第20話 目に灯った炎の行方を知らず

「いない」

 高台の神社に到着したヒックは誰一人としていない境内を見回して呟いた。ツカサを探しに来たのだが、期待はずれもいいところだった。

 高台から海に目をやると、今まさに村の船が切谷村の船に向かって一直線に進んでいるところだった。

「作戦通りやるつもりだね」

 ヒックは満足そうに頷くと、そのまま海岸へと掛け戻った。むやみやたらに候補地を探し回るよりは人の集まる場所に行ってツカサの情報を集めようと考えたからである。ヒックが走っている間に村の船は切谷村の船団の間を抜け、前方へと突き抜けて行っていた。

 浜に戻るとヒイラギが満足そうにその様子を見ていた。ヒイラギは多数の男衆が集まっている場所から少し離れた位置に一人で座っていた。

「いいのかい、肝心要のときに皆から離れていて」

 周りに誰もいないことを確認し、抑えた声でヒックは言う。

「ああ、ヒック。別にいいんだよ、俺は作戦を立案しただけで指揮する立場にあるわけじゃないし。始まってしばらくは指示も出したけれど、あの様子なら上手くいくだろ。それに、一人でいないとお前が俺に話しかけ辛いしな」

 足元に来たヒックを野良猫をあやすような動きでヒイラギは軽く膝に乗せた。

「それで、ツカサは?」

「まだ見つからない。話でも転り込んでないかと期待してここに戻ってきたんだけれど、その様子じゃあ」

「何もないな。どこ行ったんだ、うちのお姫様は」

「船に紛れ込むっていう最悪の事態は起きていないみたいだけれど」

 ヒックがちらりと海上に目を向けると、丁度切谷村の船から篝火が一つ海に落ちたところだった。

「ん?」

 外からはじかれたようなその篝火の動きにヒックは目を凝らすが、特に変わった様子は見られなかった。少し沿岸部へと目線を帰ればツカサのいる位置が視界に入るのだが、暗さと遠さも相まって、ヒックはそれに気付かない。

「お、始まったみたいだぞ。ヒック、お前の作戦が。さっき俺は作戦を立案しただけと言ったけれど、そもそも作戦考えたのはお前だから、俺は本当に皆に伝えただけだな」

「その伝えるってのが僕には一番難しいことなんだけどね。それにしても、凄いね」

「いやいや、ヒック、お前が考えたんだろ」

「それはそうなんだけどさ、実のところ、実行できるとはあまり思ってなかったからね。それに、実際見てみると壮観だなと思って」

 浜の至る所に、数人の男衆の列が出来ている。村の男衆は体格の良いものが多いが、その中でもより一層献体の男が一人、怒号を立てていた。その男の声に合わせ、列になっている男衆が一斉に手に持つ縄を引く。全部の列が同じ動きをしているわけではない、掛け声によって奥の列が動いたり、蚊と思えば手前の列が動いたりとせわしない。

「見てみろよヒック、それらしく動いてるぞ」

「人間の共同作業って奴には目を見張るものがあるね。たったこれだけで、海神の動きを真似られるなんて」

「ただ単に、死体を使った張りぼてだけどな」

 浜の男衆が縄を引いたり戻したりする度に、入江の中央では海神の死骸を使って作られた剥製が水面をかき乱していた。綱は入江の中に立てられてた杭に掛けられ、それぞれが複数本の杭を経由して海神の死骸に結ばれている。引く方向や本数を変えることで、定められた杭を経由して海神の死骸に力が加わるようになっていた。不規則に見える海神の動きも遠めに見れば一定の範囲内を行き来しているだけだとわかる。しかし目の前に迫る恐怖に混乱している切谷村の男達はそんな分析など露ほどもできなかった。

 ヒックは虚仮脅し程度に使えればいいと考えていたのだが、現状、海神の死骸は想像以上の効果を上げている。船の足は止まり、もはや波に流されるだけになっている。そしてその後方からは切谷村の船めがけて矢が山のように飛んでいた。

 戦争というにはあまりにも静かに行われたこの戦いは、始まっていくらと時間の経過しないうちに、この村の勝利が決定した。

「終わったのかな」

 多くの船で立ち上がっている人間よりも倒れている人間の方が多くなった辺りでヒックは呟いた。

「これ以上は続けようがないだろう」

「切谷村の人たちは死に損だね」

「争って得する人間なんていないさ、あいつらもーーお、ほら見ろよヒック」

 ヒイラギが切谷村の船を指差す。船は転進し、入江の外へと向かって散り散りに逃げ始めていた。

 一塊になっていた目標が離散して逃げるので、こちらの村の船から放たれる矢はさほど効果を示さなくなった。船は切谷村の船を追わず、波の穏やかな岸壁近くに留まる。

「殺し切らないのかい?」

「今ならそれができるかもしれないが、この村の目的は神の居城を守ることであって、切谷村の連中を殺すことじゃない。この一軒であいつらは事の難しさを理解しただろうから、そうそう同じ事を繰り返しはしないだろうよ」

「でも、いつかはまたやってくるんじゃないの。それこそ、目的の神の居城がこの村の何処かにあるんだから」

「その前に村長が切谷村の村長と話を付けるだろ」

「そんなものなのか、人の戦争って」

「そんなもんだ。争いなんて」

 浜辺から見える切谷村の船は最早数隻となっていた。

その残りも東端の岸壁を回って姿を消そうかというとき、不意に怒号が立ち上った。

「・・・どうした」

 沖の様子から視界を外していたヒイラギは突然の変容に戸惑う。それは隣で毛づくろいを始めていたヒックも同様だった。

 ヒックはヒイラギに問う。

「ヒイラギ、村の人たちとはこの戦いどこまでやるって決めていたの」

「村長含めた話し合いでは、撃退できればそれでいいって話だったはずだ。さっきも言ったように、一度引っ込めてくれれば、後は村の長同士で話し合いすれば方がつくはずだから」

「だったらあれば?」

 ヒックが鼻先で示したのは、切谷村の船を追う潮村の船だった。

「あいつら、取り決めを忘れたのか」

 想定外の出来事にヒイラギが目を見開く。

「一隻だけこっちに帰って来ているみたいだけれど。あれはけが人かな」

「他は全部追っているじゃないか」

 戦時中の特殊な精神状態というものをヒックは文献で目にしたことがあった。人という生き物は、多くの場合殺し合うことを躊躇いもするが、特異な状態に置かれた場合、その限りではないという。

 潮村にとってはーー少なくとも今の村人達にとってはーー初めての戦い。その上一方的と言ってもいいほどの快勝。彼らの心が昂ぶり過ぎてしまってもおかしなことではない。では、彼らはそういった状況下にあるのか。ヒックの答えは否である。

 どうにも統制が取れている。興奮に駆られて、逃げる者に追い討ちをかけているような姿ではない。この村の船は外からも囲むように切谷村の船へと近づいている。さして大きくない船が陸地から離れることは危険が付きまとうが、今はその最悪の脱出方法すら防ごうとしていた。明らかに誰かが指揮を取って行動を起こしているように見えた。

「ヒイラギの知らない所で作戦に変更でもあったんじゃない?個々が好き勝手やってるようには見えないけど・・・それにーーヒイラギ?」

 反応のないヒイラギをヒックが見上げる。ヒイラギの顔は土気色になっていた。目だけでなく口まで呆けたように開いている。

「いや、ヒイラギが驚くのはわかるけど、そんなにかい?」

「あ、あれ・・・。」

 ヒイラギは船の一団を指差す。ヒックがその先を目で追う。何に注目すべきかわからないまま。

 水分も尽きたような擦れた声でヒイラギは言う。

「あれ、ツカサなんじゃ」

「・・・は?」

「船にツカサが乗ってる」

「まさかそんな」

 ヒックは言われて再度船に目を凝らす。切谷村の船を追いたてるように追走する船の中、最も相手に近い一隻に見慣れた髪の毛が揺らいでいた。どう見ても男衆の後姿ではない。

「船が出る時には絶対に乗ってなかった。あの子ならひょっとしてと思ったから、そこにだけは細心の注意を払ったんだ。俺が見落とすはずがない。なのに」

「理由はどうあれ、あそこにいるのは確かだよ」

 猫と男は目を合わせる。一拍の間を置いて、双方は駆け出した。


 *


 夜の海に光が走る。その先には亡霊のようによろめきながら逃げ惑う火。同じ松明を焚いた明かりのはずなのに、その熱量はあまりに違っていた。ツカサが率いる潮村の船は、それぞれが荒ぶる波のごとく切谷村の船を飲み込まんと追いすがる。既に指揮もなく士気すらない切谷村の者達は追いすがる光の波に飲み込まれないよう、必死に火を揺らして前へと進む。

「放て」

 ツカサの怒号と共に潮村の船から矢が飛び出す。幾人かの命を奪い、恐怖を助長する。ツカサが弓を射るよう号令をかけたのはこれで三度目だ。その度に切谷村から命が削られていく。

 しかしツカサの心は荒れていた。荒ぶる船を体現するかのように。

苛立ちの理由は件の男であった。逃げる切谷村の船、その一団の先頭にあの男は乗っていた。顔に布を巻いている異様な出で立ちの男。ツカサの目的はその男なのだ。その男を置いて他にない。行きがけの駄賃のように切谷村の男たちを狩りながら、ツカサは布巻きの男以外をまったく気に留めていなかった。あの男だけ、それだけ。

あれは私からシイナを奪った奴なのだから。

放っておけばまた何かを奪われる。生かしておけば、またどこかを削られる。

ツカサの思いは布巻きの男を視界に捕らえる度に加速し、歪んだ熱さをその身に抱え始めていた。

切谷村の船は入江の東端を過ぎ、岸壁の傍を通り抜け、ついには森から流れ出る川へと進んでいた。汽水域は既に越え、左右には高い木々が見え始めている。この川を一直線に上流へと向かえば、そこには切谷村がある。とはいえ未だ遥かにその距離は遠く、切谷村の傍まで戻る頃には船の上には人一人も残らないであろうことは、どちらの陣営にも理解できていた。

当然ツカサもそのつもりでいた。布巻きの男が先頭にいる以上、道中の全ては潰さねばならないのだから。

河川の入り口から見て西側には潮村と切谷村を分ける森が広がっている。こちら側から森を抜ければツカサの家の裏手につく。森は広く、ツカサも家の裏からこの川まで来たことはない。川を挟んで東側も森は広がっているが、川の東側は西側に比べて遥かに高い位置にある。まるで片側にだけ壁があるようだった。

川に入り込んだとき、状況が変わった。ツカサとしては、近づいて矢を放つ機会をうかがうつもりだったのだが、そもそもその近づくということが出来なくなっていた。河川に入り込んだ途端に、切谷村の船に離されるようになった。彼我の速力には差がつき、弓で射るのが困難な位置まで距離が開く。切谷村の船が早くなったわけではない。川を上るという状況、海よりも速度は落ちる。しかし、切谷村の船はその落ち幅が少なかった。逆に言えば、潮村の船が顕著に遅くなったのだ。船に乗っている潮村の男達は皆漁師である。海で操舵することには慣れていても、川はその範疇に入っていない。

潮村の遅れを見て、切谷村の動きが変わった。真っ直ぐに川を駆け上らず、川岸に船をつけ、森の中へと入り始めたのである。河口からずっと接岸する場所はあった、しかし、降りている間に後ろから射られる可能性も同様にあった。それが払拭されたのを見て取り、切谷村の男達はすぐに行動を起こした。

森は深く、目で追うのが途端に難しくなる。

「まずい」

 森を進み、切谷村にまで逃げられたら手の出しようがなくなってしまう。潮村に攻めてきたのが切谷村の全員であるわけもなく、間違いなく村にはそこを守る者達がいるはずである。そして、切谷村まで攻め上げてしまうと、今度は潮村の方が侵略者として扱われる。潮村を守るという大儀の元に行っていたことの意味が変わる。

 ゆえに、この森がツカサにとってあの男を討ち取る最後の機会である。

「すぐに船を着けて、私達も行きますよ」

 ツカサの号令で船は川岸に着けられる。勢い勇んでツカサは陸に上がろうとしたが、目の前にいた男衆の一人が動かなかったため、その背中にぶつかった。

 強く打った鼻頭をさすりながら、ツカサは微動だにしないその男の顔を見た。

「どうしたのですか」

 男の目には先ほどあった火とは違う、水底のような重い色が宿っていた。

「もうここまででいいんじゃないのか」

 誰かが言った。周囲も同様に頷いていた。ツカサは気付くーー誰一人岸に上がろうとしていないことに。男の瞳に映る色が冷静さの色だということに。

 激情を原動力にできる地点はとうに過ぎていた。追いたて追い回し、放った矢で人が一人死ぬたびに、潮村の男達は心が冷静になっていった。命の危険を感じずに、相手にのみそれを与える状況を命を賭して漁を行う男達は受け入れられなくなっていた。加えて、普段入ることのない深い森。足踏みするには十分な状況であった。恐怖を抑える術を男達は持っていたが、殺意に身を任せる狂気はもち合わせていなかった。誰かのために怒りを抱くことはできても、それを保つ手段は男達の中はなかった。

 その場で一人、唯一未だ狂気と殺意を持ち合わせているツカサだけが、熱量を失った男達を理解できなかった。

 まだ終わっていないのに。

切谷村の奴らは何人も生き残っているのに。

あの男の命が続いているのに。

「どうして!」

 ツカサが吠える。

 夜に響くその声は誰にも受け止められることなく、潮村の男達は船を反転させ始めていた。

 誰も戦いを続けることを望んでいないことに遅まきながら気付いたツカサは、自分だけでも岸へ降りようと船のふちに足をかけるが、後ろから掴まれた。

「離して、私は続けるから」

「駄目だ、戻るんだ。やることはやった。やるべき以上のこともやった。あいつらに恐怖は刷り込ませた」

「あなた達は来なくていいから、私が勝手にやるから」

「子供を一人置いていけるわけがないだろうが」

 ツカサは押さえつけられ、船尾に座らされる。そんなやり取りの間にも、船は方向を変えて川を下り始める。

 布巻き男の姿は完全に見えなくなっていた。

 ここで終わりか、とツカサは歯軋りをする。襲ってきた奴らを撃退して、追い立てて恐怖を植えつけて、それで終わりか。明日からは平和な日々が続く。村長同士が取り決めを行い、握手をする。皆が事態の解決に胸を撫で下ろして笑う。ご飯を食べて寝て、朝起きたらキリクの家の手伝いをして、時間があるときには森へ行って、ヒックと話をして、またご飯を食べて寝て。そんな生活を送る中でも、あの布巻き男がどこかで普通に生きている。日差しが気持ち良い朝も、風が体を駆け抜ける昼も、虫の合唱が始まる夜も、どこかであいつが生きている。そんな理不尽が赦されていいはずがない。

 ツカサの目に再び黒い炎が灯った。

 船が岸の近くを通った瞬間を計り、静かに船のふちから陸へと飛び移る。他の船は全て前を進んでおり、同船している者達も戦闘の疲労や緊張の糸が切れたことで、ツカサの動きに気付くことはなかった。

 引き返して下った分だけ切谷村の接岸場所からは距離が離れている。それはつまり、村に向かって逃げているであろう切谷村の者達からは大きく水を開けられているということだった。ツカサにとって最初にやるべきことは、布巻きの男が切谷村に逃げ込む前に追いつくことである。

 ツカサは切谷村の者達が船を放棄した場所まで進むと、足元を確認する。布巻きの男が乗っていた船から出ている足跡は四つ。どれもが森の西方へと向かっていた。

切谷村に向かうには川沿いを真っ直ぐ北上するのが理に適っている。事実、足跡の多くはそのように川沿いを進んでいた。布巻きの男とその傍にいた者達がそうしなかったのは、潮村の者が追ってきたとき、川沿いではすぐに見つかるから。ツカサはそう予想した。更に先、では西方に向かった者達がどう動くかを考える。ずっと西方に進み続けるはずはない。せっかく逃げてきた潮村に近づくことになるからである。どこかで北に進路を変える。であれば、その分岐を見逃さないようにすれば布巻きの男の後をつけることができる。

「逃がさない」

 言い聞かせるようにそう呟いて、ツカサは追跡を開始した。

 ツカサにとって幸いだったことが一つ、数日前に降った雨が深い森の底を未だに湿らせていたことである。ぬかるんだ地面は逃走者の経路を如実に現し、追跡を容易にしていた。一度も訪れたことがない夜の森を星明かりのみを頼りに走る。注意と警戒を要するその作業の中で、痕跡の確認が比較的簡単であったことはツカサの気を幾分か楽にした。

 足跡は北西へと直進している。どこかで東寄りに進行方向が折れるはずなのだが、ツカサが想定したよりも森の奥深くへと進んでいた。

「まだ、まだ」

 一定の拍子でツカサは小さく呟く。自分の中に基準を作るように、言葉と歩数で川からの大まかな位置を常に測り続けている。潮村の東端から上陸した川岸までは全て海岸沿いを岸を掠めるように進んでいたので、森の広さは大体頭の中で想像できていた。その思い描いた地図と照らし合わせながら、自分の、そして布巻きの男の位置を予測する。

 潮村側から入ろうと、川岸から入ろうと、どちらにしても同じ森であることに変わりはなく、生えている植物も見覚えのあるものばかりである。正常な生え方をしているそれらの中に、時折歪んだものが見て取れた。紛れもなく人が通過した跡である。木の根や雑草が多くなり始めた辺りから足跡の確認は難しくなってきていたが、植物の示す印がツカサを件の者達へといざなっていた。

 しばらく進んだ後、逃走者の痕跡が進路を変更していた。ツカサの想定どおりである。誤算があるとすれば一つ、その痕跡が二手に分かれていることだった。

二人は森の西方へ。

二人は森の北東へ。

北東へ進むのはツカサにも理解ができる。切谷村へ向かうのに最短である川沿いの道に戻ろうとしているのだ。潮村からの追っ手が川沿いの道を進んでいたとしても、一度森の中を迂回したので、時間的には背後を取れる。反撃の力が切谷村の者達に残っていれば、それは不意打ちという形で潮村へと向けられることになる。実際は追っ手はツカサ一人なので不意打ちも何もないのだが、切谷村の方にはそれを知る術はない。だから、北東に進むのは理解が出来た。

しかし、とツカサは首を傾げる。完全に西へ進路を取っているのはどういうことか。これでは進む先は潮村である。逃げてきたというのに、また戻ることになる。逃走するふりをしてその実、再度強襲を行うというのはない手立てではないが、たった二人で何ができるのか。土地勘は間違いなく相手側にある。ツカサには相手が焦りのあまり間違えたのか、何か考えがあってあえて進んだのかがわからなかった。

 分岐に長く留まりすぎている。どちらに進むにせよ、すぐに決めなければならない。正解の確率は二分の一。ツカサにとって布巻きの男がいなければ追う意味すらない。

西か北東か。

ツカサにとって一つ確かなことは、西に進んだ二人があえてそちらを選んだのだとしたら、素直に北東へ進んだ二人よりも厄介であるということだった。命のかかった場面で、あえて定石を外すのならばそれなりの何かがあるはずだと、ツカサは推察する。

「西側へ向かった奴らが潮村に何か仕掛けにいったとしたら面倒ね」

 村を守るため。大義名分を掲げてツカサは西方へと進路を変える。それが言い訳めいた言葉であることはツカサも薄々気付いていた。ツカサは一瞬自分の中に浮かび上がった考えを否定するためにあえて、村のためという理由を作ったのだ。

 ツカサは否定する。自分をここまで駆り立てるあの布巻きの男が、死線にいるこの状況であえて定石を外すような厄介なやつであって欲しいという気持ちを。自分に不幸を与えたあいつはせめて大したやつであって欲しいという望みを。

 ツカサは否定する。

「村のためよ」

 誰に聞かれているわけでもないのに、ツカサは言葉を繰り返す。そうすれば真意が薄まるとでも言うように。

 西方への道はより一層樹木が生い茂り、星明りも乏しくなりつつあった。目と耳だけでは知覚が足りず、手で触れて痕跡を確かめる。少しずつではあるが、痕跡は徐々に新しいものへとなりつつあった。つまり、ツカサと追っている相手との距離が狭まっていることを意味していた。

 気を張りながらの時間が過ぎていく。痕跡は途絶えることなく西へと向かっている。これだけ西へ偏った進み方をした以上、北東へ分岐した二人を追うのはもう無理だとツカサは判断した。二者択一を間違っていれば、布巻きの男は無事に切谷村に到着したことになる。正解を願いながらツカサは黙々と西へ続く痕跡を追い続ける。

 やがて、川から相当離れ、海岸からもかなりの距離があるそんな森の深くに辿り着いた。ツカサはその場所に見覚えがあるような気がした。既視感の正体を突き止めるために目を凝らすが、少し前から雲がかかっており、あまりに星明りが乏しいので上手くいかない。しかし、村からこの場所に来るとしても相当時間をかけなければ無理であることを考え、ただの思い違いだと結論付ける。

 そんな風に、一瞬でも痕跡を追うことから意識を逸らしたのが悪かったのか、ツカサはここまで追ってきた痕跡をはたと見失ってしまった。

「……。」

 ツカサは慌てない。確実に痕跡を確認できた場所まで一度戻り、そこから再度辿り始める。地面の痕、草の曲がり具合、動物の気配、それらを全て追跡に役立てる。

 が、しかし。

「うーん…。」

 今度はツカサも首を捻った。またもや同じ場所で痕跡を見失ったのである。完全になくなったわけではない。何かが擦ったような痕や、人と思しき足跡も確認できる。しかし、その痕跡にはまとまりがない。ある程度の情報量と傾向性が集まってようやくツカサにとって判断できるだけの痕跡として扱えるのだが、ここにはそれがなかった。

 ツカサは考える。考えてしまった。

 自分が負う側だという思考が、狩のときであれば十全に発揮できたはずのものを奪い取った。それは判断力。考える前にまず決めて動くということをツカサは徹底できなかった。

 だから気付かなかった。風を切る音が鳴り、矢がツカサの髪を掠め、はらりと地面に髪が数房落ちるその瞬間まで。

 ツカサ自身が今まさに狙われていることに。

「まさか」

 途端に血の気が引き、額から落ちる汗の温度が変わる。あとわずかにずれていたならば首に矢が突き刺さっていた。その事実に体が緊張を始めている。しかしツカサは経験と精神力で強張ろうとする体を無理やり前へと転がした。二射目が風を裂く音が聞こえる前に木の裏にその身を隠す。一呼吸、二呼吸、息を止めないようにゆっくりと意識して吐き出す。少しだけ余裕ができた。

ツカサは持っている情報を整理する。西へ向かった痕跡は二つ、切谷村からは離れた場所、一射目と二射目で異なる角度、逃げるためではなく狩るために動いた奴ら。

もしも休戦を申し込んだらどうなるかーーツカサは即座にその見当を却下する。状況が相手に有利すぎる。全体を見ればツカサが行っていることは敗残兵の処理であり、相手からすれば見逃してもらえるのならば受け入れるということも考えられるが、それは相手が圧倒的にふりな場合に限る。居急所的に見ると、複数対一人の状況でしかもツカサは女である。見逃すからやめにしようと言って受け入れられるかには甚だ疑問が残る。

何より、もしもこちらに布巻きの男がいるのだとしたら、ツカサ自身が戦いを止めることを容認できない。

 ではどう狩るか。ツカサが頭を捻るべきはそこにあった。

 しかし、状況はおいそれとツカサにとって容易くは動いてくれない。攻め立てるように次の矢がくる。先ほどとほぼ同じ角度から二本矢が飛んできた。移動の音で位置を悟られないように動かずにいるのか、続く矢も同じ角度から。大木の裏に身を隠すツカサには当たらない。

 射手は片方を正面に捉えた場合、もう片方が九十度ほどの位置にいる。挟まれているわけではないので、それらに背を向ける形で後退すればツカサはその場を脱することができる。当然ツカサはそのことに気付いており、脱出する際の道順を目視で確認した。森の中、木が乱立しているため、逃げ切ることはそう難しいことではない。そしてツカサはその策を実行することを頭の中では概ね確定させていた。行動に移らないのは、理性以外の部分で訴えるものがあったからだ。

布巻きの男があのどちらかかもしれない。

 怨敵がすぐ目の前にいるかもしれないという思いがツカサをその場に留まらせていた。

 それでも、無茶をしたところで相手を狩ることはできない。ツカサの理性が明確に無理だと告げ、体もそれに従おうと脱出のための機会を測り始めたそのとき、状況に変化が起こった。

 空を裂く矢の音が変わったのだ。渇いた鋭い音の中に、重く爆ぜる音が混じる。同時に身を寄せていた木が明るく熱を持った。

「火矢」

 ツカサが身を隠す場所を無くすと同時に光でツカサの正確な位置を探ろうとしている。状況としては更に不利になった形だが、ツカサはほくそ笑んだ。

 一射毎に矢に火をつける必要がある以上、射線と火元が丸分かりであった。ツカサの位置を知りつつ自身の位置を隠匿していたはずの切谷村の二人は、自ら何処に潜むかを晒す形になったのである。

 焦って下手を打った。ツカサはそう判断し、退却を決断しかけたその体を前に向けた。火がついた木から大きく離れる。動くツカサの姿を追って、とめど無く矢が放たれるがどれもツカサの体をかすりもしない。夜の森に乱立する木。ゆれる炎。そして明るい場所が出来た分だけ、闇はより深く黒を増す。その全てが距離感を狂わせる。

 五度目の矢がツカサの身を逸れた頃、ツカサは完全に闇に身を隠していた。

 ツカサは注視する。音の情報は全て気に留めないことに決め、目に見えるものだけに集中する。四足獣のように低く屈めた身で一片の光も漏らさぬよう辺りを見回す。星明りと燃える木以外の光源、暗闇の中に二点、それを見つけた。火矢を射るための火種をツカサを見失ってなお消さなかった。

 馬鹿ね。

 言葉に出さず、胸のうちで呟きながらツカサは地を貼った。燃える音と風の音に紛れるようにしてより近い方の光源へと接近する。

 今にも矢に火を点けようとするその背中を見つけた。布巻きの男ではない。体格も違う。それを意識した頃には既にツカサは矢を射っていた。矢は背中から正確に心臓を捉える。何かを言おうと口を開いたのでもう一射、それは喉に当たった。崩れ落ちる男を見て、後味の悪さがツカサの中に遅れてやってきた。

 男が倒れる音はもう一人にも届いた。残る一方の光源から声が聞こえてくる。

「おい、モロウ、モロウ・・・やられたのか、おい」

 その声が耳に届いたとき、ツカサは駆けていた。隠れることも隠すことも全てかなぐり捨てて、声の元に向けて一直線に最短を駆ける。

 あの声だ。布巻きの男の声。

 ツカサは手の中の弓を強く握り矢を番える。視界に捉えた刹那に射抜くそれだけを思い、森の中とは思えない速度で駆けた。

 男は火種の傍にいた。ツカサはそれを見て、同時に相手もツカサを見つけた。布巻きの男は顔に巻いていた布を解くと前方へと投げる。ツカサと布巻きの男との間に布の幕が広がる。標的が見えないままにツカサは矢を射るが、木に当たる渇いた音だけが森に広がった。

「おお、怖いな」

 嘲るような男の言葉にツカサの視界は赤黒く染まった。もう直接でないと気がすまない。距離も近い、間を空ければ逃げられるかもしれない。

 ツカサは腰に挿していた手のひらほどの刃渡りの刃物を抜き、火種の傍に控える男に突き出す。男は咄嗟に持っていた弓でツカサの手元を制した。押し返す力の大きさに押し合いでの不利を悟り、ツカサは一歩下がる。距離を取り直して弓で射るか、それとも刃物を差し入れるか。

 考えならが、相手の動向を探ろうと男の顔に目をやったツカサはーー初めて捉えた男の顔を見て、固まってしまった。

「そんな、カシナ・・・。」

 筋張った頬、痩せた首、値踏みするような目、その全てが記憶にあるカシナそのものだった。

「ありえない、だって、貴方は私が、ヒックが、殺し・・・殺してーー」

「へえ、あいつを殺したのはお前なのか。こんな子供にやられるとはな、ほとほと使えない弟だな」

「弟?」

 男は笑う。その笑いはツカサがあの夜みたカシナの笑いと瓜二つだった。

「そう、俺はクキナっつーんだ。カシナは俺の双子の弟さ。まぁ、似てるだろうよ。ただ似てるのは顔だけでな、中身はずっと優秀。子供を嵌めるなんざ朝飯前だ」

 クキナが一層頬を歪ますのと同時に、ツカサの右足に激痛が走った。

「あ・・・がっ」

 痛みの元は足に突き刺さった矢であった。射ったのはクキナではない。背後から、ツカサは足を貫かれた。

 痛みと共にツカサは理解する。

二人ではなかったのだ。分岐点では西に二人、北東に二人だったが、実際には北東の二人も西の二人を追うように途中で進路を変更していた。西に追っ手が掛かったときにそれを更に追えるように。相手の人数を誤認していたツカサは、最初から狩られる側だった。

ツカサが気付いたときには既に遅く、背後から二本の矢に狙われていた。

 ツカサの取り落とした小刀を拾い上げ、クキナはそれをツカサの首筋に当てる。

「引けば終わりだ。今日お前らに殺された奴らのことを考えりゃ、お前の命なんかじゃまったく足りないがな」

「そっちが仕掛けてこなきゃ、こっちだって」

「おいおい、先に俺らの仲間を殺したのはお前だろうが。忘れてねえぞ、森の中で獣みたいに襲ってきやがって」

 今日のことではなく、シイナを襲ったあの日のことをクキナは言っていた。そしてそれは最もツカサを怒らせることだった。

「シイナを襲ったじゃない。あんな小さな子供を、あんた達は!」

 首に当てられた刃物を気にせず、ツカサは身を乗り出して吠えた。

「あの日あんた達が来なければ、シイナは、私は」

「森の中で急に刃物持った奴と出くわせば慌てるだろうよ。つい自己防衛で手が出ちまっただけさ。悪いことしたとは思っちゃいるが、それでも殺される程の事じゃない」

「黙れ、黙れ黙れ。全部詭弁じゃない」

「お前が黙れよ」

 声と共に再度ツカサの足を矢が貫く。

「んーーーっ」

 ツカサは歯を食いしばり痛みに耐える。右足は完全に使えなくなった。正面にはクキナ、背後に弓を構えた男が二人。弓は落ち、刃物は奪われている。状況を頭で理解すると同時に、命の終わりを覚悟した。

「殺すなら、今すぐにでもやりなさいよ」

「それもいいんだが、お前、カマツの娘だろ」

「何で、母さんの名前をーー」

「潮村のことについてはカシナから聞いてる。神守に関する部分は特にな。お前、前回神守に選ばれたカマツの娘だよな。カシナから聞いてた特長と一致する」

「だったら何」

 不屈の態度を見せるツカサに対し、クキナはカシナそっくりの下卑た笑い顔を見せる。首筋に刃物を当てたまま、頬を掴んで顔を上げさせた。

「神守の娘ってことは次の神守候補でもあるだろ。だったら殺さず捉える価値は十二分にあるな。安心しろ、今殺しはしないからよ」

 いずれは殺す。言外にそう言って、クキナはツカサから一歩離れる。

「人質一人できれば、もう一度潮村に仕掛けることができる。存分に役立ってもらうぜ、えーっと、何て名前だったか・・・。まあ名前なんか何でもいいか」

 クキナの言葉が終わる前に、ツカサは背後から思い頭部を強打され意識を失った。

 消える視界の中思い浮かんだのは、同居人の猫のことだった。

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