第18話 心配を置き去りにして

 ツカサは舞台から消えていく青年を見ていなかった。それよりも大切なことがある。自分がすべきことがある。

 矢が青年の腕に刺さったと同時に、ツカサは引き絞った弓から矢を放っていた。一射目と二射目、そして今の三射目で射手の位置は把握できていた。森のことは隅から隅まで知っている。石壁を狙える場所。狙える中で青年の位置を補足できない場所。全てが射手の場所を示していた。

 木々をすり抜けた矢は射手に的中し、森から鈍い落下音が聞こえた。ツカサにとってその結果はわかりきったことである。既に注意は別のことに移っている。

 つまり、他がいるのかどうか。

「・・・。」

 呼吸も止めて、音だけに集中する。射手が落ちる音から後には何も聞こえない。ひとまずは安心してよさそうだった。

 それでも周囲への警戒は取ったまま、ツカサは森の中へと踏み入った。

 音の立った方へと進むと、予想通り一人の男が倒れていた。倒れる瞬間も後生大事に握っていたのだろう、弓と矢がその男の手に握られている。呼吸は聞こえない。狙ったわけではないがーー狙えるわけもないーーツカサの放った矢は男の胸を貫いていた。

 鈍く冷たい鉛が胸に流し込まれたようにツカサは感じた。ここ数日感じていた気持ち悪さがまたぶり返してくる。

「はっ・・・はぁ、はぁ」

 浅くなる呼吸を無理やり続けようとして目眩がした。ツカサは自分が慌てていることに気付き、ひたすらに息を吐いた。吐いて吐いて、出し切れるまで息を出す。そうすれば次は勝手に肺の置くまで空気が飛び込んでくる。

 呼吸を整え、冷静さを取り戻した頃には例の気持ち悪さは薄らいでいた。

森の奥から人の気配が伝わってこないことを確認し、ツカサは岸壁へと戻る。冷やりとした風が東端の崖からまくるように吹き上がってくる。崖の下に目をやるが、もつれ合って落ちた青年と男の姿は目に見えない。矢傷そのものは致命傷ではなかったが、この高さでは。何か浮かんでこないかとツカサが更に目を凝らしていると、黒い水面に不可解な影を見つけた。

 水面が嫌に暗い。

 夜の海だ。星明りがあるとはいえほとんどは漆黒。暗いのはおかしいことじゃない。だけれど、その一角はあまりにも暗すぎた。一つ気付けば全てに目が行く。水面に浮かぶ影は一つではなかった。より不可解なことはその影が水中ではなく水面を滑るように動いているということだった。海の生き物ではない。

「だとしたら、私の役目は」

 思い至り、ツカサは石壁に立てかけてあった松明に手を掛ける。服の端をちぎり、背から抜き出した矢の一本にそれを巻きつけた。手にした松明の先端に矢をあてがい、巻いた布に火を灯す。即席の火矢のできあがりである。

 石壁の上に立ち、角度をつけて矢を水面へと射った。

 風を切る音を甲高く響かせ、水面に映る影へと火矢は吸い込まれていく。水面より少し上、影の表面で火が広がった。

「やっぱり、もう来てたんだ」

 火矢に射られた船は覆っていた布を払いのける。黒く染められた布の下から幾人もの男達が姿を現した。

 視線が崖の上に向けられる遥か前にツカサは身を伏せている。予想通りの結果だが、当たって欲しくはない結果でもあった。

 突然の強襲に崖の下からわずかに怒号が聞こえるが、波が岩を打つ音に掻き消されて内容までは聞き取れない。ツカサはほんのわずかに崖から顔を出し、眼下を確認する。いまや水面に広がっていた黒い影は全て布を取り去り、その姿を現していた。相当な数がある。間違いなく先駆ではなく切谷村の本軍である。

 村へ知らせなければ。

 このまま駆けて村まで戻って間に合うだろうかと思案したとき、ツカサは先ほどの青年の行動を思い出した。

「確かこの辺りだったはず・・・あった」

 石壁の傍に木で出来た四角い箱が落ちていた。ツカサは箱を手に取る。箱には見覚えがあった。昔父が海上で使っていたものだ。獲物の発見や緊急事態を知らせるためのもの。

箱の一端に穴があり、その反対側に麻で出来た細い縄が取り付けられている。縄を目一杯伸ばすと、ツカサの背丈の倍以上になった。縄の端を持ち、ツカサはいつか見た父のように箱を振り回す。最初はゆっくりと、力なく回っていた箱がツカサの腕の力を推進力に代え、どんどんと加速していく。一定の速度を超えたとき、箱の側面が遠心力により横へと滑った。箱の中に取り込まれた空気が回転する力に押し出され、一端の穴から吹きぬける。

箱の名前はジーワという。

 朝焼けに響く鳥の歌のような、夕焼けに飛び込む獣の遠吠えのような、優美でいて力強い音が一帯に響き渡った。

「鳴った」

 かつての父が鳴らしていた音には程遠いが、それでも音は聞こえた。

 もっと大きく鳴らそうとツカサは縄に力を込めるが、焦るあまりに縄は手からすっぽ抜けた。

「ああ、駄目」

 慌てて拾おうとしたとき、丘の下、村の方から先ほどツカサの鳴らした音と同じような音が返ってきた。

 どうやら伝令の役目は果たせたらしい。

 再度崖の下を確認する。最早隠すこともなくなった切谷村の男達は、一心不乱に船を漕いでいた。今まさに東端の崖を回りこみ、入江へと侵攻し始めている。先ほど目にしたときとは打って変わって、小さいながらも帆を立てていた。小船にしては早い船速で船の群れは扇状に広がりながら進み続ける。

 浜に並んでいた船もようやく動きを見せ始めた。横一列に並んでいた船は繋ぎを外すやいなや即座に矢尻状へと並びを変える。

 入江の南側、浜よりも大洋に程近いその場所で戦端は開かれた。


 *


 ツカサがヒイラギの家にいないことに最初に気付いたのはヒックであった。

 ヒイラギがいない間はヒックがツカサを監視すると約束をしており、今日も先ほどまではその約定の通りツカサの傍にいた。そしてヒイラギが家に戻って来たのを確認し、入れ替わるようにヒックが家の外へと出た。

いつ戦争が始まるかわからない状況である。できればヒックはツカサの傍に張り付いていたいのだが、それにはヒイラギの存在が面倒であった。

ヒイラギはヒックが喋る猫であることを知っている。しかしツカサはヒイラギがその事実を知っていることを知らない。そのこと事態はヒックにとって負の要因ではない。むしろ好都合である。ヒイラギはツカサがカシナを殺したと思っているし、ヒックもその誤解をわざわざ否定はしていない。しかしツカサとヒック、そしてヒイラギが面と向かって会話ができるような関係になってしまえば、その誤解も容易に解けてしまう。

 ぼろを出さないように、ヒックはヒイラギと同じ場所にいることを極力避けるようにしている。そうでなくてもじっくりと考えなくてはならないことがあるからだ。

 秘密を知ったヒイラギをどうやって始末するか。

 目下の課題はそれだった。

 方法ならばいくらでもある。不慮の事故に見せかければ十分だし、そうでなくても低い文明程度の集落である。不審死などいくらでも前例があるだろう。又はどこからか刃物でも拝借し、後ろから刺してしまえばいい。まさか猫が殺人を犯したなどと疑う奴は一人もいない。

 いや、厳密には一人、ツカサがいるが。

 その一人も騙くらかせばどうとでもなる。確たる証拠がない限り、ツカサはヒックを断罪することはないだろう。ヒックはそう見込んでいた。

 だから、ヒイラギを消してしまうこと事態はそれほど難題ではない。頭を抱えるべきは現在ツカサが、もといこの村が置かれている状況だった。

 戦争、などという馬鹿げたものにこの村は巻き込まれようとしていた。ヒックが冷静に客観的に状況を判断しても、切谷村との争いは避けられそうになかった。この村が神の居城を放棄すれば別だが、信仰の要であるそれを手放すということは、村にとっては命を投げ出すよりも畏れ多いことである。ヒックからすれば馬鹿々しいことこの上ないが、異文化とはそういうものなのだと諦めてもいた。

 もっとも、ヒックとてこういった狂信に近いものを見るのは初めてではない。理解できないというだけで、知らないものではなかった。だからこそ、この村の住人も切谷村の奴らも、行くところまでいくのだろうと諦めてもいた。

 ともあれ、ヒックは争いが終わるまでヒイラギを始末することはできなくなった。ヒイラギはこの村の中で最もツカサの安全を考えており、そして意外なことにこの村の中でそれなりに頼られる立場にいる。今ここでヒイラギを欠けば、それだけツカサの身の危険が高まる。それだけは容認できなかった。

 よって、ヒックは仕方なしにヒイラギとの共同生活を送っているのだったが、ツカサの傍にいるべきそのヒイラギが、何故か浜の近くに立っていた。

 どうして家から出てるんだと声をかけようとしたヒックは、その一寸手前で近くに人がいることに気付いた。というか、ヒックはヒイラギにしか目がいっていなかったが、ヒイラギの傍には何人かの老人が鎮座しており、ヒイラギと喧々諤々のやり取りをしているようだった。

 ようやくヒックはヒイラギが家にいるところを無理やり引っ張り出されたのだと得心がいった。

 であれば、すぐにでもヒイラギの家にとって返さねばならない。ツカサはここ数日ヒイラギの家に軟禁状態で暇を持て余していたようだし、そうでなくとも村の状況を知りたがっていた。放っておけば勝手に出歩く。そう判断して急いでヒイラギの家に帰ったヒックだが、残念なことに、もしくは案の定、ツカサの姿はなかった。

「あの行動派め」

 ため息と共に呟いて、ヒックは部屋の中を見て回る。ヒイラギの家に来る時にツカサが持っていた荷物は置いたままだった。どうやら丘の上の家に帰ったわけではなさそうだとヒックは胸を撫で下ろす。ヒイラギや村の人間はカシナの残した記録を元に、切谷村が海から攻めてくると盲目的に信じているが、ヒックは違った。十中八九海からだとは思ってはいるものの、森からやってくる可能性も捨てきったわけではない。どれか一つに策を絞るのはヒックの考え方としへありえなかった。そうでなくとも、斥候くらいは森からも来るだろうとヒックはふんでいた。

 だから、ツカサが丘の家に戻っていたのなら危険性が増すところだった。荷物を置いていくということはヒイラギの家に戻ってくるつもりがあるということだろう。ヒックはそう判断してでは何処を探すかと思案し始めた。

 実のところヒックの予想は当たっているが外れており、家に戻りはしなかったもののツカサは丘の上には行っているので、ヒックの危惧したことが現実になっているのだが、当然ヒックはそのことに気付いていない。自分が思案しているこの瞬間に、ツカサが崖沿いに丘を登っていることなど想像もしていなかった。

「弓と矢がない・・・。」

 部屋の隅に立てかけていたはずのそれがなくなっている。ここ最近ツカサはやけに弓を手入れしていた。ツカサは触っていないと落ち着かないと言っていたが、ヒックからすればせわしなく手を動かすその姿こそ落ち着きがないように見えていた。それを持ち出したということは、些か心に落ち着きがないのかもしれない。

 だとしたら面倒なことになるかもしれない。ヒックはすぐさまヒイラギの家を飛び出した。

 ツカサは未だに村の皆の前に姿を晒せる状況ではない。自分から率先して人の多い浜辺へ行くことはない。そこまではヒックにもわかる。

であればその先はどうか。

田畑の傍や放牧地の辺りは十分に考えられる。夜の時間にあの辺りには人がいない。いるのは家畜かそれを狙う獣だけだ。鳥居のあるあの寄り合い所というのもなくはない。あの場所もヒックが今まで見てきた限りでは夜間に人がいない。そのどちらかだろうか。

とりあえず今いる場所から程近い鳥居の方へと向かおうとした矢先、遠くから空を割く一音が鳴り響いた。

「・・・よりにもよって、今だなんて」

 ヒックは音の意味を知っていた。ヒイラギから教えられていたからだ。切谷村の襲撃があった際に、見張り役が鳴らすことになっている警鐘。今の音はその先駆けだった。

 一寸間を置いて、先ほどよりも遥かに近い場所から同じ一音が鳴り響いた。見張り役に伝わったことを示すための返答。同じ道具を使っているはずなのに。ヒックには一度目と二度目では音の色がまったく違って聞こえた。一度目の方が好きだなと場違いにも暢気に思う。

 ともあれ、状況を見極めなければならない。鳥居に向いていた体を翻し、二音目の鳴り響いた浜辺へと向かう。

道中通り過ぎた家は軒並み明かりを灯し始めていた。村の住人全員がこのときのために動けるよう、準備をしていた。ヒックが想定していたよりも統制の取れた行動となっている。

 浜辺へ向かう男衆の流れに紛れてヒックも浜へと向かう。男衆は皆血気立っており、しばしば怒号も混じっていた。

 先ほど見かけた場所からそう遠くない位置にヒイラギがいた。ヒックはそっとヒイラギの足元に寄った。気付いたヒイラギが足元に付いた砂を払う振りをして身を屈める。周りには届かない声でヒックは告げた。

「ツカサは家にいなかったよ」

「――こんな時に」

 ヒイラギは顔に出ようとする驚きを必死にかみ殺す。

「僕はツカサを探す。ヒイラギは動けないんだろ」

「頼んだ」

 それだけ言葉を交わすと、ヒックはヒイラギから離れ、浜の一番近くにある見張り台に飛びついた。いつ作られたのかもわからないような古びたその台座を駆け上る。大木の背ほどもあるその見張り台の天辺には幼さを残した青年が一人険しい顔で海を睨んでいた。手には例の音の鳴る箱を握っている。先ほどの二度目の音は彼が鳴らしたのだ。

 青年より一段下の木枠に登り、ヒックは海を見回す。

 見えた。

 東の端、崖の下を回りこむように入江に侵入してくる船団がある。数は十、帆を張り風を受けながら水面を駆けてくる。

「あの大きさなら、一つの船に六人程度か」

 それはヒイラギから聞いていた予想よりもわずかに多い数だった。切谷村の規模からして五十は超えないだろうとヒイラギは言っていたが、この様子を見るに、初手から読み間違えたことになる。相手方の様子は青年から下に控えていた数人の伝令役に伝わり、すぐさま男衆の集まる一団へと情報は届いた。

 集団の中心には村長がいた。村長は見張り役からの話に一瞬目を見開きはしたが、それでも慌てる様子はなく、村の男衆に指示を出す。

「やることに変更はない。打って出よ」

 村長の言葉と共に、はじかれたように男衆は動き出した。次々と船に乗り込み、競うように浜を離れ、波を捕まえる。切谷村の船と同じように帆を張っているが、速力は明らかに切谷村に勝っていた。横一列に並んでいた船は気付けば矢じりのように縦に揃っていた。

 事前に耳にしていた通りの動きをこの村の男衆が行っているのを確認すると、ヒックは見張り台を降りた。予定通りに事を運べば、これでこの村が負けることはない。そもそもヒックはこの村の心配をさほどしていない。船の出港を見届けていたのは、その中に万が一にでもツカサが紛れ込んでいては困るからだ。しかしその心配は杞憂に終わった。むくつけき男達の集団の中にツカサの紛れ込む余地はなかったし、ヒックは一隻々々を全て見届けた。これでツカサが戦争に加わることはない。ヒックはそう確信した。

 しかしそうなると尚更ツカサの所在が気に掛かった。村の空気が一変したことはどこにいようとわかる。そしていまや海上には切谷村の船とこの村の船が角を突き合わさんばかりに接近している。だというのに、ツカサは浜に姿を現していない。遅ればせながら事態に気づいたツカサが浜に駆けつけ、悔しがる横でそれをヒックがなだめてヒイラギの家に連れ帰る。それがヒックにとっての一番の画だったのだが、どうやらそうはいかなかったようである。

 とりあえず高台にある神社にでも行ってみるかとヒックは浜に背を向けて走り出した。

 ツカサとは逆方向へ向かっていることには気付かないまま、全速力で駆けた。

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