過去のあたしと今の君

Lesson6: 七里ヶ浜の夜

意地悪な先輩アイドルに頬をつねられたら

 透は、酷い顔をしていた。

 あたしを心配してるわけでなく、怒っているような、恨んでいるような。

 だってあたしでさえ、なんで『ごめん』と謝ったのかわからなかったんだ。

 あたしを避けていたのか、一週間ぶりに姿を現した透がただ懐かしくて。

 そんな透に謝ることしかできなかったなんて、本当にあたしは情けないよね。


「茜さん。具合、本当に大丈夫ですか?」

「茜ちゃん今日は学校休んだら? マスコミも学校にいる可能性あるし」

「だ、大丈夫です。学校行く分には支障のない程度ですから」


 月曜日の朝。あたしを心配して声をかけてきたのは奏ちゃんと美歌先輩だった。チロルハイムの朝食は、およそトーストとコーヒー。……とはいえ、寮生全員がそうであるとは限らない。真奈海先輩とユーイチ先輩は絶対に和食だし、真奈海先輩に至っては豪快な納豆ご飯を欠かさない。今をときめく国民的アイドルがそれってどうよと思ったりするけど、あたしの尊敬する真奈海先輩は他人の視線がどうであろうといつだってマイペースだ。あたしも見習いたい。けどあたしの場合は、どうしたって見栄が勝ってしまい今日もトーストとブラックコーヒーだ。実家で暮らしていた頃は納豆ご飯を食べてたこともあったけど、そもそも納豆ってどんな味だったっけ???


 するとあたしの視線に気づいたのか、真奈海先輩は朝食を中断し、急に立ち上がったかと思うとあたしの前に立ちはだかった。『何か用?』と口をもぐもぐしながら真奈海先輩に対抗する。もちろん朝からまともに戦闘モードになるのはまっぴらごめんだ。

 すると真奈海先輩はあたしの両頬をえいっと掴んできて、そのまま横へにーっと引っ張った。これはなんていう後輩虐めだ? あたしは食事中だっつーの!! 次に真奈海先輩はその両手を上下へ揺らしてくる。あたしの顔は上下左右に振られ、その間、真奈海先輩の顔は無表情のまま。それが尚更に腹が立つんだ。


「ん〜!! んんんんん〜ん!!!!」


 あたしも真奈海先輩の両手を掴んで必死で抵抗しようとすると、ようやく真奈海先輩はその手を離した。何がしたかったのかさっぱりわからなかったけど、とりあえず真奈海先輩を睨み返してみる。もっとも今のあたしの顔からどれほど憎悪が伝わったのか、やはり自信はないけれど。


「おい真奈海。食事中なんだから茜で遊ぶのはやめておけって」

「だって〜。茜ちゃんの顔、ちっとも無表情だからちょっと面白くて」

「面白いからって、それじゃあまるで後輩を虐めているようにしか見えないぞ?」

「こうしたら少しは元気は出るかなってやってみたけど、全然ダメみたい……」


 真奈海先輩の反論は全く理由が理由になってなく、やはりただあたしを虐めたいだけだったようだ。とはいえ、真奈海先輩の口振りから察するに、あたしは想像通り怒れていないようだ。いやいや、あたしは怒ってる。一言でもこの歌唱力だけはからっきしダメな三下アイドルに反発してやりたい気持ちで一杯だけど、やはり元気がちょっとだけ足りないのは指摘通りなのかもしれないな。

 てかユーイチ先輩もユーイチ先輩だ! どうして事後の真奈海先輩を注意するかな? 注意するならあたしの頬が捻られてる最中に注意するのが管理人の仕事じゃないのか。この女子寮に来てもう一年も経つけど、ここの管理人はあまりにもだらしなく、ある意味怒る気力さえも失せていた。


「茜ちゃん。やっぱり今日は無理しない方がいいんじゃないかな?」

「これくらい平気ですって。美歌先輩も心配しすぎですよ」


 あたしは美歌先輩にそう言って笑みを返す。だ。

 だけどきっとそうはなっていない。それは美歌先輩と真奈海先輩の顔が、何よりの証拠だった。あたしの笑みは完膚なきまでに跳ね返され、二人の先輩からはあたしを心配する顔だけが返ってくる。もはやショックとかそういうのを通り越して、胸の奥深い場所から溜息しか出てこなかった。


 あたしが『White Magicians』のライブ中に倒れたのが一昨日の土曜日のこと。

 意識を失ってしまったあたしは、気がつくと病院のベットの上で寝ていた。後で聞いた話だと、あたしはライブ会場から救急車で運ばれたんだそうだ。アイドルが一体何をやってるんだろ。本当に情けない。

 診断の結果、特にそれといった異常はなく、昨日、日曜日には退院している。ライブ中に倒れた理由は一種のパニック症状だろうって。だから病名すら特にない。それもそれで情けない話だけど、あたしには思い当たる節があったため、それとなく納得した。納得する以外に許されなかった。


 そして今日。昨日は食事するのもやっとだったけど、今日はこうしていつも通りの朝食も食べることができてる。だいぶ体調も回復してきた証拠のようだ。もっとも回復したのが体調と呼んでよいものなのかわからない。それでも少しずつ良くなってきているのは事実で、逆にまだ完治したというわけでもない。

 あたしはどうやら、ちゃんと笑うことができないらしい。頬の筋肉が強張って、うまく動かすことができないようだ。これではただの無表情なお人形さんで、真奈海先輩がさっき虐めてきたのはそんなあたしを面白がっていたから。とても大迷惑な先輩だ。


 名前なんて存在しないそれに病名を付けるとしたら、失笑病? その名の通り笑うことさえできないよね。社長とも昨日既に話し合い済みで、あたしはまたしばらく、芸能活動を休止することになった。

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