アイドルが風呂場に向かって叫んでいたら

 八月に、茜のアイドル活動再開が決まった。

 二週間後の『White Magicians』単独ライブから復帰となるようだ。茜のパートナーである胡桃さんもその決定を祝福し、社長も社長で『これでようやく胡桃の助っ人を呼ばなくてよくなるわ』と肩を撫で下ろしていた。茜のアイドル活動休止中は、代わりに事務所の他のタレントを『White Magicians』のライブに参加させていたらしいのだが、八月は盆休みなども重なり、なかなかスケジューリングが難しかったんだそうだ。どこまで冗談で本気なのかわからない社長の話でもあったけど、茜はそれを小さく笑いながら聞いていて、むしろその顔は自分の復帰を受け入れてくれたことに感謝のみを示していたようだった。


「ねぇ奏ちゃん」

「なんでしょう?」


 社長と胡桃さんを見送った後、チロルハイムに残ったのは茜と奏さんのみ。あ、もちろん僕もここにいるつもりだけど、僕をカウントするか否かは、僕を見た人本人次第だ。


「あいつ、喜んでくれるかな?」

「あいつって、あの覗き魔さんのことですか?」


 すると奏さんは僕の顔を覗き込んでくる。覗き魔とはまた酷い言われようではあるけど、実際否定しようがないから仕方ない。僕は引き攣った顔を何とか笑顔に変換して、それを奏さんに返してみる。


「う〜ん…………とりあえず、笑ってます」

「え、あいつ、ここにもいるの!?」


 茜はきょろきょろ首を振って周囲を確認する。が、やはりともいうべきか、僕と視線が重なることはなかった。


「はい。さっき社長と話している間も、ずっと茜さんのことを見守ってくれていましたよ。正真正銘、根っからの覗き魔さんですね」

「…………」


 そこまではっきり断言されてしまうと、僕も茜も返す言葉を全て取り上げられてしまう。そもそも僕のことはともかく、茜にとってはどうなのだろう。アイドルに纏わりつくストーカーと言えば、現生を過ごす人々にとっては紛れもない犯罪行為だ。ただし現在茜に纏わりついているのは、現生を彷徨う幽霊。幼馴染の幽霊に取り憑かれたアイドルと言えば、それだけでゴシップ記事にされてもおかしくない気もするけど、生憎僕はそんな記事一切お断りだ。


「奏ちゃんはあいつのこと、今でも見えてるんだ?」


 もう一度奏さんは、僕の顔を覗き込んできた。さっきよりは多くの笑みを含んでいて、それに釣られて僕も思わずくすっと笑ってしまう。すると奏さんはさらに笑ってみせた。奏さんは事務所の新人声優という話だったけど、その顔はやはり美しい。黒縁眼鏡の内側に黒い大きな瞳がぱっちりと輝いていた。


「彼、今もちゃんと茜さんの横で笑っています。笑顔が素敵な殿方ですね」

「そっか。……なら、いいんだ」


 すると茜は納得したような表情で、やはり小さく笑ったんだ。奏さんのとは違い、ほんの少し頼りない笑顔だった。何かもっと大切なものを隠すような笑顔で、僕の胸をちくちくと刺してくる。


「何が、いいのでしょう?」

「ん? ……あいつが、怒ってたり悲しんでたりしなければ、あたしはそれでいいのかなって。ほんの僅かだけど、あたしも自信を掴めるから」

「僅かな……ですか?」

「うんそう。ほんのちょっとだけの自信。でも今のあたしにはそれだけで十分」


 何が十分だと言うのだろう。茜にはもっと笑っていてほしいのに。

 例えば、僕がここで怒って悲しんでしまったりしたら、茜はやはり自信を失ったりするのだろうか。そんなことあるわけないって思いたいけど、さっきから何かが僕の胸を締め付けてくるんだ。僕はいつまでも茜の側にいたい。だけどもうそれを許される時間はとっくに失われている。だとすると僕は茜を見守ることしかできなくて、茜はいつまでも笑顔でいてほしい。そう願うだけ。


 だったら、茜は……。


「だけどさ、一つだけあいつに言っておきたいことがあるかな」

「そうなんですか?」


 ところが茜はくるりと振り向き、奏さんに笑ってそう宣言すると、今度はチロルハイムの風呂場の方角に向かって、こう叫んだんだ。


「あたしの風呂ばかり覗いてないで、とっととあたしの前に現れなさいよ〜!」


 およそ誤解しか生まれないであろうその大声は、当然御近所様へも筒抜けだっただろう。茜のやつ、本当に自分が売れっ子アイドルであるという自覚を持っているのだろうか。いやはや、マスコミが嗅ぎ付けてきたら大変な騒ぎになること間違えなしだ。僕は今すぐこの場から逃げ去りたい気分だったけど、生憎逃げ場も隠れる理由さえも持ち合わせていなかった。


「やっぱり。そのことが茜さんにとって不服だったのですね」

「当然じゃない! こそこそあたしのストーカーばかりしてくれて、本当に大迷惑な幽霊よ!! しかもお風呂の覗きとか、あり得ないっつ〜の!!」

「でも茜さんは、お風呂でしか彼と会話することが許されないのですよね?」

「っ…………」


 ただしその点だけは、僕も一言だけ言わせてほしい。

 茜との会話を許されるのが風呂場のみというあり得ない状況は、少なくとも僕のせいではない! 自然の摂理なのか神様の悪戯なのかはわからないけど、そんな状況に振り回されてしまう僕の立場というものも、少しは考慮してほしいものだ。

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