冴えない先輩にキスをねだったら
「あの、ユーイチ先輩。ひとつだけここで、お願い頼んでもいいですか?」
「ああ。僕にできることがあるなら、何でも言えよ」
「ユーイチ先輩なら、余裕のお願いですよ」
あたしはちょっとだけ演技をしてみる。国民的女優春日瑠海なら、これくらいのことは当然してくるはずだって、何度も挑戦したその壁に今日も挑んでみるんだ。少しだけ色目を使って、だけど大胆に身体を寄せて。
「今すぐここで、あたしとキスをしてください」
精一杯の背伸びをして、ユーイチ先輩の顔に急接近する。ユーイチ先輩の唇まで、あと十センチほど。
「ば、ばかっ。そんなのできるわけないだろ! こんな人がたくさんいるような場所で」
「なんでですか? あたしが真奈海先輩ほど、大人の色気がないからですか?」
「そういう問題じゃなくてだな……」
「じゃああっち行きましょ。あっちなら人の気配も感じないし、あたしとユーイチ先輩の二人きりになれますよ!」
「てか茜。熱があるのは僕じゃなくて、茜の方なんじゃないのか?」
あたしはユーイチ先輩の左腕をがっつり両腕でホールドして、視線の先は体育館裏の方へと向けてみる。だけどこんな賑やかな学園祭だ。ここから覗いた感じでは確かに人っ子一人いる気配がないけど、あんな場所にだって今のあたしとユーイチ先輩みたいなカップルが、実は数組隠れているんじゃないだろうか。
でも、そんなこそこそ隠れる必要なんてないと思わない? 今この時間をその人と共有できるのなら、もっと楽しまなきゃいけないと思うんだ。大好きな人といろんな場所を巡って、大切な人と将来思い出となる時間を創り上げていく。それならもっと堂々としていていいんじゃないだろうか。だからこれからあたしとユーイチ先輩の二人で、そんな勿体ないカップルの邪魔をしに行くんだ。あたしに追いかけ回される記憶は、二人にとって忘れられない恐怖体験となり、永遠に胸に残る傷として深く刻まれるだろうって。
「ちょっとユーイチ先輩? あたしとキス、してくれないんですか?」
「するわけないだろ! どうしたらここで僕と茜がキスする流れになるんだ!?」
だけどユーイチ先輩の足取りは想像以上に重い。そんなにもあたしのことを子供扱いしているのか、それとも……。
「大丈夫ですって。今年の学園祭も真奈海先輩は黒豹の格好して、今日だってずっと教室に籠もってるって言ってましたし」
「黒豹じゃなくて黒猫だな。去年のコスプレがよほど好評だったのか、今年もって頼まれたらしい。……じゃなくて、真奈海のことは今は関係ないから!!」
「じゃあ美歌先輩ですか? 美歌先輩ならどうせまた微妙な幽霊の物真似でもしてるんじゃないですかね? 不器用なのに真面目なだけが取り柄な先輩ですから、ひょっとしたらあの白装束姿でずっと一日中お化け屋敷の受付嬢をしていそうですけど」
「ああ。昨日がまさにそんな状況だったらしいぞ。人を驚かすのが絶対苦手な美歌だから、クラスの子たちに受付を任されてるって。まぁそこは奇跡の歌姫と呼ばれるだけあってスタイルは抜群だし、顔も知られているから受付嬢としてはぴったりなんだけどな。……って話をしたいわけでもない。美歌のことも一切関係ないからな!!」
じゃあ、ユーイチ先輩が気にしているのは糸佳先輩の視線? と言おうと思ったが、さすがに疲れたのでこの辺りで止めておいた。正直糸佳先輩の視線よりは、その母親である事務所社長の文香さんの視線のほうが余程怖い。それはいろんな意味で、あたしとて同じこと。
「でもそんなに真奈海先輩の視線が怖いなら、なんで去年は美歌先輩とキスなんてしたんですか?」
「いや多分だけどあの時のキスだって恐らく真奈海に……って、なんでそれを知ってる!?」
「美歌先輩を吐かせました」
「…………」
もっとも、美歌先輩を吐かせたというよりは、どっちかというと勝手に喋っていたという方が正解かもしれない。美歌先輩はあのキスを大切な思い出だと言っていたし、それが実らぬ恋の行き着く先だったとしても、後悔など一ミリもないのかもしれない。
でもそうだとしたら、ユーイチ先輩にとってはどうなんだろ? なぜユーイチ先輩は美歌先輩にキスを許してしまったのか。ユーイチ先輩は、真奈海先輩一筋だったはずなのに。
「あれは美歌以外のヒトに嵌められたんだよ」
「それは美歌先輩も同じこと言ってました。きっかけはその人の後押しのせいだって。でもユーイチ先輩だったらあんな鈍感な美歌先輩のキスなんか、ちゃんと避けられたんじゃないんですか?」
「美歌が鈍感か否か……という真実はさておいて。あのとき僕は……」
「えっと先輩? その真実ってとこ、ちゃんと否定してあげなくていいんですか?」
「避けたくても避けることができなかった。それが真実だと思う」
「なんか今、急に真実の意味を取り違えたように思えましたけど?」
などという素朴な疑問はさておき、はてそっちの真実とはどういう意味だろう? 避けられるキスだったなら、するべきじゃないのかなって。そこに意味がないのなら、それを見ていた真奈海先輩は絶対に黙っていなかったはずだろうって。
するとユーイチ先輩は急に畏まった声になって、吐き捨てるようにこう言ったんだ。
「僕は美歌という大切なクラスメイトのおかげで、真奈海という好きな人に気づけたってことかな」
あたしにはその言葉の意味を一口で飲み込むことはできなかった。恐らくきっと、ユーイチ先輩にとっては二人ともかけがえのない人物であることは理解ができた。互いに時間を共有しあい、互いに何かを与え続けていく。まさしくギブアンドテイクの関係。だけどそしたら美歌先輩と真奈海先輩の間に、どんな異なりがあるというのだろう。その違いはあたしには全く無いようにも感じられて……。
「そしたら美歌先輩も真奈海先輩も、ユーイチ先輩にとってはどっちも同じで……」
「いや、全然違うよ」
あたしが理解できない箇所というのは、まさにこの部分なんだ。
「美歌は美歌で、真奈海は真奈海。僕にとって二人ともかけがえのない人に違いはないけど、やっぱり僕から見た二人の存在意義は全然別物なんだ」
そう言われてあたしは、気づくとぼんやり青い大空を眺めていた。自ずと小さな溜息をついてしまう。その息はどこまで高く駆け上がっていっただろう。まだまだ全然弱くて、恐らく一メートル先にも到達していないと思う。
雲の彼方の先には、透の顔が浮かび上がっていた。なぜか笑っている。……ううん。本当はそんな空の上にはいなくて、今でもあたしの背後で自信なさそうにあたしのストーカーしていることには気づいている。あたしとユーイチ先輩が二人で会話しているのを、冷や冷やしながら覗いているに違いないのにね。
だけどきっと、そんな時間ももうすぐ終わりなんだって。
なぜなら夏は、もう終わりの時を迎えようとしているから。
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