ステージの上で幽霊に出逢えたら

「アカネ、アカネー!!」


 胡桃さんがしきりに声をかけるも、茜の身体が反応することはなかった。

 間もなく事務所スタッフと思われる男女二人が僕の真横を追い越して、ステージの上の茜の側へと辿り着く。それと同時にステージの照明は落とされて、辺りは開演前のような真っ暗闇へと変わっていた。観客席のざわつき声はピークに達し、何が起きたのかさえわからないこの状況をただ見守るばかりとなっていた。


「アカネ、アカネ……?」

「…………」


 マイクは既にオフになっている。だがステージの上では胡桃さんの声だけがこだましていた。いつもの元気一杯のその声とは程遠く、緊張に満ちた張り詰めた声。それでも茜には届かなくて、茜が目を開くことはやはりない。その顔は無表情。笑っているわけでもなく、どちらかというと死んだ人のように眠っているようだった。女性スタッフが茜の手首を優しく触り、脈があるかを確認する。緊張した面持ちでも首は縦に振って、脈はしっかりあることを周囲の人に伝えていた。


「担架お願いします。急いで!!」


 男性スタッフは右手の親指と人差し指でインカムをつまみ、そう声を荒げる。そして茜の頭を少し持ち上げると、左手に持っていた大きめのタオルをその下に敷いた。とりあえず動かさない方がいいと考えたのか、それ以上はどうすることもできない。先程の倒れた衝撃で強く頭を打っているかもしれない。まずは担架の到着を今か今かと待っているようだ。


「場内のお客様、只今トラブルが発生しており、状況を確認しております。お客様には大変ご迷惑おかけしておりますが、スタッフの指示があるまで今暫くその場でお待ち下さい」


 淡々として女性の声で、場内アナウンスが流れる。ステージの緊迫感とは程遠い無機質な声で、ほんの僅かに安心感さえ与えてくれる。もちろん安堵してよい要素など実際は何一つないわけだが、少しでも今の会場を落ち着かせるには、最適な声色、ボリュームだったかもしれない。


「アカネ、アカネ……」

「…………」


 胡桃さんの今にも途切れそうな必死の呼びかけにも、茜はぴくりとも動かなかった。まるで茜の中にある時間そのものが止まってしまったかのようで、本当に生きているのか、それすら怪しくなってくるほど。

 僕は茜のすぐ真横でしゃがみ込み、顔をその近くに寄せる。当然幽霊である僕の姿など、誰にも見えるはずもない。死んだように眠る彼女の鼻息を微かに感じながら、そっと僕の右手を彼女の顔に触れようと試みる。だけどそれがどうなるかなんて当然わかっていた通りで、僕は彼女に触れることができない。そのままするりとすり抜けて、いつの間にかステージの床に僕の右手は埋もれていた。

 こんな時でも僕は何もすることができないのか。僕は本当に……。


「なぁ茜? 茜ってば……」

「…………」


 胡桃さんの緊迫した声音とは違って、僕は優しく彼女に声をかけた。


「茜、起きろよ。みんなが待ってくれてるだろ?」

「…………オル?」


 これは僕の聞き間違えだろうか。ほんの少し、彼女の口元が動いたように感じたんだ。


「茜? ひょっとして、僕の声が聞こえているのか?」

「トオル……? そこにいるの?」


 恐らくだけど、聞き間違えなどではない。確かに茜が僕を呼んだ声が聞こえた。

 だけどそもそも口元はほとんど動いていない。もしこの声が本物の茜の声だとしたら、茜はどうやってその声を僕に伝えたのだろう。そんな疑問すら湧くほどの微かな声で、実際に僕以外その声を聞き取った人は、この場にいなかったようだ。胡桃さんはまだ必死に茜に呼びかけているし。


「ああ。僕はここにいる。ずっと茜のことを見守ってるって、昔言ったろ?」

「嘘つき。あたしを、ずっと一人にしていたくせに」

「それは茜が僕を拒否したりするから……」

「この期に及んで、やっぱしあたしのせいにするんだ……?」


 その時だった。茜の目がほんの僅かに開いたのは。

 僕以外の人、胡桃さんもスタッフも、当然そのことに気づき、胡桃さんの叫び声がさらに大きくなる。スタッフもインカムを片手にその状況を報告しているが、正確に何を話しているかまでは聞こえてこない。


「アカネ! 大丈夫なの? アカネ!!!」


 胡桃さんってそもそもこういうキャラだったっけ? そんな風に思えるだけの余裕が微かにできた頃、もう一度茜の掠れ声が僕の耳に入ってきたんだ。


「やっと会えた……。お風呂以外の場所で」

「は? お前、僕のことが見えてるのか?」

「もちろんだよ。透、ずっとあたしのこと見守ってくれてたんでしょ?」


 茜は目を薄く開き、まつ毛の隙間からほんの僅かに漆黒の瞳が姿を現している。そこには僕の顔が映っているのが、はっきりとわかる。確かに、茜の中に僕がいた。少しだけ悪戯でそれでも心配そうに見つめる僕のだらしない顔が、滲んでくる涙の間から、溢れ落ちそうになっていた。


「おい茜。無理するなよ」

「……めんね」

「え?」


 だけど茜はもう一度目を閉じる前に、そんなことを口走った気がしたんだ。


「ごめんね。それだけを透に、伝え忘れていたから」

「おい、茜!!」


 間もなく担架が茜の真横に運び込まれた。男性スタッフと女性スタッフ、そして担架と共にやってきた救急スタッフの四人で、よいしょと茜を担架に乗せると、そのまま舞台袖まで運んでいく。ステージの上に残されたのは胡桃さん一人。その場で立ち尽くしているように見えたが、よく見るとどうやらインカムで舞台スタッフとこれからのことを確認しているようだった。

 そしてまた次の時間がやってくる。どんなことがあろうと時間は動き続けるんだ。


 何がごめんだよ……。僕は恨み節のように、誰にも聞こえない声を漏らしていたけど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る