アイドルが消せない記憶を語り始めたら
「そしたら次は、今日最後の曲にいくね!」
『え〜!??』
茜の復帰ライブはこれといったトラブルもなく進み、いよいよ残すところラスト一曲のみとなったようだ。胡桃さんの声に、観客が強く反発する。今日はあっという間の二時間で、その余韻は物足りなささえ感じさせるものに違いなかったんだ。
「クルミさん。その前に一つあたしに話をさせてもらっていいかな?」
が、そこに茜が待ったをかける。どうやらこれはシナリオ通りではなかったようで、少しだけ胡桃さんも驚いた表情を見せていた。
「もちろんだよ〜! 今日の主役は茜だもん!!」
「それは大袈裟ですよ。今日はあたしの復帰ライブではあるけど、主役はもちろんあたしだけじゃない。胡桃さんも主役だし、この会場にいる全員が今日の主役だもんね〜」
『わ〜!!』
茜の煽りに、観客席全体で応える。だけどすぐにそれを制するように、茜はもう一度観客席に向かってまっすぐ立った。その場で一息つく。同時に観客席も息を揃えて、茜の次の言葉を待ったんだ。
「あたしね。六月に、大切なものを失ったの」
そして茜は、アイドル活動を休業した理由を語り始めた。
「あたしがずっと宝箱の中にしまっていたもの。誰にも盗まれないように、誰にも見つからないように、掌こぶしくらいの宝箱に、たった一つだけ、それをしまっておいたはずだったのにね。気づいたら忽然と姿が見えなくなってしまったんだ」
それは恐らく僕のことであることに僕は気づいてしまった。茜は喩えを使って、僕が死んだことを上手に隠す。よほど大切な宝物だったのか、茜の声はほんの僅かに震えていた。茜を象徴する大きな瞳は少しだけきらりと輝いていたが、そこから涙の粒が零れ落ちることもなかった。
「もしみんなが、この世で一番大切なものを失ったら、どうしますか?」
しんと静まり返った観客席に、茜はそう問いかけをする。その瞬間、少しだけざわつき始めたような気がしたけど、茜はそれを静かな声で汲み取ろうとした。
「怖く、ないですか? 胸が張り裂けそうな、そんな気持ちになりませんか?」
冷たく、薔薇の棘のような、ぎざぎざとした声。
「だけど誰にだってその瞬間は、訪れるものだと思うんです」
大きな鎌を振り下ろすように、その冷酷な言葉を口にする。
「それでもあたしたちは、こうして生きていかなくてはなりません。どんなに暗い闇夜に閉ざされた道であっても、立ち止まるわけにはいかないんです」
茜はゆっくり目を閉じ、そしてまた開いた。瞳の中は白いスポットライトの光が照らし出していて、その奥に潜む深くて蒼い海のような光景が、観客席全体をそのままそっくり飲み込もうともしていた。その力はどこに隠されていたのだろう。茜の声音はもう震えることもなく、真っ直ぐ透き通るように放たれている。
「思うのはあなた一人、また会う日を楽しみに」
あれ? この言葉、前にどこかで……。
「これは、あたしの好きな花の花言葉です。あたしが以前、命を救われた時に、偶然その場所で見かけた白い花で、とても美しい花でした」
あの時か。場所は七里ヶ浜の海岸で、僕にはその花の記憶まではなかった。
「もうあの時に、戻ることはできません。人は絶対に、過去の記憶を書き換えることはできないのです。だからこそもう一度その宝物を探し当てて、今度こそなくないよう、胸のずっと奥の方に強く刻んでおかなくちゃいけないと思うんです」
戻りたいとも思えない過去の記憶であっても、茜にとっては消せない思い出として、それが強く脳に刻み込まれてしまっている。記憶がどんなに茜を襲って来ようとも、茜はそれに立ち向かわなくちゃいけない。
今度は一人で。
「今日の最後の曲はね、大切な人に送り届けるためのラブソングです。みんなにも絶対に失いたくない仲間はいると思うけど、その人のことを想いながら聴いていただけると嬉しいです」
茜の声色はライブ中のアイドルのそれに戻った。身体全体も活き活きと身構えて、表情だって既に笑顔に戻っている。
「よっしゃ。茜〜! あたしはいつもの茜の歌声を期待してるからね〜」
「胡桃さん! これまでご心配おかけしました。今日は最後まで全力で歌いますよ〜!」
会場には曲のイントロが流れ始める。茜と胡桃さんはそれに掻き消されることのない強い声で、今日最後の掛け合いを披露した。
「みんなも準備はいいよね〜! それではいくよ〜!!」
胡桃さんの声に観客も反応した。ボルテージは本日最高潮まで達しようとしている。
「「レディー、ゴー!!」」
今日、ずっと茜は声援に支えられ、一度だって怯えた顔を浮かべることはなかったんだ。
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