喫茶店に珍しく来客が現れたら

 女子寮『チロルハイム』は、芸能事務所『デネブ』に所属する女性タレント用に用意された女子寮だ。その場所は、都内まで徒歩五分ほどと言えば確かに聞こえはいいけど、東京都心部からは遠く離れた都の最南端のすぐ真裏という具合だし、最寄りの駅だって徒歩二十分くらいあり、決して交通の弁がいい場所とは言い難い。本当にどこにでもある住宅街の片隅にその女子寮は存在していた。

 女子寮の食堂は、昼間は喫茶店『チロル』として一般公開されている。僕は幽霊だから飲んだことないけど、豆の香りからして美味しいコーヒーが飲めそうな風情のある喫茶店だ。だけど昨日からこの喫茶店の中を覗いているけど、一度たりとも客と呼べる人を見たことがない。実はコーヒーが不味くて、誰も近寄らないだけなのかとも思ったけど、美歌さんのコーヒーを飲んだ後の表情から察するに、そういう話でもないようだ。単に客が来ないだけ。ただ表立って宣伝をしていないだけなのだろう。何とももったいない話にも思えるけど。


 そんな喫茶店『チロル』に二人の女性がやってきたのは、茜とお風呂で会話した翌日の昼下がりのこと。最初は喫茶店の珍しい客かと思ったけど、すぐにそうでないことに気がついた。

 二人の女性のうち、一人は僕も見覚えのあるほんの少しだけ年上の女性、高坂胡桃さん。茜と『White Magicians』としてアイドルユニットを組むパートナーだ。僕も何度か『White Magicians』のライブには行ったことがあるけど、その屈託のない天真爛漫さは、茜のくよくよしがちな性格を完全に打ち消すだけの力を持ち合わせていた。

 もう一人は見覚えのない三十代後半くらいの女性……で合ってるよな? 大人の女性は年齢がわかりにくいとはよく言ったもので、雰囲気だけは非常に若さを感じる女性。ただしそこから放たれる何とも表現し難い力強いオーラは、もう少し上の年齢とも思わせる。年齢不詳とはまさしくこの女性のことで、そんな華やかさを持ち合わせていた。


 二人は喫茶店の四人掛けテーブルに腰掛けると、その手前に茜と奏さんが座る。ちなみに『チロルハイム』の他の住民たちはやはり今日もお仕事らしい。


「奏ちゃん。この寮での生活は慣れたかしら?」

「はい、社長。皆さん素敵な先輩たちばかりで、私もとても助かってます」

「よかったわ。この寮も決して交通の弁はよくないけど、奏ちゃんの実家に比べたらずっとマシでしょうしね」

「比較にならないです。電車なんて昼間に数本だけ、バスもあるかないかわからないような私の実家に比べたら、ここが交通の弁が悪いなんてとても思えませんよ」


 奏さんはくすりと笑いながらそう答えていた。なるほど、この女性は事務所の社長だったのか。道理でえげつないオーラを感じるわけだ。


「茜ちゃん! もう体調は大丈夫なの〜!?」

「え、ええ。元々あたしは体調を崩していたわけではありませんし……」


 今度は胡桃さんが茜に声をかける。茜の今の顔色など全く関係ないと言わんばかりに、胡桃さんはステージの上にいる時と変わらない力強い声で茜に迫ってきていた。


「確か地元の幼馴染が交通事故で亡くなったという話だったかと……?」

「はい。社長や胡桃さんにはご迷惑おかけしてしまい、本当に申し訳ございませんでした」

「いいのよ、そんな風に謝らないで。大切な人を亡くした時の気持ちは、私も十分理解しているつもりだから」


 茜に応える社長の声も優しく、茜の気持ちを十分に理解しているかのようだ。そう言えばと僕も以前ネットで調べたある事実を思い出していた。元々芸能事務所『デネブ』は先代の社長を病気で失っていて、事務所は未亡人となる女性が跡を継いだという。恐らくこの女性がその二代目社長なのだろう。事務所の母とも呼べる女性。茜も憧れの大人の女性だって、以前にそう言ってたもんな。


「だけどあたしがお休みしてる間、胡桃さんにも負担かけてしまいましたし」

「そんなの気にしなくても、あたしは全然へっちゃらなんだも〜ん!」

「ええそうね、胡桃には頑張ってもらってる。そこはお互い様なんだし、茜は休める時に休んでおかないとダメよ」

「でも、あたしはずっとみんなに迷惑をかけるばかりで……」


 生温かい社長と胡桃さんの声に対し、茜の声音はまだまだ弱いままだった。いざという時に後ろ向きになってしまうのは茜の昔からの悪い癖。僕はそんな茜を嫌というほど見てきたし、いつもならそれを励ますのが僕の役目だった。だけど……。


「ねぇ茜。本当にあなた、まだ休んでいなくて大丈夫なの?」


 僕の代わりを、今は社長が務める。もっともそれは僕と百八十度も異なる解釈で、氷のように冷たくなった僕の声よりも、ずっと温かみのある暖炉のような言葉だったけど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る