリヤは炎狼の里にいた。


「お主は行くのか」年老いた炎狼の男が、単なる確認とも未練とも取れる口調で言った。


「ああ。私は戦いが得意ではない」ヴァレーリヤは戦いが嫌いだ。「いても足を引っ張るだけだ」


「……そうか」含みのある声音。


 しかし否定はしないようだ。


「すまないな。世話になった」罪悪感と謝意を素直に言葉にした。


 ヴァレーリヤは炎狼の里を出て、人間の国──ハイヴィース王国に向かうつもりだ。またすぐに繁殖期がやって来る。その時には人間の近くにいなければならない。

 それに、反乱には加わりたくない。

 今回の粛清劇で世論は一気に反ズィークフリドへと傾いた。近々、多種族合同の反乱軍が魔王城に攻め入るらしい。炎狼族も反乱に参加するそうだ。

 ヴァレーリヤも誘われたが、断らせてもらった。もしかしたら自分は薄情なのかもしれない、と思うも、意思は変わらなかった。


 独り、炎狼の里を出る。


 みんな死んでしまった。フョークラももういない。

 ヴァレーリヤが魔界に留まる理由は、もはや存在しない。


「……」


 歩く。







 淫魔にはそれぞれ異なった特徴を持つ3つの形態がある。1つは角があり羽もある通常の魔族形態。1つは蝙蝠形態。そして最後の1つは人間形態。

 ハイヴィース王国にある森の木の上、蝙蝠形態のヴァレーリヤは長旅の疲れを癒そうと暫しの休憩を取っていた。


 すると複数の気配を感じた。そちらに意識を集中させると鳴き声。


 ゴブリンと……オーク?


 果たして、5匹のゴブリン──緑色の小さな鬼と1匹のオーク──豚顔で2足歩行の大きな鬼が、ヴァレーリヤの止まる木の下に現れた。そして不幸なことにこの場で6匹の戦闘が開始されてしまった。しかし幸いなことにヴァレーリヤには気づいていないようだ。

 このままやり過ごそう。魔物と関わるつもりはない。


「……!」「ギャギャ!」「グァ!」


 数分の後、退屈な殺し合いは相討ちという結果に終わった。しかし。


「……ギ、ャ……」


 1匹だけ生き残りがいた。ゴブリンだ。身体中血だらけで左の眼球は飛び出している。糸状の視神経はまだ繋がっているが、もはや映像認識用の感覚器としては役に立たないだろう。


 まずいな。


 このまま放置していては他の魔物や肉食動物が血の匂いに誘われて寄ってきてしまう。疲れてはいるが、移動したほうが無難かもしれない。


 しぶしぶ飛び立とうして、はたとやめる。今度は人間の男がやって来たのだ。2振りの片手剣──おそらくは双剣──を腰にげているが、鎧の類いは身に着けていない。背には小さめの袋を背負っている。

 

 冒険者か……?


 しかしそれにしては軽装にすぎる。ヴァレーリヤの記憶が確かならば、人間の冒険者は、全身ではないにしても革鎧等の何らかの防具を装備していたはずだ。基本的には魔物を殺すことが仕事なのだから、やはり記憶は正しいように思える。

 

 もしかしたら手練れなのかもしれない。


 たまにいるのだ、そもそも鎧を必要としない人間が。優れているのは回避能力だろうか、防御力だろうか。

 あるいはスキルにより何らかの制限を課せられている可能性もある。スキルの使用条件や保有条件により防具を装備できないパターンだ。


 しかし、魔物のいる森に1人で来ているところを見るに、一定以上の実力者には違いない。

 

 面倒だな。


 たかだか人間1人におくれを取るとは思わないが、疲れている時に魔力を大量に消費することはやりたくない。バレないでくれ、と願いながら息を殺す。


 男が死にかけのゴブリンを見下ろす。だが眉間にシワを寄せるだけで止めを刺すわけでもない。


 何をしている?

 

 殺さないなら早く立ち去ってほしい。そう思って少しばかり焦れていると、男が袋を地面に置いて片手剣を抜いた。どうやら殺すことに決めたようだ。


 しかしヴァレーリヤの予想は裏切られた。


 男は、邪魔なだけの飛び出した眼球に繋がる視神経を切断し、次いで袋から薬らしきものを取り出してゴブリンに塗布とふしたのだ。


 みたのかゴブリンがか弱い呻き声を上げる。


「我慢してくれ」やや高めの声で男が言った。その内心は窺えない。


 質が悪いと傷薬の効果が表れるまで時間が掛かることがある。男が使った物もそうだったのだろう。ややあってからゴブリンの苦悶の表情がほぐれた。

 すでに男はいない。回復を見届けずにどこかに行ってしまった。

 残されたゴブリンは、セイレーンに幻術を掛けられたつつまれたような顔をしている。勿論ヴァレーリヤも似たようなものだ。


 なんだあいつ……。人間は魔物を殺す生き物ではないのか?


 特にゴブリンは嫌われていたはずだが、と首をかしげる。


「……」


 移動しよう。そろそろ町に入りたい。







 繁殖期の淫魔が人間社会に紛れ込むときは、基本的には蝙蝠形態か人間形態になる。どちらにするかは状況や淫魔ごとの好みにもよるが、今回、ヴァレーリヤは蝙蝠形態を選択した。戦闘能力が著しく低下するとしても高い隠密性は魅力的だ。

 

 現在、ヴァレーリヤはハイヴィース王国にあるクライトン伯爵領のサウサートン町を繁殖場所に決めて身を隠していた。

 ある日、数日前に森で目撃した変わった人間を見掛けた。


 あいつは……。


 建物の軒下にぶら下がったまま男を見る。間違いない。森でゴブリンに傷薬を与えていた男だ。

 男は川の近くにある建物に入っていった。


「……」


 ヴァレーリヤは自身の中に不可思議な感情が存在することに気づいた。男に興味が湧いてきたのだ。

 つねならばこんなふうには思わない。人間は繁殖に利用するためのもので、それ以上でもそれ以下でもない。ズィークフリドのように積極的に殺そうとも考えないし、かといって仲良くしたいとも思わない。

 それがどうしたものか、興味がふつふつとしている。


「……」 


 じくじくとしている。







 それからしばらくの間、男を観察した。するといつくかのことが分かった。

 まず、男──メイソンはこの町で鍛冶屋をしている。ただ、しばしば冒険者ギルドにも出入りしているようだ。普段着のまま町から出たと思ったら、特に怪我もなくひょっこりと帰ってくる。これはつまり兼業冒険者というやつだろう。

 また、メイソンは甘い性格をしていた。目の前で困っている人間や魔物、動物がいるとつい手を差し伸べてしまうようだ。その時は決まって眉間に深いシワを作る。不幸な他者を憐れんでいるのか愚かな自分を哀れんでいるのか定かではないが、あるいは両方かもしれないな、とヴァレーリヤは思っている。


 町の近くの、大して強い魔物や動物もおらず人間もあまり来ない森にて、蝙蝠形態のヴァレーリヤは思案する。


 私はどうしたらいいんだ……。


 すでに興味は好意に変わっていた。それは否定しようがない事実だ。


「……」


 淫魔が誰かに恋愛感情を抱くことは滅多にない。ヴァレーリヤも初めてだ。しかし話に聞いたことはある。だから絶対にあり得ない事態というわけではないことは理解している。けれど戸惑いは覚える。とはいえ最も強い感情は明白だ。

 

 駄目だ。抑えられない。


 淫魔の特性らしい。普段は恋愛とは無縁の精神構造をしているのに、一度それに囚われると強烈な愛欲に襲われる。


 木から降りる。魔力を消費して人間形態へと変化。

 繁殖のための性交ならば夢の中ですれば足りるが、愛欲を満たすにはそれでは足りない。実際に抱かれないと満たされない。経験はなくとも本能で分かる。どうしようもなく芯が熱い。

 

 頭がおかしくなってしまった。でも構わない。欲しい。欲しい。欲しい。


 町へと歩き出す、鮮やかな青の長髪を風になびかせながら。

 

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