計算式と魔法が同時に解けたら

「透、いつもごめんね……」

「……何がだよ?」


 あたしは可能なかぎり背伸びして、できるだけ透の顔に近づきたかった。

 触れることのできない存在なら、だったら少しでもすぐ近くに、透の近くにいようって。


「いつも素直じゃなくて、ごめんなさい」

「よせって、そういうの」

「いつも可愛くなくて、本当にごめんなさい」

「だからよせって言ってるだろ」


 これがあたしの正直な気持ち。

 いつもあたしは跳ね返るばかりで、本当の気持ちを透に伝えられていなかったから。


「だって、透を幽霊としてこの世に留めてしまったのは、あたしのせいだと思うから」

「そんなことない。僕が茜を放っておけなかったから、こうなっただけだと思う」


 透の声はいつも優しくて、あたしを素直に受け止めてくれる。

 その優しさに、あたしはただ甘えてしまっていただけなんだ。

 我儘で、愚かで、自分勝手で、そんな最低なあたしが、透をいつも苦しめていた。


「もうちょっとだけ早く、あたしは自分の気持ちを透に伝えていればよかったんだと思う」

「何だよそれ……」


 だってあたしはそんな簡単な計算式さえも、答えを導き出せなかったから。


「あたしが透のこと、ずっと大好きだったってこと」

「…………」


 どんなに学年トップの成績を収めたところで、それが何になるというのだろう。

 少しは名前の売れた女優になったところで、それが何だというのだろう。

 あたしはその程度もわからずに、透という一人の男の子をずっと苦しめていたくせに。


「あたしは透のこと、ずっと誰よりも大切な人で、ずっと誰よりも大好きだった」


 いつもずっとあたしの側で、見守っていてくれたのに……だよ?


 秋の冷たい風が、ぴゅんとあたしの膝下を襲ってきた。辺りは街灯がないせいか、すっかり暗くなりつつあって、昼間は日の当たりやすいこの周辺も、今では微かに透の顔が判別できる程度。どこからも声が聞こえてこない辺り、周囲にはあたしたち以外誰もいないのだろう。時間は間もなく十八時だろうか。もうすぐ学園祭のメインステージでは後夜祭が始まる時間のはずだ。


 逢う魔が時。白い彼岸花から放たれる無色透明の霧が、その気配と共に、あたしと透を包み込んでいるようだった。この辺りだけが別世界にあるようで、何故かあの時の、夜の七里ヶ浜の光景を彷彿させていた。


「だからやっぱり、茜が謝る必要なんて一切なかったんだよ」

「なんでよ!?」


 こんなにも我儘で、透の前ではずっと小さな女の子のままでいたのに……?


「だって僕も、茜のことが誰よりもずっと大好きだったから」

「…………」


 あたしは怖くなって、その目をぎゅっと瞑った。

 怖いと感じたのは、今度こそ本当に涙が零れ落ちそうになったからだ。

 だけどそれでも堪えきれなくて、閉じた瞳から数滴、涙が溢れてしまったことに気づいた。


「こんなこと言っても茜が困るだけだって、そんなのわかりきったことなのにな」

「違う。そんなことない! あたしは困ったりなんてしない!! だってあたしは!!!」


 この涙の理由は何? あたしが透を困らせたくないから?

 違う。そんなんじゃないよね? だってあたしの本当の気持ちはさっき言ったとおりだもん。


「あたしは透のこと大好きだもん! そんなこと言われて困るわけないじゃない!!」

「茜……?」


 あたしは透の前ではいつも我儘な女の子で、透を困らせてばかりだった。

 だけどこの涙は困らせたいから流れ落ちているのではない。違う理由だ。


「嬉しい。嬉しいに決まってるよ! だって透とあたしの気持ちは一緒だってわかったんだよ?」


 そう、これは嬉し涙だ。だとしたらもっと堂々としていていいんじゃないか。

 透に見せても構わない涙だって、透が困惑してもあたしのことを信じてほしいんだって。

 あたしはもう一度、瞳をぱっちりと見開いた。

 背伸びをしていたせいか、目の前には透の顔が大きくはっきりと映る。


「だからさ。最後は笑って別れようよ?」

「お前、そんなに泣いてるのに? なんだか全然説得力がないな」

「あたしも笑う。だって大好きな透を、笑って送り出したいからさ」


 透はもうとっくに笑顔だった。いつもそう。あたしの前をずっと歩いている。

 だからあたしよりも先に、旅立ってしまう。

 本当はそんなの辛いに決まってる。怖くてどうしようもなくて、身震いだってしてしまうほど。

 だけど笑わないと、ちゃんと笑わないと、透を見送ることができないから。


「……だったらさ。最後はこの学校の後夜祭のジンクスってのにあやかってみようか?」

「え……?」


 今、なんて言った??

 だけどそんなことを考えてる時間は全くないまま、あたしの身体は急に軽くなった気がした。透がその右腕で、あたしの背中を抱きかかえたからだ。……いや、それはおかしい。だって透は幽霊だよ? どうしたら透があたしの身体に触れることができるのだろう?


「茜。こちらこそ、今までずっとありがとう」


 あたしは頭が混乱したまま、だけど次の言葉を何とか絞り出そうとする。

 だってさっき笑顔のままでいようって決めたじゃないか。だから咄嗟にその顔を作るんだ。

 嘘つき女優が何だというのだろう。

 でもこれは嘘じゃないんだって、そう透に信じてほしいって。


「……うん。透、あたしの方こそ、いつまでも本当にありがとう」


 そう言ったのが早かったか、それとも……。

 二つがほぼ同じタイミングで、透の唇が、あたしの唇に乗っかってきた。

 優しくて、温かくて、柔らかくて。

 本当に時間が止まってしまったかのよう。十秒くらいが一分ほどに感じられるほど。

 あたしの身体は徐々にほぐれていき、最後には地面に尻餅をついてしまった。


「痛っ……」


 透が、あたしの身体を手放したからだ。

 いや、正確には違う。透の存在そのものが消滅していて、あたしを身体を支えていた右腕さえも忽然と消えてしまっていたから。あたしの体重は地球の引力に逆らえず、気がつくとお尻が地べたにくっついてしまったんだ。


 間もなく、学園祭終了を伝える花火が空に上がった。十八時ちょうど。

 いつもの学校に戻ってきたあたしの目の前には、白い彼岸花だけがぼんやり映っていた。

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