第14話 だからこその結果を得て
ツカサは前方の景色に目を奪われた。
真っ赤な花が広がっている。強烈な、鮮烈な赤。色が濃すぎて黒に近づいていた。香りがないことに気づき、同時にこれが夢だと気づく。
花はとある地点から放射状に広がっていた。放射の中心は二つあり、隣接している。夢だと知りつつも、花の始まりが何なのか気になり、ツカサは中心へ向け歩き始めた。
歩く度に足下から水の跳ねる音が聞こえた。花の根本が湿っている。一歩毎に水は深さを増し、放射の中心に近づく頃には水は腰の辺りまで到達していた。
それにしても変な夢だ。ツカサは寝ているのか覚めているのか曖昧な頭で思った。これが夢なら、自分は今寝ているはずだ。しかし、ツカサはいつ寝床についたのか思い出せなかった。最近は忙しかったのだ。何か大きな出来事があって、それで終わるはずだったのに終わらなくて。しかし何が終わるはずだったのか・・・。そう考えた時に丁度、一つ目の放射の中心にたどり着いた。
大きな魚の死骸があった。
頭に突き刺さった矢を見て、ツカサはそれの正体よりも先に誰がこの死骸を生み出したのかを思い出した。次いで、目の前に転がるのが海神だったものの死骸だと気づく。海神の体からは血が溢れていた。
ツカサは見ていると気分が悪くなったので、海神だったものから目を逸らし、もう一つの放射の中心を目指して歩き始めた。
夢なのだから、いっそ起きてしまえばいい。そう思うのにツカサは歩みを止められない。もう一つが何なのか、気になって仕方がないのだ。
歩きながら思うのは母親のこと。ツカサが小さい頃に神守として神の居城へと移り住んだ母親のことを思い出す。
優しい笑い方をする人だった。ツカサの目から見れば、他のどの大人よりも人がよくそして綺麗だった。ツカサはそんな母親のことが自慢だった。誇らしく、何よりも愛おしかった。母親が神守として選ばれたことも当然自分のことのように喜んだ。母親よりもツカサの方が喜んでいたくらいだった。しかし、寂しくないのかと言えば、そんなことはなかった。寂しかった。神守になり、神の居城へ行けばまた会える日が来るかどうかはわからないのだ。事実、あの日からツカサは母親に会えてはいない。
母に会いたい。ツカサはそう思った。いつもは考えることすら我慢しているけれど、夢の中ならいいだろうと思い、久しぶりにしっかりと母親の顔を思い出してみた。そして願う。
早く神守になり、母に会いに行きたい。
そのことを考えると、ツカサは歩くのが面倒になった。しかし気づけば、ツカサはもう一つの放射の中心にいた。何だ、気づかない内にもう着いていたのか。ツカサは自嘲し、放射の中心を確認する。
同時に全てを思い出した。眠る前に何をしていたか。何が自分の身に起きていたか。そしてーー。
誰が犠牲になったのか。
放射の中心には人が二人倒れていた。
一人は喉が裂け、もう一人は小さな背中が切り裂かれていた。共に血が流れ出し、ツカサの足下を染めていく。
「ああああぁぁぁぁぁ!」
「ツカサ、どうしたの」
「あれ、私。今、シイナが・・・私、あれ」
自分の喉から出た声の大きさに驚きながら、ツカサは目を覚ました。外は明るく、日はかなり高くまで上っていた。寝起きのためか記憶が不鮮明だった。昨日どうやって帰ったのかがわからない。
目を擦りながら、ツカサは傍らにいたヒックに訊く。
「私昨日どうやって・・・というかいつ寝たのかしら」
「村長にシイナの話を一通りしたら寝ちゃったんだよ」
「シイナ!そう、シイナよ」
ヒックの口にした名前一つで途端にツカサの記憶が繋がった。断片的な部分ではあるが、昨日何が起きたのかを思い出す。それと同時に、思い出したが故の混乱にツカサは放り込まれた。
「シイナ、シイナはどこ。無事なの?」
「大丈夫」
気を落ち着かせるためか、ヒックは努めて抑揚のない声でツカサに応える。
「シイナは今自分の家で寝ているよ。勿論、命に別状はない」
「それは本当?」
「うん。朝に村長とヒイラギが会話しているのを聞いたんだよ。どうやら思っていた程傷は深くなかったみたいだね」
「そう、そうなのね」
言って、ツカサは身を起こし、身支度を始めた。
「キリクの家へ手伝いをしに行くのかい」
ヒックに言われて、ツカサはそういえばそれもあったと思い出す。日の高さから考えればもうお昼過ぎだ。キリクの母親は相当冠にきているだろう。
けれど、ツカサは「いいえ」と首を振る。
「とにかくシイナの様子を見に行くわ。キリクの家にはその後ね」
「あー、つまりその、ツカサがしようとしているのは・・・お見舞い?」
「そういうことよ」
一刻も早くシイナに会いたい。ツカサが考えているのはそれだけだった。しかしそれを聞いたヒックはばつが悪そうに言う。
「やめといた方がいいんじゃないか?」
「どうして?」
「どうしてっていうか、時間が経って落ち着いてからでもいいじゃないかな、ってさ」
「シイナが心配でたまらないのよ。命が無事だったって聞いても、それでも安心できないの。大丈夫なら、その姿を見たいわ」
「言っていることの意味はわかるけれど、それでもやっぱりやめた方がいいって僕は言うよ」
ヒックの言葉は頑なだった。
「シイナの父親はきっとまだ怒ってる。昨日君を化け物呼ばわりしていたんだよ。元から良い印象を持っていないのは明白だ。シイナに会わせてなんてくれないよ」
「それは、そうかもしれないけれど。・・・でも行ってみなくちゃわからないわ。怒られたっていいの。ううん、違うわね。誰かに怒られるくらいが丁度いいのよ。馬鹿な私には」
そう言ってツカサは家を出る。やれやれと呆れたように首を振りながら、ヒックはツカサの後を着いてきた。
丘を下り、砂浜を背に進むと何軒かの家が比較的近くに立ち並んでいる。その中の一つがシイナの家である。
ツカサの家と形はそう変わらない。それでも、ツカサにはまったく違うものに見えた。ここには温度がある。それは以前のツカサの家にもあったものだ。そしてもう取り戻せないとわかっているものでもあった。
家の戸まであと一歩。その距離で、家族の温かさがシイナの家から漂っていた。
ずるいーーとは思いたくなくて、ツカサは思い出を振り返るのをやめた。シイナに嫉妬なんてしたくない。
でも、ツカサは少々中を覗くのが怖くなってしまった。見たくても見れないものに目を向けてしまうような、好奇心と恐怖心がない混ぜになるような感覚がツカサに降りてくる。
一歩離れて、意を決して踏み出すと二歩目が続かなくて、また一歩下がって心を整え直す。
家の前で進みあぐねるツカサにヒックは、
「やめておくかい」
と声を掛ける。
それはそれで的外れな言葉ではあったのだけれど、踏み出し損ねていたツカサに発破をかけるのには丁度良い言葉だったようで、ツカサはようやく二歩目と共に戸を叩いた。
軽くそして通る音がシイナの家に反響した。数瞬の暇があり、中から人が顔を覗かせた。それを見てツカサの鼓動は跳ねた。出てきたのは誰あろうシイナの父親だった。
しかし、ツカサの動揺とは裏腹に、シイナの父親は、「ああ、なんだお前か」
と無感動にツカサを見下ろした。
「シイナに、会いにきたのか」
「はい。快くは思われないかもしれませんが、私はーー」
「シイナなら奥で横になってる。今は丁度起きてるから顔を見ていけばいい」
「ーーえ?」
「どうした、そのために来たんだろう」
「あ、はい。そうです。失礼します」
歓迎、とまでは行かずとも、シイナの父親がまったく抵抗なくツカサを家に入れたことにツカサは混乱する。てっきり、いの一番に恫喝されるものだとばかり思っていた。
シイナの父親は戸口の横で巻草をふかしている。ツカサを監視するつもりもないようだった。昨日、ツカサを化け物とまで罵った人物とは思えないような態度の違い。
「昨日の今日で何があったのやら」
ツカサにだけ聞こえる声でヒックが呟いた。
動揺はしたが、ツカサはあまりそのことを考えはしなかった。否、考える余裕がなかった。早くシイナに会いたくて仕方がなかったから。
奥の部屋でシイナは横になっていた。天井を見ながら小声で歌を歌っていた。
その姿を目にした途端、ツカサは全てに色が着いたような気がした。何もかもの心配が杞憂で、万事上手く進行しているような興揚感。
「よかった」
自然、口から言葉が出てきた。部屋にツカサの声が広がり、シイナの歌はぴたりと止んだ。
「本当によかった」
「・・・お姉ちゃん」
「ごめんね。間に合わなくて、怖い目にあったよね。私がもっと早く気づけてあげられたら、こんなことにはならなかったのに」
「お姉ちゃん」
小さな体をツカサは見つめる。その頭も、顔も、体も、手のひらも、全てが全て小さくて、全てが全て頼りない。その体に突き立てられた痛みを思うと、まだ胸に焦がれるような熱が灯る。
「シイナが生きてて本当によかった」
沸騰して身の内に留まりきれなかった空気が口からこぼれ、内部の圧力を抜くように、ツカサは深い息を吐き出す。
ツカサはシイナに手を伸ばす。シイナの頬に手が届いたとき、シイナはやんわりとその手を押し退けた。ツカサから顔を逸らし、小さな体で丸まって、ツカサに背を向ける。その背は小刻みにふるえているように見えた。
「怖かったよ。お姉ちゃん」
「そうだよね。怖かったよね。でも大丈夫、もう大丈夫だから」
再度ツカサが手を伸ばそうとして、シイナの背にその手が触れる前に、
「違うよ」
とシイナは言った。冷たい、凍えるような声だった。
触れようとした手が声の冷たさに押し返され、行き場無く中をさまよった。
「怖かったのはーー今怖いのは、お姉ちゃんだよ」
「わからないわ。何を言っているの」
「わたしはお姉ちゃんが怖い。あ、あの男の人たちも怖かった。でも、でもそれと同じくらい、あんなことができるお姉ちゃんが怖い」
「っ・・・。」
ツカサの息が詰まる。
助けようとしたのだ。必死だったのだ。手段も何も選ばず、出来ることの中で最速の最善手を選んだのだ。ツカサはそのつもりだった。
例え人を射殺したのだとしても。
「シイナ、あなたあの時は気を失ってたんじゃ・・・。」
「うっすらとだけれど、意識があったの。全部見てたーー見たくなかった。目の前にわたしを切った人が倒れてて、その真ん中には見たことのある矢が刺さってた。目が合ったの。男の人に灯ってた光が段々と薄くなって、消える瞬間をずっと見てた。怖かった。目の前で起こったそれも、それを起こしたお姉ちゃんも」
シイナの声には拒絶の色がありありと滲んでいて、それがツカサの心をかき立てた。
「だって」
と、だだをこねる子供のようにツカサは口を開く。
「だって、あの時はそうするしかなかったのよ。あの男たちからあなたを、シイナを守るにはそうするしか」
「わかってるの。お姉ちゃんが私の為にあれをしてくれたってことはわかってるの。わかってるけど、でも」
シイナの声には涙と嗚咽が混じっていた。つかえながら、戸惑いながらシイナは話す。
「でも怖いの。お姉ちゃんがあれができる人だってことが」
「私だってむやみやたらに人を殺したりなんかしないわ」
「それもわかってる。だけど、また同じ様なことがあれば、お姉ちゃんは弓を引くんでしょ?わたしが危ない目にあったら、またお姉ちゃんは同じ事をするでしょう。わたしはそれが怖いの。だからもう、わたしはお姉ちゃんの側にはいたくない」
「そんな」
自分でも驚くほどに情けない声がツカサの口からこぼれた。大切だと思った人を失うことはあったが、拒絶されたことはなかった。初めての経験にツカサの喉は機能を失ったかのように空気を漏らすばかりだった。
「出ていって」
シイナが絞り出したその声もどこか遠くの木霊みたいにツカサには聞こえていた。
ヒックがツカサの袖を引き、促されるように、状況を飲み込めないまま、ツカサはその場を後にした。
戸口へ戻ると、シイナの父親が壁にもたれて草を吹かしていた。
「あの子の父親として、俺はお前にどう接するのが正しいか答えを出しかねてる。娘を危険に晒した憎い相手か、それとも娘に力の怖さを教えてくれた賢人か。いや、賢いってこたないな」
おもしろくもないだろうに、シイナの父親は乾いた声で笑った。
「昨日はすまなかったな。娘のことでお前につらく当たっちまった」
ツカサの耳にはシイナの父親の言葉は入ってこない。ただ、朴訥と頷くだけだった。
「お前にとっては納得できないことだらけだとは思うが、頼む、娘のためにもう二度とシイナとは関わらないでやってくれ」
吹かしていた草を捨て、シイナの父親はツカサに頭を下げた。自身から見れば遙かに幼い少女へ、シイナの父親は真摯に願い下げていた。
ツカサは一瞬何かを言いかけて、でも言葉を飲み込んで頷いた。理不尽なら今まで何度も味わってきた。そしてその度に無理やりにでも受け入れてきた。これもその一つなんだとツカサは自分に言い聞かせる。
それでも、流す涙は止められなかった。
「ヒック、私ね。初めてなの」
丘を家へ向けて歩きながらツカサは言う。
「お母さんは神守になって選ばれた人しか立ち入れない神様の住処に行った。お父さんは冥途に行ってしまった。二人とも私の前からいなくなった。母さんには神守にならないと会えないし、父さんに至っては死ぬまで会えない。だけどシイナは違うでしょ。会おうとすれば会える場所にいるのに、会っちゃいけない。初めてなの、大切だと思った誰かから拒絶されるのって」
掠れた声で鼻をすすりながら、ツカサは呟いた。
「こんなに辛いなんて」
シイナの体は震えていた。ツカサが部屋に入ってから出ていくまで、ずっと変わらないまま小刻みに震えていた。ツカサは自分がシイナに恐怖を与える存在になっていたことを実感した。してしまった。意識してしまったらもうどうしようもなかった。合わされることのない目も、聞き覚えのない声音も、全てが全てツカサの胸をきつく締め挙げ、実感させるものでしかなかった。
「まあ、一方的な理屈だとは思うけどね。ツカサはシイナを助けようとして矢を射ったんだから。理不尽だよ。でも、理不尽なんてものはどこにでもあるんだよ。納得のできないことはありふれてる」
「ヒックの故郷もそうだったの?」
「そうだね。むしろここよりも遙かに多いくらいだよ。一日過ごしてたら理不尽に十回は遭遇するさ。そりゃ全部が全部どうしようもない程に辛い理不尽ばかりじゃなかったけれど。でも、今のツカサみたいに耐えがたい理不尽だってやっぱりあった」
「ヒックもそんな経験を?」
「した。たくさんの理不尽に出会った。初めは今のツカサみたいに動揺も焦燥もしたけれど、その内整理がつくようになった。考えたって仕方がないことばかりだからね。だから僕はそんな理不尽に出会ったときは、とりあえず眠ることにしていたよ」
「眠れば解決するのかしら」
「しない。解決はしない。でもひとまず心の揺れ幅は小さくなる。波は穏やかになる。なくなりはしないけれど、でもそれ以上浸食されることもない。僕はそうしていくつもの理不尽を越えてきた」
そう言ったとき、ヒックは顔を上げていた。ツカサは最初自分と目線を合わせるためにヒックは顔を上げたのだと思った。でも違う、ヒックの目はその先にある空を見ていた。もしくは、更にその先にあるものを。
「越えられなかった事は?受け止めきれなかった事は一つもないの?」
「いや、あったよ」
「そのときはどうしたの」
そのときツカサはヒックの目が黒く沈むのを見た。光の反射が一切途絶えたように、目から光が消えるのを見た。
ヒックは言う。
「だから僕はここにいるんだ。その理不尽の相手をするのに飽いたから、僕は居た場所を出てここに来た」
それはこれ以上の追求を拒否するようなもの言いで、ツカサは次の言葉を口にできなかった。もっとも、そうでなくてもツカサは何も言わなかった。丘の先に人影を見かけたからだ。
「ヒイラギさんだ」
傍らのヒックが耳を立てる。先ほどとは別の意味でヒックの気配が変わったことにツカサは気づかなかった。
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