第24話 誰の声を聞くともなく
「続きはまた明日だ」
毎晩父の話を聞き、ツカサは眠りに就いていた。幼い頃から繰り返し聞いた御伽噺もあれば、父が実際に体験した話もあった。ツカサはとりわけ母の話が好きだった。幼心に朧にしか残っていない母の記憶に、父の紡ぐ言葉で色づけをしていく。何度も何度も、母の話を父にせがんだ。二人の出会いから些細な喧嘩の内容まで、ツカサにとっては全てが胸躍るお話だった。肝心の二人の馴れ初めについては父がはぐらかし、ツカサがしつこい位にせがむと、「また明日」と言って話を打ち切っていた。
ある日、繰り返し聞いた明日という日が、二度と訪れないことツカサは知った。模様の刻まれた四角い箱だけが手元に残り、他の全ては海が持っていた。話の続きをして欲しかった。ツカサがそう告げることの出来る相手はもういない。
ツカサの父は漁に出て、鮫に喰われて死んだ。
前日の夜に聞いた話をツカサは思い出せない。父の言っていた「続きはまた明日」という言葉だけが記憶の中に残っていた。
目を覚ましたとき、ツカサは自分に続きの明日があることに気付き、落胆した。
どうしようもないほど失敗し、繕いようのない失態を犯した。挙句自身の暴走が自分を大切にしてくれた人の命を奪った。
寝て起きると記憶と心は整理される。引き千切られそうな胸の苦しみも、幾ばくか薄らいでいた。開いたツカサの目に映るのは見慣れた自分の家である。
顔に絡む髪を払ったとき、手についた血に気付く。衣服を見て、昨夜のことがまた鮮明によみがえった。血のあとも、ちぎれた裾も変わらずそこにあった。乾いた血が砕けて落ちる度、心が欠けていくことを自覚した。
水で顔を洗い、身なりを整えて一息つく。ツカサの記憶は、トキシマにヒイラギの躯を渡したところで途切れていた。あれから何があったのか、聞く相手は何処にもいない。
そう、ヒックが何処にもいなかった。
「ヒック、ヒック。いないの」
何度も声をかけてみるが、家の周りには気配がない。
ツカサはヒックと話がしたかった。ヒック以外に話せる相手もいなかった。どのような顔を村人に向ければいいのか。自身の暴走で無駄に人を死なせたことは明白であるのに。だから、ヒックと話がしたかった。村の仕組みに、しがらみに縛られていないヒックが傍にいて欲しかった。
「ヒック…。」
呼んでも誰も返事をしない。
ツカサはため息をつき、それと共に空腹を感じた。もう日が高い。昨夜から動き通しで何も胃に入れていなかった。とはいっても何かを口にする気力はなく、ましてやキリクの家に手伝いになど行けようもない。結局、ツカサは整えた身なりのままもう一度寝床へと転がった。
次にツカサが目を覚ますと、もう夜になっていた。相変わらずお腹は空腹を訴えていたが、やはり何かを口にする気にはなれなかった。少しだけ水を飲み、外を見る。船は一隻も浮かんでおらず、皆浜に上げている。ツカサは星の位置から既に村人が寝静まった時であることを確認し、家から出た。
丘を崖沿いに進み、東端の見張り台に近づく。見張り台には誰もおらず、篝火や資材なども残っていなかった。しかし見張り台の壁に残る染みが、地面に着いた争いの後が、そこで起きていたことを記録していた。
ツカサは見張り台の上から村の姿を見て、昨日までそこにあったはずのものに思いを馳せる。
踵を返し、森へと向かう。明かりは持っていなかったが、不自由はなかった。進む方向は考えていなかったが、足は自然と先へと進む。森へ入って数刻の後、村人の誰も立ち入らない場所へ着いた。少し開けた場所。
「やっぱり」
一言そう呟いて、ツカサは再度歩き出す。
今度はそう時間が掛からずに到着した。忘れようにも忘れられない。昨日最後の戦闘を行った場所。ヒイラギが命を落とした場所。先ほどの開けた場所との距離はとても近かった。
「ヒイラギさん」
昨日のヒイラギを思い出し、ツカサは黙祷する。権利などないことはわかっていても、それでもせずにはいられなかった。
しばらくして、もう一度先ほどの場所に戻った。当然ながら、相変わらずそれはあった。ツカサは語りかける。
「結局、あなたは何がしたかったのよーークキナ」
腹が割け、両目が潰されたクキナの死体に向かってツカサは問う。
「少なくとも、こんな風に野垂れ死にたかったわけじゃないというのはわかるけれど」
クキナの死体は獣に荒らされたりはしていなかった。偶然なのか、それとも。
ツカサはこの場所にヒックがいることを僅かながら期待していたが、その目論見は外れた。そして、懸念していたことが実現したことを悟る。森の奥、潮村の方角に灯りが見えたのだ。どうしようかと考え、あがく必要はないと決めた。この辺りが潮時だと、ツカサは腹を括る。
程なく、数人の男衆と共に村長が現れた。
「これは、お早いお着きで」
「ツカサよ。今の村において、お主の一挙手一投足は全てが大事じゃ。口ぶりからするに、わかっておったのだろう」
「はい。予感、でしたが」
「して、そこにカシナの躯が?」
「――はい」
クキナの死体、その下にある不自然に盛り上がった土をツカサは指差す。
「私がここに埋めました」
周囲の男衆がざわめく。村長はそれを手で制す。しばらく黙り、そして「そうか」と言った。
「そうか、では共に来てもらおう」
「はい」
*
潮村の政は独任制である。村長が全ての決定権を有しており、その指針に従い村民が行動を取る。村長の直下には相談役、書記官、漁師団の筆頭、そして女衆の代表の計四人が就くことになる。村長と直下四名の会議の経緯は村民には不開示とされ、書記官のつけた記録に目を通すことを赦されるのは歴代の村長だけである。
ツカサが村長と共に森から村へ戻った後、日が昇ってすぐに会議は開かれた。別室で待機させられているツカサは、すぐに結論が出るもとの思っていたが、しかしどれほどの時が経っても村長達が部屋から出てくる気配がない。太陽が真上を通過し、西の空が茜色を帯び始めてようやく、ツカサに声が掛かった。
廊下を先導され、会議の部屋へと連れて行かれる。戸を開くと、五人の視線が一斉にツカサへと集まった。
ツカサは一歩部屋へと踏み入る。すぐに後ろで戸が閉まった。
「ツカサ」
漁師団の筆頭であるトキシマがツカサに声をかける。切谷村と戦っていたときとも、ツカサがヒイラギの躯を担いで森から出てきたときとも違うトキシマの目線。
「カシナの喉の傷は小刀でつけたものか?」
「…え?」
「カシナの喉だ。傷があるだろう。あれは小刀でつけたものかと訊いている」
「え、いえ…。えっと、矢じりです」
ツカサは戸惑いながら思い出し、答える。
それを訊いた五人は小難しい顔をしながら肯く。
「そうか、わかった、下がっておれ」
村長の言葉と共に戸が開き、わけもわからぬままツカサはまた別室に待機させられた。てっきりその場で処罰を言い渡されるものと思っていたので、ツカサは拍子抜けしてしまう。
その後も何度か、ツカサは会議の部屋へ連れ出されたが、聞かれることは単なる事実確認のようなものであった。一つ質問が終わるたびに別室へ戻され、しばらくしてまた呼び出される。その繰り返しが両手で数えれない程になった辺りで、ようやく会議の部屋より村長達が出てきた。
日は既に沈みきり、宵も深みに進んでいた。
張っていた気もついには緩み、床の上で船を漕いでいたツカサはその足音で目を開ける。ツカサの目の前には村長含め五名が揃っていた。
「お決まりになりましたか」
先に口を開いたのはツカサだった。ツカサの言葉に五人のうち、村長とトキシマだけが足を止める。他の三人はすぐに部屋を出て行った。
「お歴々と言えども、難儀されたようですね」
「本当に、お前には難儀させられる。ヒイラギの心労がわかろうというものだ」
トキシマが口にしたヒイラギの名に、わずかばかりツカサの瞳は揺れる。トキシマは既に乗り越えていて、ツカサは既に飲み込んでいること。誤魔化すように、ツカサは訊ねる。
「私の処分はどうなりました?」
「まあそれは後回しだな」
「後回し、ですか。しかしあなた方はそれを決める為に集まられたのでは」
「ん?」
ツカサの言葉にトキシマは村長と顔を合わせる。しばしの間の後、村長は合点がいったと手を打った。
「なるほど、ツカサはそう考えておったのか。であれば、今日は辛い待ちぼうけとなったのう」
「それはつまり、どういった意味でしょうか」
言葉の意味が判らず、ただ和やかな空気をかもし出している村長に、自身との理解の齟齬を感じ、ツカサは問う。しかし、村長は首を横に振るばかりで何も語らなかった。
「まあ今日はとりあえず帰って寝ろ。明日また迎えに行くから」
村長の変わりにトキシマが応えた。言葉そのものはツカサを気遣ってはいたが、その言い様には有無を言わさぬ雰囲気があった。
「わかりました」
ほとんど待ちぼうけだった部屋を背に、ツカサは帰路へと着く。
明日また迎えに、という言葉からツカサは自身に対して何か知らのお達しなり何なりがあることを悟った。後回しにされた処分以上の何か、それもツカサに関係する何か。ツカサには予想もつかない。
覚悟は空振りとなり、さりとて安心できる状態でもない。こんなときに話が出来る相手がいればーー少し前までは考えもしなかった気持ちになる。ヒックは今日もツカサの前に顔を見せなかった。ヒックがどこに行ったのか、ツカサは知らない。知る由もない。また村の何かを調べに奔走しているのか、それとも既にこの村から去ってしまっているのか、様々な想像をめぐらすがこれだという答えにツカサは辿りつけないでいた。
あれだけ神の居城に関心を抱いていたヒックがそう簡単に村に見切りをつけはしないだろうという予感はツカサにもあったけれど、それだけだった。だからといってどこにいるのかとは答えが出ない。
「そうか、ともすれば私に見切りをつけたのかもしれないわね」
村に見切りは付けずとも。
ツカサは夜道に何かを求めるように、辺りを伺いながら歩いた。
本当に一人になった。
父を失ったときに抱いた勘違いが、今度は勘違いではないのかもしれないとツカサは思った。
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