アイドルが大切なものをなくしてしまったら

「すみません茜さん。今日は遅くまで手伝わせてしまって」

「いいわよ別に。今のあたしはちょっと暇だしね」


 夜が更けて、時計の針は間もなく二十三時を指そうとしていた。

 芸能事務所『デネブ』の女子寮、チロルハイム。その201号室では、まだ片付け終わらない引っ越しの段ボールがそこら中に転がっていた。奏さんがこの部屋に引っ越してきたのは昨日の夜のこと。ちょうど僕がこの女子寮に辿り着いた直後のことだった。だけどその時はまだ荷物が届いてなくて、昨晩引っ越してきたばかりの奏さんの様子をちらりと覗いた時は、元から備え付けられていたベットしか置いてなかったっけ。

 今日の昼間になって奏さんの荷物は食堂に運びこまれ、それらをようやく201号室へ全て移動し終えた頃には夕方になっていた。真奈海さんに未来さん、そして管理人の優一とやらは仕事があったらしく、その直前くらいに外出していて、故にチロルハイムに残されたのは奏さんと茜だけ。あ、もちろん僕のことも忘れてはいないけど、僕の姿は茜には見えてないらしいので、カウントしなくても別にいいだろうって。


「暇って、茜さんは仕事を抑え気味にしてるんですか?」

「ん〜、アイドル活動の方を少しの間だけ休ませてもらってる感じかな。女優の仕事はまだ続けてるわよ」

「アイドルだけ、休んでるんですか……?」


 奏さんは少し怪訝な顔で、茜の顔をじっと睨んだ。特に敵意を向けているわけではないけど、それでもやはりやや納得はしていないようだ。それは僕だって同じこと。茜があんなに大好きな芸能活動を、サボり気味にするなんて……。


「ちょっとだけ、疲れちゃってね。たまには息抜きもしないとなって」

「息抜き……ですか」

「あたしは真奈海先輩と違って器用じゃないし、プライベートの悩みをちゃっかり仕事でぶつけるなんてできないもん」

「あ、その噂なら私も聞いたことあります。真奈海さん、優一さんに振られて女優を休業して、優一さんを見返すためにアイドルを始めたって話でしたよね」


 何だそりゃ。さすがに僕は初耳だ。あんなに冴えない感じの管理人が、真奈海さんとそんなことをやらかしていたのか? やはりあいつ、本当に只者ではなさそうだ。


「いくら真奈海先輩に憧れてたとしても、あたしはあんな風に強くはなれないな」

「茜さん……?」

「ううん。なれなかった……が正解かな。本当は今すぐにでも過去にしなきゃいけないのに、そう簡単に新しい未来が訪れるわけじゃないってことよね」


 茜は、小さく笑った。それは、何か大切なものを隠すようにも見えたんだ。


「茜さん、本当にあの男の子のことが好きだったんですね?」

「好きだった……のかな? その辺、自分でも本当によくわからないんだ。こんなこと言ってたら、あいつに絶対笑われるんだろうけどな」


 僕は茜の言う通り、内心大笑いしていた。こんなの僕の知る茜じゃないって。

 だけどこんな風に茜から笑顔を奪ってしまったのは、恐らく僕なんだろうって。そんな罪意識を強く感じていたのも事実だ。茜の笑顔は日本中の宝物であるはずなのに、それを僕一人のせいでこの世界から消えて見えなくなっているわけだから。


「……え、あの男の子???」


 だが茜は我に返ると、奏さんの言葉をもう一度反芻してしまった。


「はい。あの顔は、嘘がとても苦手そうな殿方のように思いますね」


 奏さんはにっこり茜に笑みを返して見せるも、茜の方は当然それを受け止めきれず、茜自慢の黒く大きな円らな瞳を二度ぱちくりしてみせる。最初は言葉の意味が理解できなかったのか、その場で固まることしかできなかったけど、数秒後には意識を失うように、ぱたんと真横に身体を倒してしまったんだ。


「お、おい。茜!!」

「あらあら。本当に茜さんは今の君のことが大の苦手なようですね」


 叫ぶ俺の声はもちろん茜に届くはずもない。が、奏さんはそんな僕と茜のことを、無邪気な笑みでばっさりと切り裂いてくれたりして。

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