第23話 後始末すら掠め取られ
クキナは何度も何度も意識を失いそうになりながら、森を進んでいた。致命傷かもしれない、助かるかもしれない。少なくとも今は生きている。そんな思いで必死に森を進む。
「へっ、へへっ、死んでたまるかよ」
東へ、ひたすら東へ。自分の故郷へと足を向ける。かなり森の西側へ進んでいたせいで、村まではおよそ簡単とは言えないほどの距離があるが、それでもクキナは体を動かす。
生きていれば勝ち。それがクキナの身上であった。
忌み嫌われる双子として生まれ、弟の代わりに村から捨てられたときも、必死の思いで歩いて切谷村に転がり込んだときも、生きていれば勝ちだとクキナは自分に言い聞かせていた。
「終わらねえぞ。まだ、まだまだあの村には、まだまだまだ」
うわ言のように呟きながら、歩く。腹からこぼれる血は、量こそ多くないものの一向に留まる気配は無い。けれど、まだ生きている。
歩いて、クキナは少し開けた場所に出た。森の気まぐれのように木々が生えていない場所。特別何かがあるというわけでもなく、水源も近くにない、強いて言うなら一部に枯葉が集まっていることくらいであった。
少し休むか、それとも動き続けるかわずかにクキナは逡巡する。
しかし、もとよりその必要はなかった。
「おあつらえ向きだね」
背後の森から急に声がして、クキナは身構える。周囲を見回すが、人の姿はない。
「ここが何処だか知ってて来たのかな。たどり着いたのかな。ただ偶然に来たのだとしたら、あんたの選択はいい線突いてる」
ざかざかと、風が無いのに草木が揺れる。
クキナは聞き覚えのある声に、先ほどの悪夢を思い出した。脈打つのは傷のせいか、それとも早鐘を打つ心臓か。
「く、くるな」
クキナは声の出所がわからず、踊るようにその場をくるくると回る。滴り落ちる血が円を描いていた。
音が正面から聞こえたと思えば、次の瞬間には頭上から聞こえてくる。足元に響いたと思って目をやると、背中に冷たい視線を感じる。
「怖いのかな」
あざける様な声に、地面に転がる石を投げる。木の幹に当たる虚しい音が響くだけであった。
「くそ、畜生、虚仮にしやがる」
「そりゃするよ。あんたはもう僕の獲物だ」
クキナは首筋に生暖かい熱を感じ、急いで振り向く。その刹那、右目にヒックの爪が抉り込んだ。
「あぁぁぁぁぁぁ!」
痛みに思わず膝を着く。クキナの視界は片側が赤く染まり、その内壁は燃えるような痛みを生み出していた。叫び声を上げながら、やたらめったらに腕を振り回すが、何にも触れることは無い。
「半分になったね。余計に僕を見つけられないね」
「化けもんが、お前、お前何なんだよ」
怖さを紛らわすように、痛みを遠ざけるように、クキナは叫ぶ。
ヒックは笑った。
「さて、何だろうね。自分としてはただの猫なんだけどね。きっとここでは違うんだろうね」
ヒックは笑った。人間のように笑った。
クキナが駆け出す。動物のように駆け出す。腹の痛みも抑えて、この場を離れようと走り出す。そして今度はその左足に痛みが走った。ヒックの爪と牙が足の腱を削いでいた。
「う…あ、あぁ」
クキナが四つんばいに倒れる。残った片目にヒックの姿が映った。
ヒックは正面からクキナをねめつける。
「やあ、ようやく見つかったね」
「嘘だ。こんなことあるかよ。こんな、馬鹿げたこと。嘘だ、嘘で、嘘がーー。」
「ねえ、話を聞いてくれるかな」
下からクキナの顔を覗き込み、ヒックは問いかける。クキナは焦点の合わない目を向けながら、しかしどこか虚空を見つめていた。
「嘘だ、嘘で、嘘が、嘘の…嘘嘘嘘嘘」
「おい、まだ壊れるなよ」
言葉と共にヒックはクキナの左手を穿った。手足の支えを失ってクキナは仰向けに転がる。再び来た痛みで、クキナの意識は目の前のヒックに引き戻された。
「や、やめてくれ」
「何を?」
「殺すな。殺さないで」
「殺さないさ。あんたに訊きたいことがあるんだ」
ヒックはざらついた舌でクキナの首を舐める。ざらついた感覚にクキナは息を呑んだ。
「訊きたいことって…。」
「神の居城、何処にあるの。知ってるよね。知ってるから潮村に攻めて来たんだよね」
「…それを知ってどうする」
クキナの傷口にヒックは爪を差し込む。
「訊いてるのは僕で、答えるのがあんただ。わかるかい。この喉裂いてやろうか」
「わ、わかった。わかったから」
「だったら、早く言いなよ」
「言えば、見逃してくれるのか」
「また質問だね」
再度繰り返される苦痛に、しかしクキナは脂汗を滲ませながらも耐える。
「あら、案外強情なんだ」
「見逃すと約束をーー」
「はぁ、わかったよ。僕はあんたの喉を裂かないと約束するよ」
「……絶対だぞ。俺の知ってることを全部話すーー」
そしてクキナは喋る。自分の見聞きした全てをその猫に伝えた。生きていれば勝ち。そう思い、全てを話した。
聞き終えた猫は、
「へえ、そうなんだ」
と呟いた。
「ありがとう。知りたいことは貰えたよ」
その言葉の後、一瞬でクキナの視界からヒックが消えた。
クキナは安堵する。死の恐怖が去ったことに胸を撫で下ろす。しかし、同時に違和感に気付いた。視界から消えたのはヒックだけではなかった。森も星も空も、世界が視界から消えていた。
「え…。」
手を顔に当て、理解する。左目に何かが突き刺さっていた。そして、わき腹から何かがなくなっていた。
「あ、ああ、あぁぁぁぁぁ」
止め処なく流れ出る血が、クキナの周りを満たしていく。触れているものは暖かいのに、クキナはこれ以上ない寒さの中にいた。
「ああ、そうそう。一つ忘れてた。お礼を言っていなかったよ」
見えない景色の中、ヒックの声だけがクキナの中に響く。
「ヒイラギを殺してくれてありがとう。どうにかしなきゃと思っていたんだ。彼は僕の秘密を知ったからね。知られたからにはいなくなってもらわなきゃならない。でも彼を殺すのは大変そうだった。丁度良かったよ。ありがとう」
ヒックの声は落ち着いていた。落ち着いて、怒りを込めていた。
「本当にありがとう。よくもヒイラギを殺してくれて。ありがとう」
「こ、殺さないって、見逃すって…、約…束」
「僕があんたに約束したのは、喉を裂かないってことだけだよ。矢じりで目を刺しちゃ駄目なんてあんた言ってなかっただろ」
「こ、の…糞…ば、ばけもーー」
「さて、一仕事終わりだね。安心しなよ。近くに弟がいるんだからさ」
不自然に積もった枯葉の上でクキナは冷たくなっていく。下に弟が埋まっていることなど露と知らず。
クキナは負けた。
*
「片付けてきた」
ヒックはヒイラギの躯の傍らに佇むツカサに告げた。ツカサの足元には血が広がり、衣服の裾には赤黒い染みがこびり付いていた。今にも朽ちそうな木のように、乾いて軋む音がツカサから響いていた。
「あいつは死んだの?」
ヒイラギを見つめながら、光のない瞳でツカサは訊いた。星明りも月明かりも一切を写してはいなかった。何かが欠けた時こうなることをヒックは知っていた。人間も同じような反応をするのだと、ヒックは場違いながらも驚いていた。
ヒックは応える。
「ああ、やってきたよ」
「これで二人目ね」
「そうだね」
「私は八人」
「そりゃまた随分と」
「その内一人は、ヒイラギさんよ」
ツカサはヒイラギの体を抱きしめる。生きている間には一度もしたことがなかった。ツカサはいつも、ヒイラギから与えられる側だった。
「伝えるべきことがたくさんあった気がするの。返せてないお礼があった気がするの」
ヒイラギの体にすがる。心が崩れないように、必死でツカサはヒイラギにすがる。それでも、ヒイラギの体からは何も返っては来なかった。
「どうすればよかったのかな」
「何もしなければよかったのさ」
「――。」
投げかけられた当然の答えに、ツカサは殴られたような衝撃を受けた。知っていたけれど、気付きたくないこと。
「ツカサが村で大人しくしていれば、僕とヒイラギはこの森に入ってこなかった。この森に入らなければ、ヒイラギは死ぬことはなかっただろうね」
ヒック自身、自分の物言いが不思議でならなかった。今も声を出しながら、何故自分はこんなことを言っているのだろうと首を傾げていた。ただツカサを慰めるだけならば、優しい言葉をかけてあげればいい。ヒイラギはツカサの為に死ねて本望だったとか、彼の思いに報いるためにも前を向かないと、とか。そんな甘いだけの何かを垂れ流していればいいのだということはヒックも知っていた。そうすれば多少はツカサの重荷も取れるだろうに。しかしヒックはそうしないことを選んだ。その理由を誰あろうヒック自身が一番知りたがっていた。
どうして僕はこんなにも憤っているのか。
それがわからないまま苛立ちはつのり、わからないことにまた憤りを感じている。
「ツカサが切谷村の連中を追い回した理由はわかるよ。クキナの匂いはあの日シイナを襲った奴らの一人と同じだった。だから理由はわかる。でもね、判るからって、それが正しかったとは言えないよね」
「でもだったら、どうして私じゃないの。どうしてヒイラギさんなの。どうして」
「そういうものなんだよ。自分の考えに正したがって突き進んで、振り返らずに進み続けて。そうやって蔑ろにした分だけ削り落とされていく。大事なものを無くしてから大事だったって気付く。抜け落ちた部分に、欠けた形がとても愛しい空虚さだとわかる。そういうものなんだよツカサ。その前に気付ける奴はほんのごく少数で、そしてきみは大多数だっただけだ」
「だとしたら私は」
その先は言葉にならず、ツカサは慟哭した。小さな体を震わせた声が空気を揺らすたび、ヒックは髭の先がちりつくのを感じた。
しばらくして、声も彼果てた頃、ようやくツカサは顔を上げた。
「連れて帰ろう」
「村の人間を呼んだ方がよくないかい?ツカサ一人じゃヒイラギは重いよ」
ヒックの言葉に、ツカサはそれでもいいと首を振る。
今まで何度も支えてもらったことをツカサは知っている。気付けなかった優しさもきっとあった。それを返すことはもう出来ない。だとしたら、せめて連れ帰ることだけが自分に出来る役割だと、ツカサは思ったのだ。
ツカサは冷たい手を肩に掛け、ヒイラギを背負う形で立ち上がる。一歩目を踏み出した所で足を上手く使えずに転げた。
「う…。」
「ほら、やっぱりツカサじゃ無理があるってば」
「大丈夫、大丈夫よ」
顔についた土を払い、ツカサはもう一度立ち上がる。ぐらつく足を拳で叩き、無理やりに歩を進める。
ヒックからすれば見ていてあまりにも危なっかしい光景であった。その危なっかしさは不安定なツカサの歩みではなく、虚勢を張るその心にこそ感じていた。
「大丈夫だから、帰ろう。ヒイラギさん」
一歩目こそ転びはしたものの、そこから先のツカサは一度も止まることはなかった。歩みは牛歩よりもなお遅いくらいであったが、それでも前に少しずつ進み続けていた。前にしか道がないように、進むしか方法がないように、ツカサは村へと歩き続けた。
夜が白み、朝焼けが浜を照らす頃にようやくツカサは森の端、村の見える丘に抜けた。
「やっと帰ってきたね」
「ええ、そうね」
最早汗も枯れ果て、声すら碌に出ない状態となりながらもツカサは何とか意識を繋ぎとめていた。その姿は幽鬼のようで、裾にこびり付いたヒイラギの血もあいまって、尋常ではない雰囲気を醸していた。
運が悪いのは果たしてツカサかヒックか。一人と一匹が抜け出てきた場所は東端の見張り台のすぐ傍であった。
見張り台には人がいた。半目を開いて寝ているのだか起きているのだか、曖昧な状態で見張りをしていた潮村の少年は、森から抜けてきたツカサを見て驚きのあまり声を失った。無理もない。起き抜けに血だらけの少女である。しかもよく見れば、その少女は村で最も忌避されているツカサなのだ。少年にとっては二度驚きである。加えてツカサが死体を背負っているとあれば、少年が驚きのあまりジーワを鳴らしてしまうのも無理はない。
それから大した時間もかからず、東端の見張り台は村の男衆で埋め尽くされた。
皆がツカサとヒイラギの躯を指差して互いに声をひそめ合う。
当のツカサは、披露と困惑から何も言うことができないでいた。ツカサを遠巻きに男衆がざわめいている間に、送れてきたトキシマがその中に割って入った。
「ツカサ、お前戻ってきたんだな」
「…トキシマさん」
「戻ってきた奴らが、お前がいつのまにか消えたと言っていたからどうしたのかと思ったがーーおい、その背負っているのはまさか」
トキシマがツカサの背に乗っているヒイラギの顔を見て言葉を失った。
ツカサは小さく肯く。
「ヒイラギさんよ。私を助けてくれた。助けてくれて、死んだわ」
「ヒイラギーー。」
トキシマはヒイラギの頬に触れ、全てを知る。ヒックはトキシマの目に涙が浮かんだように見えたが、トキシマが空を見上げて大きく息を吐いた後には、それは見えなくなっていた。
「ツカサ、重いだろう。俺が代わろう」
そう言ってツカサの背からヒイラギを抱え上げると、トキシマは回りに集まっていた男衆に指示を出し始める。生来の友を失ったばかりだというのに、漁師の長は少しも弱さを見せてはいなかった。
男衆があわただしく動き始め、ツカサは意識を失った。
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