アイドルの歌声が聴こえなくなったら
最初は、マイクトラブルかと思ったほどだ。
ライブ一曲目のイントロが終わり、Aメロの一番最初、茜のパートへと移った途端、その異変は表面化した。マイクが茜の歌声をほとんど拾わず、無機質に曲の伴奏ばかりが流れてしまう。マイクトラブルだと勘違いした理由は、確かに茜は歌っていたから。いや、正確には歌う仕草をしていたという表現の方が正しいか。口元は間違えなく動いていたし、その口の動きも歌詞が間違っているようにも見えなかった。もう少し耳を澄ませば、今にも茜の歌声が胸の内側に響いてくるかのよう。これでなんで茜の歌声が聞こえてこないんだ?と考えているうちに、曲は胡桃さんのパートへと移動する。観客席はまだ僅かに騒つく程度だったけど。
胡桃さんの歌声は確かに聴こえてくる。でも冷静に考えてみればそれは当たり前のことだ。曲が始まる前までは、茜の声も胡桃さんの声も、マイクはちゃんと両方拾っていたのだから。茜のパートとは逆に、いつも通りのパワフルな歌声を胡桃さんは響かせる。ただ微かに横目で茜を心配する様子も、見てとれた。茜の方はというと必死になってダンスを披露している。……いや、それだってやっぱしおかしい。いつもの茜なら必死に踊るなんてこともありえないからだ。観客を楽しませようと、余裕の表情で、難しいダンスもさらりと踊ってしまうのが茜だったんじゃないのか。
曲は再び、茜のパートへと移行する。
やはりマイクは茜の歌声を拾わない。桃色の茜の唇がどれほど動こうとも、その声が観客席に届くことはなかった。
さすがに先程よりも観客の騒つく声は大きくなっている。その理由は恐らく、トラブルの諸因がマイクではなく茜自身であることに気づいたからだろう。いよいよ口を動かすのもやっとという状況に、茜の表情も崩れていく。さっきまでは無意識にいつも通り歌っていたつもりだったのか、今更ながら歌えていないことに気づいたかのようだった。つまり茜は自分自身の異変にさえも気づけていなかったのかもしれない。ただそのことに気づいた茜は、あっという間に顔が壊れていった。茜の顔から笑顔が一切失われていく。あんなにもプロ意識が高いはずの茜が、負けず嫌いでプライドの高さが売りであるはずの茜が、まるで歌うことのできなくなったお人形のように……。
その状態のまま、曲はもうすぐサビへと突入しようとしていた。
観客のざわつきはさらに強くなり、胡桃さんも困惑の表情を隠せないでいる。
それでも必死に歌おうとする茜。自慢のダンスもまもなく消えてしまいそうだ。
既に笑みが失われたその顔からは、茜のこんな声が聞こえてくるようだった。
一体あたしは、誰のために歌って、踊っているのだろう……?
再びの胡桃さんのパートが終わり、曲はサビへと突入しようとした。だけど伴奏は徐々にフェードアウトしていき、しまいには無音状態になる。茜の異変に気付いた音響スタッフが、曲を停止させたのだろう。
「アカネ〜!!!」
それは、胡桃さんの絶叫がステージにこだました瞬間だった。
茜の身体が崩れ落ち、横になったまま動かなくなってしまったんだ。
完全に電池が切れた西洋人形のよう。
茜のその顔は僅かに微笑んでいるようにも見えたけど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます