幽霊が無色透明の溜息を溢したら

 ユーイチ先輩とデートした日の夜、茜は、浴槽の隅で小さく縮こまっていた。

 僕にその白い素肌を見られてしまうのはいつものことなので、その点に関しては既に諦めているよう。それでも大切な箇所だけは僕に見られまいと、こんな状況でも無意識に湯船の中へそれを隠している。昨日は確か、『明日はユーイチ先輩とデートするんだ』って意気揚々としていたはず。ところがデートして帰ってくると今日はずっとこの有様だ。別にユーイチ先輩に振られたとか、そういう話ではない。そうじゃなくて、茜は……。


「茜……?」

「…………」


 茜は僕の声に反応して、顔だけこちらの方へと向けてきた。だが声までは返ってくることはない。僕にぶつけてくる弱々しい瞳のその視線は、ひょっとして何かを訴えかけようとしているつもりなのかもしれない。


「いつまでそんな隅っこで固まってるんだ?」

「…………なによ」


 ようやく返ってきた声は完全に面倒くさそうなそれだった。茜は少し睨むように、僕の言葉を跳ね返してきた。


「そもそも、あんたがいけないんじゃない!」

「え、僕?」

「そうよ! 全部あんたのせい!! あんたさえここからいなくなれば……」

「…………」


 そのやり場のない怒りの矛先を僕へ向けることに、茜は答えを求めようとした。恐らくは僕もそれが正解かもと、胸の内ではそう考えているのかもしれない。とはいえ、その先の言葉が出てくることもなかった。茜も僕も、お互いに。茜と僕の間から、言葉というものが消えて失われていく。


「……やっぱり、僕が邪魔なのかな?」

「…………」


 当然の如く、見えない答えなど返ってくるはずもない。


「茜が昨日ユーイチ先輩をデートに誘ったのは、要するに僕のせいなんだよな?」

「…………」


 だが小さく、茜は首を縦に小さく振った。


「ごめんな、茜……」

「お願いだから謝らないでよ! これはあたしの、あたし個人の問題なの!」

「でもこんな風に茜を困らせてしまったのは、結局僕のせいなんだろ?」

「冗談じゃないわ! あんたが何したって言うのよ? あんたは何一つ悪いことなどしてない!! だからこれはあたしの問題。あんたが勝手にでしゃばってこないでよ!!!」


 正直、茜の言ってることは無茶苦茶だった。僕のせいであって、ただし僕には責任がないという。そんな無茶苦茶な話、あってたまるか! 結局のところ僕がここにいることが問題なのであって、そのせいで茜が苦しんでいることに変わりはないじゃないか。

 だったら僕にできることはなんだ? ……いや、そんなのは考えるまでもないこと。僕がここから、茜の前からいなくなればいいだけのことだ。僕が幽霊らしくとっとと成仏さえできれば、茜はこんなにも苦しまなくて済むはずなんだ。

 そうすれば茜は……。


「わかったよ。それなら僕は……」

「ねぇ、透?」


 だが茜はそんな僕の言葉を完全に分断して、そう叫び声をあげた。


「……なんだよ?」

「透はさ、あたしのこと、好きだった?」


 その声は、泣き叫んでいるような喚き叫んでいるような、そんな悲鳴にも聞こえた。そもそも茜の声はそれほどまで強い声だったか? だけどなぜか耳にじんと響くような声で、今でもまだその痛みのような余韻がはっきりと残っている。


「何言ってるんだよ? そんなの今更だろ……」

「答えてくれないの? 透はそうやってはぐらかすの?」

「…………」


 そう。はぐらかしている。そもそも答えられるわけない。その答えがイエスだろうとノーだろうと、今更なんだと言うのだ?


「あの時さ、あたしは透に命を救われたの。透が自分の命を張って。もしあの時、透がいなかったら、あたしは透の代わりにもうこの世にはいなかった」

「そんなの大袈裟だろ。別にあの時の僕は命を張ってたわけじゃない。ただ茜を救いたかっただけだ」

「そうだよ。その通りだよ! 透がいなかったらあたしは今この世には存在していないんだよ? あたしにとって透は命の恩人なんだよ?」

「…………」

「それなのに、透にとってのあたしは、ただの幼馴染なのかな? 本当にそれだけの関係でしかないのかな?」


 そんなの、質問が馬鹿だ。馬鹿にも程があるほど正直過ぎている。

 そもそも今の茜の質問は現在形なのか? そうであるなら答えは決まりきっている。現在形である今は、もうそう答えるしかないのだから。


「ああ、そうだよ。ただの幼馴染だよ。そんなのそうに決まってるだろ!」


 たとえ過去の時点では答えが違っていたとしても、今はそう答えるしかないんだ。


「……てって」


 茜の顔は鬼のような恐ろしいそれに変わっていた。口から言葉が溢れている。


「出てって! もう二度とあたしの前に現れないで!!!!」


 また……。

 茜の強い叫び声が、僕の耳を直撃した。茜は左手のタオルで自分の胸を隠しつつ、右手でその場にあった風呂桶を掴み、それを僕の方へと投げつけようとしている。もちろんそんなもの、幽霊である僕に当たるわけないが、その顔は僕をこの場から追い出すのに十分な破壊力を有していた。僕は慌てて後退りをして、茜が見えない位置まで消えていなくなる。

 もう茜の顔は見ることができない。どうしてこんなことになったのか、僕にもよくわからなかったけど、ただ冷静に考えるとこれがあるべき姿なんだって、そう考えることができたのは唯一の救いだった気もする。


 僕は一つだけ、茜に聞こえない場所で溜息をついた。冬ではないのでその溜息が白く濁ることもない。無色透明の僕の息は、その場で拡散して、すぐに消えて見えなくなってしまったんだ。

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