アイドルが幽霊に風呂場を覗かれたら

 僕は幽霊だ。先月末に死んで、幽霊歴はまだ二十日ほど。


 これをまだと呼んでいいものか、実際のところはわかっていない。もっと幽霊歴の長い幽霊さんだって日本中を探せばごまんといるだろう。いや人なんてものは日本という国の中で一日に三千人ほど亡くなるらしい。それなら自分より若い幽霊さんは、少なくとも六万人いる計算になる。なんだ、日本中探したってその程度の幽霊しかいないのかと感じるか、それともそんなにたくさん存在しているのかと思うのかは、きっと個人差というやつに違いない。

 きっと幽霊嫌いの茜だったら、一人たりともいてほしくないと思ってるんだろうけど。


 奏さんの話では、僕がこうして幽霊として存在し、今でも成仏できないのは、茜の記憶がそうさせているからではないかという話だった。記憶なんて言われても、人の記憶なんてとても曖昧で、すぐにでも消えてしまいそうな、本当にちっぽけなもの。見たもの全てを瞬時に記憶して、それをいつでも取り出せるような人間がいたら、そいつはノーベル賞だって取りかねない天才じゃないかって。

 だけど皮肉なことに、茜の記憶が作り出した僕の姿を、茜は感じることすらままならないらしい。さっきだってすぐ側で茜と奏さんの会話を盗み聞きしていたのに、茜は僕の存在そのものに全く気づいていなかった。だとすると幽霊としての僕の存在意義とはなんだと言うのか。

 そんな状況で成仏なんて……。なかなか考えられない話だったんだ。


 幼馴染だった茜が、尊敬する女優春日瑠海さんに憧れて芸能事務所へ入ったのは、今から三年ほど前のこと。そこには茜の憧れしかなくて、僕だって茜が芸能界で成功するなんて思ってもいなかった。当時の茜は黒縁眼鏡をかけた黒髪ツインテールの地味な女の子。今でいうところの奏さんにそっくりの風貌をしていた。性格だって決して明るくないし、学校の人気者だったわけでもない。むしろなんでこんな小さな女の子が芸能事務所に入れたんだろうって、その時点で不思議だったように思う。

 だけど当時からひたすらにひたむきな性格だったことは僕も知っている。何に対しても研究熱心で、どうしたら自分が春日瑠海という魔物に近づけるか、そればかり考えていた気もする。それについては僕も相談を受けたことがある。『春日瑠海にあって自分に足りないものって何?』って。そんなのど素人の僕がわかるわけないと思ったけど、それでも僕は『茜らしさじゃないかな』って、そんな風に答えた記憶が微かにある。


 そして茜は、徐々に出演するドラマの本数を増やしていき、『ポスト春日瑠海』と呼ばれるまでの女優へと成長した。そして昨年は『White Magicians』というユニットでアイドルデビューも果たし、芸能事務所『デネブ』の看板スターとして、自分の道をより強固なものへと変えていったんだ。


 それなのに……。アイドル活動を休業中って、なんだよ!!

 僕がいなくなった途端、そんなことじゃ本当に困るんだけどな!!


 僕は幽霊となり、ようやく昨日茜が暮らす女子寮『チロルハイム』へとやってきた。住宅街のど真ん中に存在する小さな女子寮であるけど、ここには茜だけでなくて、茜が尊敬する春日瑠海さんも暮らしている。茜にとってここほど居心地の良い環境なんてそうないはずなのに。

 僕はそんな茜が納得できなくて、影からずっと見守っているんだ。僕の姿が見えている奏さんに言わせると、きっと僕はただのストーカーかもしれない。だけど会話することさえできない僕にとって、茜を見守る以外に何ができると言うのだろう。


 間もなく日付が変わろうとする深夜零時。茜は風呂場にいた。

 ドアを開ける必要もなく、そのままするりとすり抜けていくと、シャワーの湯煙に混ざって、茜の白い肌が薄っすらと見えてきた。別に覗きをしたいわけじゃない。ただ近くにいて、茜を感じていたいだけ。僕はその場で足を止めて、無闇に茜の姿を見ないようにしながらその場でぺたんとしゃがみ込んだんだ。


「誰!??」


 が、僕はその足音を立ててしまったのだろうか。突然茜が振り向いた。

 とはいえ茜に僕の姿なんて見えるわけないはずだ。仮に見えていたなら、今日一日のどこかで、僕と会話するくらいできたはずだって……。


 茜の視線は徐々に下の方へと降りてくる。ちょうど僕が腰掛けたその視線の高さまで。そのまま一番下まで降りていくものだと思っていたけど、僕の目の高さでぴたっと止まったんだ。茜は慌てて前を向く。まるで僕に大切なものを隠すように。


 茜の白い身体が硬直する。深い溜息と沈黙。やはり何かの間違えだったのか。


「ぎゃ〜!!!!!!!!!!」


 いや、そんなことなど全然なかった。茜は間もなく悲鳴をあげると、シャワーを持ったままその場でしゃがみ込んだ。

 ここで改めて昨晩との違いを振り返ってみる。昨晩も同じように僕がこうして茜の風呂場を覗くと、茜は悲鳴をあげてその場で倒れてしまった。慌てて駆けつけた奏さんによってその窮地を逃れたわけだけど、今日は茜が倒れることも奏さんが駆けつけることもない。


 そっか。これが二度目だ。裸の茜が僕の身体をしっかり認識したのは。

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