第17話 だからとて力は足りず
ヒイラギがツカサの家を訪れた次の日から、明らかに村の空気は一変していた。漁師達は何かを警戒するように目を見張り、家畜を管理する家は柵をきつく閉じなおしていた。
キリクの家への手伝いは当分は必要ないと言われ、ツカサは時間を持て余したままヒイラギの家に居候することになった。ヒイラギの家にツカサが住み始めてから二日経つが、その間ヒイラギは村中を駆け回っている様子で、家にいる時間はそう長くはない。ツカサは特にすることもないが、さりとて村の中を歩き回るのは気が引けてしまう。切谷村の村人との一件が起きて以来、大まかな内容とカシナの裏切りは村人の知るところとなったが、それでも切谷村との争いがツカサのせいだと考える者もいなくなったわけではない。そしてそれがまったくの間違いというわけでもないのだった。
持て余した時間を布を織って潰しながらツカサは考える。今後の自分について。
海神に食われるという未来はなくなった。生け贄として終わるはずだった命は永らえた。理想でいえば神守になることである。ツカサの目標は元来ずっとそれだった。海神の人柱に選ばれたことで潰えたと思った目標は、ヒックと己の手によってまた戻ってきた。しかし、現状それはまた遠のいている。神守は村長により選出される役割ではあるが、それの周期は定まっていない。時が来たときに、相応しいものが選び出される。しかし誰でもというわけでもない。村にとってそれが相応しいとされるだけの格が必要なのだ。有体に言えば、村人の支持がいる。大多数の村人に好まれる者こそが選び出される。村の神に仕える者という神守の在り方からすればそれは当然のことだった。
そして、ツカサは今その当然を欠いている。
海神を殺し、シイナに傷を負わせ、あまつさえ切谷村との争いの火蓋を切って落とした。村人の心証など計るべくもない。
挽回する必要がある。それも大いに。
ツカサはヒイラギの家に移った初日に、ヒイラギの留守を見計らってヒックに言った。
「男衆は村を守る準備を進めているのかしら」
毛づくろいをしていたヒックはその手を止め、怪訝な顔でツカサを見た。
「ツカサ、まさかまだ戦争に参加するつもりでいるんじゃないだろうね」
「違うわよ。そんなはずないじゃない。ただ気になっただけよ。守られるなら守られるで状況を知っておきたいじゃない」
言って、そのあまりに言葉を重ねすぎている様子をツカサは反省する。欲しくない欲しくないと、是が非でも欲しいものを一生懸命否定しているような幼稚さを。
それでもヒックは一応納得をしたのか、「そうだね」と頷く。
「伏せておくことでもないからね。準備は順調に進んでいるよ」
「海で迎え撃つのよね」
「十中八九そうなるだろうね。ヒイラギが言ったように、森から来るんじゃ切谷村にとっては不利しかない。であれば、不意打ちの望める海から来るのは妥当だろうさ」
「海岸線は無防備ということ?」
「村人が交代で監視しているけれど、それが何処まで十全に機能するかは疑問を残すところだね。通信手段のないこの土地では、伝達に時間差が生じてしまう」
「言ってる意味がわからないけれど」
「用心し切れないって話さ。少なくとも湾への侵入は許してしまうだろうね。陸には上がれないと思うけれど」
「それはどうして?」
「・・・さあ、どうしてだろう」
ヒックは下手糞な誤魔化しで、これ以上は喋らないことを暗に伝えた。
あれから二日、ツカサは不自由していた。
ヒイラギがいないときはヒックがいて、ヒックがいないときにはヒイラギがいる。一人と一匹が交互に見張りをしているようにツカサは感じていた。協力して、というよりは、ヒイラギがいない間をヒックが勝手に埋めている形だが。
「ただいま」
少し疲れた顔をして、ヒイラギが家に戻ってきた。外は既に黄昏を過ぎており、宵の口に差し掛かっていた。
「ようヒック」
じゃれ付こうとヒイラギが伸ばした手をするりと抜けて、嫌がるようにヒックは家の外へと出て行く。ヒイラギの家から出てヒックが何処に向かっているのかをツカサは知らない。
「大人しくしてたか、ツカサ」
「おかえりヒイラギさん。退屈で死にそうよ」
「そりゃよかった。死にそうってとこ以外は本当によかった。ツカサが退屈でいてくれれば俺が動き回ってる甲斐もある」
「私にも何か」
「ない。いや違う、駄目だ」
取り付く島も無い様子でヒイラギはツカサを諌める。
「争いの場にいちゃ駄目なのはもうわかっているわよ。そうじゃなくて、それ以外で何かできることはないかと思って」
「無いよ。何度も言うけど、ツカサにできることもして欲しいことも何も無い」
「そう。ならもう私は知らないわ。戦争が終わるまでここで怠惰に過ごします」
「あぁ、そうしてくれ」
部屋の隅に体を放り投げたツカサを横目に、ヒイラギは遅めの食事を取った。
食事が終わり一息つこうとしたヒイラギだったが、窓の外から投げられた声にその目論見は外される。
「ヒイラギさん、いるかい」
「おう、どうした」
「例のご神体の件で爺さんたちが文句を言って困っているんだ。ヒイラギさんから説明してやってくれないか」
「昼間さんざん話しただろうに」
「酒飲んだら不満がぶり返したらしい」
「酔っ払いかよ、勘弁して欲しいもんだな」
ヒイラギは頭を困った顔をしながら窓の外とツカサを見比べる。その顔を見てツカサは気づいた。
「行ってきてあげてよ、ヒイラギさん」
「しかしなぁ」
「別にここから出たりなんてしないから。大人しくしてるわよ」
「――わかったよ。少しだけ出てくる」
ヒイラギは小さくため息を付き、窓の外に「今行く」と告げた。身支度を済ますして窓の外にいた村人と共に夜の通りへと消えて行った。家を出る前に十回は「出るなよ」と言葉を繰り返しながら。
「さて、と」
ヒイラギが視界から消え、あちらからもこちらが見えなくなったと確信してから、ツカサは座り込んでいた体を起こした。窓の外を今一度確認し、誰からも誰にも見られていないことを確かめる。ツカサガヒイラギの家にいることは村人の多くが知るところである。だからこそこの数日はよほどの理由がなければ誰もヒイラギの家に近づいてはこなかった。ゆえに、ヒイラギの家の周りは人通りがまばらである。
「それでは」
寝床に置いておいた弓と矢筒を掴むと、ツカサはヒイラギの家からするりと抜け出した。狩に行くわけではない。ヒイラギの家から出たのはただ村の状況を知っておきたかったからである。ではなぜ弓と矢を持ち出したのか、ツカサはその答えを持ってはいなかった。
ただ、何となくここ最近は、これを持っていないと無性に落ち着かない日があるのだ。気づかないうちはどうでもいいのだが、一度気づいてしまうと背骨がむずむずし、弓を手にしないと治まらない。まれに弓に触れるだけでは治まらないこともあり、そんなときは矢を弓に番えてみる。すると真水を浴びたように頭がさえるのだった。何故こんなことが起こるのかはわからないが、いつからこんなことが起きるようになったのかは覚えていた。
シイナの騒動があった日からである。あの日から、この気持ち悪さは始まっていた。シイナを助けたあの日から、人を射殺したあの日から。
ツカサは自分が何故こんな気持ち悪さに囚われているのか判らない。だから対処療法的に弓と矢に触れ続けている。
「――ふむ」
ヒイラギの家から出ては見たものの、どこに行くべきかとツカサは悩む。村の現状を見て回りたいのだが、ヒイラギの向かった方へ行くわけにはいかない。また、村の中ではヒックが独自に情報収集をしている。ツカサはヒックが何処を歩き回っているか知らないが、それでも人通りの多いところだろうという目星は付く。
というわけでツカサは人通りの少ない場所を目指して歩いた。その結果が自分の家に向かう道になったのは致し方ないことである。村で最も人気のない場所がツカサの家がある丘なのだから。
丘を登りながら、ツカサは何の気なしに来たこの道が間違いでなかったことに気づいた。丘の上からなら村の大部分が見渡せる。それに、攻防の要になるであろう入り江が一望できたからである。記憶にある数日前の入り江の状況と今の入り江を見比べる。夜の景色であることはツカサにとっては何の問題にもならない。月のある日も、星の光が届かない日も、毎日この景色を見てきた。
この村の入り江は湾と言ってもいいくらいの淵の広い形をしている。南から海が進入してきており、東の端は切り立った崖になっている。崖の上はツカサの家がある丘である。西の端は陸地と水平線の高さがあまり変わらず、干潮時と満潮時で姿を大きく変える。いつもは東よりの浜に船を止めているのだが、今は船の位置が違っていた。いつもは個々に浅瀬に繋ぎ止めていた船が、今は規則正しく整理されて並んでいた。また、一隻たりとも浜に上がっていない。船は定期的に手入れをしなければすぐに駄目になる。貝や藻などを取るために、毎日違う船が浜に上げられて整備されているのだが、今はその様子がない。それに浜には杭が立ち並んでおり、船を上げる場所もなかった。
それがどういう意味を持つのかツカサにはとんと見当も付かなかったが、それでも普段と違うことをしているのだけはわかった。普通どおりではない。通常でなく異常事態。そんな空気が丘から見える景色でツカサに伝わった。
「・・・?」
入り江から目を切ろうとして、視界の端に何かが引っかかった。それが何であるか連想できず、気になってもう一度入り江を見直す。黒い光を抱える夜の海に、いくつかの斑が見えた。更に目を凝らすと、それが数本の丸太でできた杭であることがわかる。浜に立ち並ぶそれと違うのは、その杭が離れた場所に点在しているということだった。海に立てられた杭は、船七隻分ほどの間隔を空け、長大な円を描くように立ち並んでいた。
これも戦争のための準備なのだろうかとツカサが首を傾げていると、背後から足音が聞こえた。ツカサはとっさに崖の岩陰に隠れる。足音の主はツカサに気付かず、崖の端を東へと歩く。その顔はツカサも見覚えのある村の青年だった。キリクと仲が良かったと記憶している。
「はあ、面倒だなぁ」
ぼやきながら青年は更に東へと進む。ツカサは気付かれないように間を空けながら青年の後を追った。
青年は重い足取りのまましばらく歩く。すると、入り江の東の端、最も切り立った崖の直情に揺らめく光が見えた。石で積み上げられた壁の手前に、松明の火と別の村人がいた。これまたツカサも知る村の一員で、壮年期に差し掛かった漁師である。
「やあ、どうです」
今しがた丘を登ってきた青年が訊く。
「いや、全く何も。今夜も来ないんじゃないか」
松明を手にした村人は片手で膝を叩きながら言った。長時間そこにいたのだろう。地面には彼の座っていた跡がくっきりと残っていた。
「それが一番いい。できれば昼に来てもらいたいものです」
青年は松明を受け取ると、海側に光が漏れないように調整しながら、石壁に立てかけた。
ツカサはヒックが言っていたことを思い出す。確か村人が交代で海を監視していると言っていた。切谷村の住人が海から攻めてくるのならば、大きく遠洋を迂回しない限りこの入り江の東端を通過することになる。これはいち早くそれに気付くための見張り場である。
「火は絶やすなよ」
「はい。承知しています」
いくつか言葉を交わし、一人が去り、青年がその場に残った。
青年に気付かれないよう、ツカサは息を潜める。青年は火の様子を確認した後、石の壁に作られた覗き穴に頬をついて海を監視し始めた。ツカサには、その青年がやる気のあるようには感じられない。むしろ億劫なことを嫌々やっているように見えた。意気揚々と争いに挑むのも問題はあるのだが、まったくやる気が見られないのも問題ではないだろうか。何一つ関わることを許されていないツカサからすれば、監視という仕事であっても担わされているのならばいるだけの心得を持って欲しいものだった。それが単なる嫉妬だとわかっていても、思わずにはいられなかった。
見続けていると心がささくれ立っていくので、ツカサはその青年から目を離して海を見る。入り江の東端だけあって、ここから先にはただ海と崖だけが続いている。星の光を映す水面は静かなうねりを繰り返していた。ツカサはそれを綺麗だと思う。もっと小さな頃から見続けていた景色。かつては母と父と三人で眺めたこともあった。いずれ父の操る船に乗り、どこか遠くへ行ってみたいと焦がれていた。
想像の父親の背が水面に船とともに浮かぶ。隣には母がいるが、ツカサの姿はそこにない。自分は崖の上、一人離れたところに取り残されている。父の操る船に乗ることはもうできない。二度と。その事実を確かめ、ツカサは海を眺めたことを少し後悔した。
ため息を吐き、視線を監視をしている青年へと戻す。青年は今や頬をつくどころか、覗き穴に腕を沿えて顎を乗っけていた。
「――まさか」
ツカサがよく目を凝らす。静かな海の水面よりも変化のない青年の背中を見る。ゆっくりと呼吸に合わせてゆれるその背中を見て気付く。
寝てる。ツカサは目眩を覚えながら青年の状況を理解した。
ともすれば村の全てが危険にさらされないその行いに、憤りを越えて悲しくすらなってきた。いや、そもそも一人に見張りという大役を預けている現状に問題があるのだ。居眠りは論外であるが、そうでなくても役目を全うできない状況に陥ることもあるだろう。見張り役を考えた人間はそれを想像すらしていないのか。ツカサはもはや誰とも知らない誰かにすら怒りを抱いた。
とにかく、青年を何とかして起こすのが先決である。ツカサはそう決めて、とりあえず石でもぶつけるかと足元を探る。石を拾い上げ、青年の背中めがけて投擲した。ツカサとしては小さな石を選んだつもりだったのだが、青年に対する怒りのせいか、思いのほか大きい石を投げてしまった。
これは気付かれるか、とツカサが危惧した矢先、甲高い音が虚空に響いた。
目の前で起きた事象にツカサは目を見開く。石が青年に当たる刹那、森から飛び出した矢が宙に浮いていた石に当たった。矢は狙いを逸れ、青年の背を過ぎて石壁に当たった。
背後の音と続く石壁の硬質的な音に青年は目を覚ます。熟睡せずまどろみの中にいたのだろうか、寝起きにしては素早い対応で石壁の間に身を隠した。身を隠した後に青年は辺りを見回し、落ちている矢を見つけて状況を理解したように顔色を変えた。
「・・・っ」
ツカサは息を潜める。青年から身を隠していたときよりも深く、自身の存在を希薄にするように。二射目はまだ飛来していない。矢を射った者がツカサの存在に気付いたのなら、先にツカサを始末しようとするだろう。青年は見るからに丸腰で、離れた場所にいる射手にとっては脅威となりえない。数秒の後、再度石壁に矢がぶつかった。石壁から動こうとしていた青年は再度その場に釘付けになる。
気付かれていない。
ツカサは息をし直した。この後の選択肢はいくつかある。どれにしてもツカサがこの争いに関与することになるであろうことは明白になった。森に潜む射手が切谷村の先駆であることは疑いようがない。
石壁に背を押し付けていた青年は何かに気付いたように慌てて手元を探る。目的の物が見つからず慌てて周囲に目をやる。その視線の先をツカサも見た。石壁の傍に何かが落ちている。しかしそれを拾おうとすれば青年は石壁の守りから身を乗り出さなければならない。
青年が歯噛みをする。
そして状況は刻一刻と変化をするものである。膠着は相手にとって負の要因にしかならない。打破するために手を打つのは当然のことだった。
森の中から男が現れた。矢を持ってはいるが、背に負ったままで構えていない。
こいつじゃない。ツカサは即座にそう判断した。先ほどから漂う気配、矢の射線を辿った先にあるそれと目に映る男の気配は違う。であれば最低でももう一人いることになる。出てきた男の狙いは青年を石壁の影から引きずり出すことだろう。手元の刃物を隠すことなく見せつけ、石壁に迫る。
「出て来いよ」
挑発する男の言葉に、あまりにもあっけなく青年は石壁から身を表した。
「馬鹿っ」
ツカサは思わず声を零す。
青年の行動は射手にとっても想定外だったのか矢がすぐには飛んでこなかった。刃物を持つ男も予想と異なる行動に身を固くする。その瞬間、動いているのは青年だけだった。
青年の顔を見てツカサは察する。そしてすべきことを理解した。
青年は迷いない動きで男への距離を詰める。密着するほどの近さで男の持つ刃物を制した。
「てめえ」
遅れを取った男が刃物の威を取り戻そうと腕に力を込めた。この距離では射手の存在は助けにならない。誤射の危険が十分にある。であれば、男は自力で青年を打ち倒すか、距離を取る必要があった。
武器に頼る男の心の隙をつき、青年は蛇のようにしなやかな動きで男の首に手を掛ける。そしてあっけないほど渇いた音と共に男の首が人体の構造を無視して捻られる。力を込めた姿勢のまま、大事そうに刃物を抱えて男の体が青年にもたれかかる。その目に光はもうなかった。
青年の目に満足さや達成感はない。それは知っているから。覚悟をしているから。
青年が男を引き剥がすよりも早く、青年の肩に矢が突き刺さった。苦痛に顔を歪めながら青年は男ともつれ合うように崖から落ちていく。
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