第21話 続くものを振り払うのならば

 ヒックとヒイラギは走っていた。

砂浜で、船に乗って切谷村を追い立てるツカサの姿を見て駆け出したヒックとヒイラギ。東端の見張り台までは岸壁沿いに船を追えたが、そこから先は追いすがることができなかった。切り立った崖とすぐ先に広がる森林。船を持たない彼らが選べる道は一つしかなかった。

 故に、一匹と一人はひたすら森を走っていた。

「方向、こっちであってるんだろうね、ヒイラギ」

「ああ、間違いない。切谷村はこの森を突っ切った先の川を北上した場所にある。切谷村の連中が村へと退避するなら川を少し上った辺りで船を捨てて徒歩に切り替えるはずだ。このまま行けばどこかでそれにぶつかる」

「あいつらにそこまでの冷静さがあれば、だけれどね。興奮した人間がどう動くかはわかったもんじゃないからなあ」

「生きるためなら冷静じゃなくとも最善手を選ぶだろう」

「安直な方法とも思えるけどね。案外、切谷村の人間は全滅してたりして」

「・・・なくはないが、あって欲しくもないな」

 ヒイラギは苦悩するように顎の髭をさする。

「もし全員殺してしまっていたら、和平に支障が出るかもしれん」

「どういうことさ、ヒイラギ。殺せるのなら別に問題はないんじゃないの?」

「恐怖よりも怒りが勝るかもしれないだろ」

「仕掛けてきた側が負けて怒るのか。はは、面白いね、筋が通らないよ」

「それが人間なんだ、ヒック」

 ヒックはふうんと肯き、尾をうねうねと動かした。

「だとしたら僕らにとって芳しくないかもね、今の状況は」

「そりゃ芳しくないだろ。早く止めないと、ほんとにそうなるかもしれない」

「いや、そうじゃなくて、その前にさ。今逃げてる切谷村の連中だって、どこかで反撃に出てくる可能性だってあるわけじゃないか」

 ヒックの言葉にヒイラギは意識していなかった危険に気付いた。

「よくないよね」

「先頭で追ってるツカサが最もやばいってことじゃないか」

「そういうこと」

 森の中を東へ、ひたすら東へ走る。ヒックは当然だがヒイラギも切谷村へは足を運んだことがなかった。ゆえに正確な位置はわからない。切谷村の連中が通る場所がわかるのは、唯一川だけだった。切谷村の者達がそこを通る以上、追っていればツカサもそこを通ることになる。

 そこを捕まえる。

 一匹と一人の認識は共通していた。ツカサの安全が最優先。村の状況や他の男衆のことは二の次である。一匹は自分の利のために、一人は自分の意思のために。

 森の広がりはとめどなく、一匹と一人はひたすらに道を急く。ヒックは時折匂いに集中をするが、ツカサの匂いは届いてこない。そしてそれは良い面と悪い面を共に孕んでいる。

「ヒック、一つ質問をしてもいいか」

「何だい、今ちょっと匂いに集中しているところなんだけど」

「片手間の会話でいいさ。ヒックと気兼ねなく話をできる機会はそうないからな」

 片手まで構わないと言いながら、ヒイラギの声音は真剣であった。

「ヒック、お前は何をしようとしているんだ?」

「何をって、どういうことかな」

 ヒックは体を緊張させる。いつ何が起こっても対応できるように。

「俺がお前を初めて見たのは、ツカサが贄となるはずだった日だ。あの日、ツカサの家にいつの間にかお前はいた」

「・・・それで?」

「それからだ。海神が死に、カシナが死に、争いが起きた。今まではどれも俺達の村になかったものだ。神が死ぬことも、村人が村人を殺すことも、他の村との争いも、なかった。全てお前が現れてから起きている。今までなかったことが、この短い間に起きている。これは偶然か」

「僕が起こしてると、そう言いたいのかい。僕が何かを仕組んでいると」

「そこまでは言っていない。ただ、偶然にしては出来すぎていると思ってるだけだ」

「簡便してほしいよヒイラギ。僕だってそれらの騒動には参っているんだからね」

 実際のところ、ヒイラギの言っていることはあながち的外れではない。ツカサに海神殺しを諭し、共に狩ったのはヒックであり、またヒイラギは勘違いをしているが、カシナを殺したのはツカサではなくヒックである。それが遠因となって切谷村が攻めてきた以上、今回の争いもヒックに責がないわけではない。しかしもちろん、ヒックがそれを望んでいたわけでも毛頭なかった。

「ヒイラギ、君がそんなことを言い出すのは、ツカサのことが心配だからだ。今どうしているかわからない彼女のことが心配で、疑心暗鬼に囚われているんだよ。どんなことだって疑わしく思えてくる」

「俺は・・・。」

「だけど大丈夫だよ。間違いなく、僕はツカサの身を案じている。彼女には是非とも無事でいてもらいたいと思っているし、それを守るために全力をかけるつもりさ」

「本当か?」

「ああ。この尻尾に誓うよ」

「そうか、それなら安心する」

 ヒイラギの言葉に、ヒックは以前より考えていたことを思い出した。

「ねえヒイラギ、君はどうしてツカサをそこまで気にかけるのさ」

「どうしてって、おかしいか」

「おかしいかどうかはわからないけれど、不思議ではあるんだ。ツカサはヒイラギの娘というわけじゃない。兄弟でもない。そしてつがいでもない。猫の常識とすれば、大切にする理由がない」

「そうだな」

 そこで一瞬、ヒイラギはこの上ないほど寂しそうな、薄く消え入りそうなほど弱弱しい顔を浮かべた。ヒックはそれに気付いたが、何も言わなかった。

「ヒックはツカサから、あの子の母親のことは聞いてるか?」

「うん。前回の神守に選ばれた人だよね」

「そう、村の誰に聞いてもそう言うだろうな。前回の神守、カマツ。だが俺にとっては違う。あの人はひたすらに正しくて、優しくて、美しかった。役割とか立場なんてどうでもよくて、ただそこにいるだけで俺は幸福を感じられた。あの人といた時間だけが、俺の人生において思い出す価値のあるものなんだ」

 仕舞った宝箱をこっそりと開いてほくそ笑むように、ヒイラギは今いる場所とは違うどこかに思いを馳せる。

「ヒック、俺はあの人がいなければ間違いなく今生きちゃいないんだ。だから、あの人が残していったものは、あの人が大切にしていたものは、俺が守りたいと思うんだよ」

「その気持ちは、わからなくもないかな」

 今いない誰かの思いのために生きている。ヒックもそれは同じだった。故郷に今も置いてある自分の大事な一部。それは確かにヒックの中にもあるものだった。だから少し、理解できた。それでも。

「何かがあったんだね、ツカサの母親と」

「そうだな」

 ヒイラギは一際目に光を込めた。

「俺が餓鬼の頃に、酷い時化が来たことがあった。時化ってのは海が滅茶苦茶に荒れる日のことを言うんだが、その日の荒れ方は尋常じゃなかった。そんな日は村の皆は家から出ずに雨風の対策をするんだが、俺はどうしても海の様子が気になってな、やめとけと言われたんだが浜に入ってみた。予想通りの大波に気をとられてたら引き潮に足を絡め取られて、気が付いたら自力じゃ引き返せないところまで海に引き込まれていた。明かりもない、方向もわからない、潮の匂いが体を満たし始めた頃に、俺は助けられた。カマツが助けてくれた。荒れる海に割って入って、自分自身も死にそうになりながら、それでも俺を離さず岸まで連れ帰ってくれた」

 だからさ、とヒイラギは言う。

「そのときから決めてるんだ。あの人と、そしてあの人が大切にするものを俺も大切にすると」

 ヒックはヒイラギの言葉に頷く。

「それが、ヒイラギがツカサを気にかける理由なんだね」

「ツカサは村に残った唯一の大切にするものだからな」

 ヒックは何かを言いかけたがやめた。鼻の先に、嗅ぎなれた匂いが張り付いたからである。髭を立て、耳を広げて域を吸った。間違いない。

「ヒイラギ、ツカサの匂いだ」

 ヒックがそう口にした瞬間、ヒイラギとその周りの空気が一層険しさを増す。

「どっちだ」

「このまま、北東の方角から漂ってくる。汗の臭いが濃い。緊張しているのか、それとも興奮しているのか、どちらかだよ」

「急ごう。距離はわかるか」

「そう遠くはないと思うけど、近くもないね」

 一匹と一人は一層速度を上げる。

 駆ける最中、ヒック嫌なことに気付き、顔をしかめた。

「まずいね」

「どうした、ヒック」

「ツカサ以外の匂いがする。血の匂いも混じってるから人数まではわからないけれど、一人じゃなさそう」

「血の匂いって」

「複数あるから、これも誰の血かわからないな」

 複数あるということそのものが危険信号であることはヒックもヒイラギもわかっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る