海の見える防音室で秘密の練習を始めようとしたら

「あの、美歌先輩。なんであたしなんかをチロルバンドに誘ったりしたんですか?」

「ん〜? だっていつもの茜ちゃんだったら絶対にやりたがるだろうって、あたしも真奈海もそう思ってるからだよ」


 美歌先輩のほっとさせる笑顔は、朝の強い日差しを浴びてきらきら輝いていた。優しく包み込んでくるその笑みの持ち主は、やはりチロルハイムの美人なお姉さんと呼ぶに相応しい。真奈海先輩だって間違えなく美形ではあるけど、細く華奢な西洋人形を彷彿させる整った体型は、三次元ではなく紙の上に絵で描かれたかのよう。あたしのようなスタイルも中途半端な偽物のアイドルなどではなく、異次元の世界から現れた本物のアイドルと言っていい。もっとも美歌先輩本人はその華奢すぎる体型から特に体の一部分に対して猛烈なコンプレックスを持ってるらしいけど、そんなのってあたしから見たら本当にどうでもいいレベルだと思うんだけどな。


「だってあたしは、またステージの上で倒れるかもしれないし」

「ううん。茜ちゃんなら次はきっと大丈夫だよ。だって、一週間前に比べたらだいぶ笑顔も戻ってきてるし。それってきっと茜ちゃんが良い方向に進んでる傾向だと思うよ?」

「そんなの、確証なんて一切何もないじゃないですか!」

「確証ねぇ……。恐らく真奈海は気付いてないだろうけど、あたしの中ではちゃんとそれもあるんだけどな」

「それはあたしがステージの上でちゃんと歌えるっていう確証のことですか? なんでそんなのを美歌先輩が……」

「ふふっ。本当は茜ちゃんが一番気付いているはずなのにね」


 そう言うと美歌先輩は、防音室のドアの方をちらりと見た。そこにはあいつがぼうっと突っ立っていて、今日もあいつはあたしを監視している。まさかこんな場所にまでストーカーとしてついてくるとは、なかなかのいい度胸だ。

 美歌先輩の言う通り、あたしの笑えなくなる病気は、徐々に回復傾向を見せていた。元々医者からも長く続くことはないだろうとは言われていたけど、本当に医者の言う通りになったことはあたしにとっても驚きがあった。長くても一週間。ただし、もし仮にそれ以上続いてしまうならば、しっかりカウンセリングを受けた方がいいと。あたしが救急車で運ばれた病院を退院する際に、医者からそう言われていたのだ。今でも本調子と呼ぶにはまだ遠い。だけどもう一週間もすればこれまで通りのあたしに戻れるだろうし、それを踏まえても来週にはドラマの撮影現場にも復帰ができそうでもある。そして三週間後の学園祭には、もう一度アイドルとして、ステージの上に立てたりするのだろうか。


 何か、もやもやするものがある。本当にそれでいいのだろうか。

 あたしは復帰とか宣言する前に、本当に戻っていいのか、少し自信を失っていた。


「それに今日は気分転換も兼ねて、こんな見晴らしのいい防音室を貸してもらうことができたわけだし、あたしと茜ちゃんの三人だけの特別レッスンだよ?」

「三人……?」

「そう。あたしって不器用だからさ、何をやっても器用にこなしちゃう茜ちゃんにいろいろ教えてもらおうと思ってね」

「別にそんな……あたしは両親のおかげで小さい頃からいろんな習い事を受けていただけですよ」


 美歌先輩はまた、小さく笑った。あたしの質問については完全にはぐらかしている。そんな美歌先輩の背後には小さく江ノ島が覗いていた。ちょうどあたしが生まれ育った街もあの辺り。楽しかった思い出も、辛かった思い出も、全部あの場所であったこと。

 ここは藤沢市の丘の上のマンションの最上階にある、小さな防音室だ。ここには普段、事務所の音楽の先生が住んでいて、あたしも美歌先輩もその先生のレッスンを受けに、過去にも何度かこの場所を訪れたことがあった。今日この場所で秘密の特訓をしようと誘ってきたのは、ここにいる美歌先輩。窓からの眺めもいいし、気分転換にもなるんじゃないかって、先生にもお願いして午前中の三時間だけ防音室を貸してもらうことにしたんだ。

 いつも練習はチロルハイムの地下にあるスタジオでしているけど、今日は糸佳先輩と真奈海先輩がやはりあたしたちと同じようにチロルバンドの練習兼打ち合わせで使うらしい。とはいえ、あの殺風景な地下室の代わりがこんな見晴らしも良い場所なのは、美歌先輩のさすがに機転でもあった。


「早速練習始めよっか。そこにいる彼も、待ちくたびれた顔してるしね」


 確かに透はまだ練習始めないのかよって、少し不貞腐れた顔をしていた。

 あたしの練習風景をそんなに見たいのかな……? だって、たかだか練習だよ?

 それでも透は黙ったままあたしの顔を見て、そしてにっと笑みを見せたんだ。

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