第11話 束の間の光に顔を焼き
ヒックがカシナを殺した夜から十数日が経過した。結果として、カシナがツカサの家で死んだことは村人の誰にも気づかれることはなかった。一日目は誰もカシナがいなくなった事に気づきもしなかった。いや、カシナの家族は流石に前日の夜から家に戻っていないことに気づいてはいたが、それを大きなこととしては捉えていなかった。どうやらカシナは誰にも行き先を告げず、数日家を開けることがたまにあったらしい。だから、村人がカシナの不在に、そしてその不審に気づいたのはツカサがカシナを埋めてから四日も経過してのことだった。まずはカシナの家族が、次に交流の深かった者たちがカシナを探し始めたが、丸二日かけても手がかり一つ出てこなかった。捜索も三日を過ぎると皆同じことを考えるようになった。カシナはもう戻ってこないのではないか。そして、その原因を皆が考え始める。気づかぬうちに海で死んだか、山で獣に襲われたか、はたまたよその村と諍いでも起きたのか。様々な憶測が飛び交う中で、誰かがポツリと呟いた。
――これは海神様の祟りではないのか。
答えの出ないことを延々と考え続けるのは多くの人にとって苦痛である。何かしらの理由が付けられるのであれば、人は荒唐無稽でもその理由に飛びつく。そういうわけで、村人達の少なくない数が、その考えにある種の肯定を示した。口には出さないまでも、その可能性があるとして否定しなかった。もちろん、村長が海神殺しに関して肯定的な立場である以上、表立って祟りを喧伝するものは少なかった。しかしながら、カシナが姿を消してから十日が経つ頃には村人の半数以上がその考えを受け入れ、カシナを探すことはなくなっていた。カシナの家族ですら。
ツカサはというと、この十数日間で情緒が時化のように揺れに揺れた。最初の数日は夜の目撃者がいたかもしれないと疑心暗鬼に陥り、話をした村人全員にそれとなくーー傍から見ればわかりやすくーー夜中に何か見なかったかを聞いていた。カシナが行き先を誰にも告げずに消えたということが耳に入れば人目も憚らず安堵の息を漏らした。捜索が始まったと知れば乞われてもいないのに捜索に加わり、何時間も海を探して回った。海神の祟りという意見が出てからはほとんど一日中血色を悪くしている。
ヒックとしては第三者として傍観していたので、ツカサの困りようは面白くもあった。何よりも当事者であるのに、ヒックはさして気にしてもいない。毎日村の中を散歩しては村人の会話を盗み聞きするだけで一日を終えていた。
そうして血にまみれた夜から十数日が経ち、海神の騒動やカシナの失踪にもひと段落がつき、村はいつもの様子を取り戻していた。といっても、ヒックはいつもの村というものを知らなかったので、現状が本当にいつもどおりなのかどうかは周りの空気から察するしかなかったが。
ヒックにとってあまり喜ばしくないことに男衆の多くが日中漁に出かけることになったので、ヒックは浜辺での男衆の寄り合いから情報を得る機会が減ってしまった。もちろんこの村には男だけでなく女もいる。そういった女の寄り合いからも情報を得ようとするが、しかして欲しい情報に関する話題はほとんど言葉の端に上がってこない。
ヒックが欲しい情報とはすなわち神の居城のこと、もしくはそれに関わるとされる神守のこと。
しかしこれらは村人達の話題にそう上がらない。実のところこれは海神殺し及びカシナ殺害による弊害の一つだった。カシナの失踪が海神を殺したことによる祟りなのではないかと村人が危惧したことにより、神に関する話題はこのところ極力避けられるようになっていたのだ。無論信仰や信心が廃れているようすはない。むしろそれが強いからこその忌避がある。誰もがそのことに触れないように言葉を選んでいた。神の居城について知りたいヒックとしてはもどかしいことこの上なかった。
ヒックが行っているのは盗み聞きだけではない。それと平行して村中を散策し、神の居城のありかについても探し回っている。しかし一度もそれらしい場所を見つけ出すことはできなかった。そもそもヒックが神の居城を探すに当たって情報が少なすぎるのだ。居城というのだから逸れ相応の大きさはあるのだろう。しかしその様相がようとして知れず、当てもなく歩き回るにはこの土地は広い。また故郷にいた頃とは明確に異なることとして、生きていく上での問題もあった。ヒックの故郷には猫よりも強い野生動物などいやしなかった。これは切実な問題である。一匹限りの化け物だった海神と違い、森の中には文献でしか見たことのないような野生動物がかなりの数生息している。とてもヒックだけでは安全に森の探索などできやしない。やはり情報収集が主な行動になってしまうのだった。
そしてこの日もまた何一つ収穫なしにヒックは帰路へとつく。丘の上へと帰る。
結局、ツカサはヒックを追い出したりはしなかった。あの日から十数日経った今もヒックはツカサの家で生活している。
ヒックが家の前まで着くと、朝出て行くときにはなかったものが目に付いた。といっても珍しいものではない。
「また来たのかあの子」
ヒックは腰まで髪を伸ばした少女のことを思い浮かべる。
玄関の花はこれで四つ目だ。存外甲斐甲斐しくあの少女は通っている。未だにツカサと話をしていないが、無理にする必要もないのだろう。ヒックは一度だけ少女が花を置いていく姿を見かけたこともある。誰も見ていないのに、楽しそうにしていた。
玄関に置かれた花を口に咥えて、ヒックは家へと入る。中ではツカサが夕飯の支度をしていた。長い髪を結って火を扱いながら何かを思案している様子である。食材の配分でも考えているのだろうか。食料は儀式の日以前と変わらずに手伝いで得たものを使っている。ただ、あの日以来食材に変化があったように見られる。肉には脂がのっており、野菜は瑞々しいものが増えた。そもそもその量が多い。ツカサが手伝いに行っているキリクの家で何か状況が変わったのか、それとも変わったのはツカサの方か。少なくとも、ヒックの見た限りではキリクの家は海神殺しを否定的に捉えているわけではないように思えた。
「ただいま」
ツカサから少し離れた場所に花を置き、ヒックはツカサに声をかける。
途端に、さっきまで眉を寄せながらも楽しげに料理をしていたツカサの顔が固くなった。
「帰ったのね。おかえり」
ヒックの方へは顔を向けずに、声だけで返事をする。ツカサはそのまま料理へと手を戻した。
固い、というかぎこちない。そんな態度が表面に露になっている。
カシナを埋めたあの日以来、ツカサとヒックの間には隔てがましい空気が流れていた。溝ができたような、川を挟んだような、一枚の壁を隔てたような距離感。
「今日もまた食材が多いね」
「ええ。キリクのお兄さんがたくさんくれたから・・・。」
「ふぅん、そう。まあ多くあって困ることはないもんね」
「そうね」
「・・・うん」
会話をするためだけのような会話。ここ十数日ずっと同じ状況である。ツカサが怒りや不満をヒックにぶつけるわけではない。ただ積極的に会話をすることはなくなっていた。ヒックが適当に話しかけて、ツカサがそれに応える。二三そのやりとりをすればそれで会話は途絶える。ツカサとヒックが出会ってから二十日足らずであることを踏まえればそうおかしなことでもないが、それでも、海神を殺した時の一人と一匹のような、共に何かを成し遂げた関係ではなくなっていた。
ヒックは別にそれが嫌だとか悲しいなどとは思っていない。ただ、やりにくいだけだ。そしてこの場合そのやりにくさこそが面倒でもあった。
まさか人を一人殺しただけでツカサがあれほどの嫌悪感を示すとは、ヒックには思いもよらなかった。ヒックの以前いた世界では同種を殺したり同種に殺されたりするのは、日常茶飯事とまでは言わないまでも、ままあることだった。一部の例外を除けば皆個々に生きており、仲良くしたり番になったりはするものの、共同体というものにそこまで大きな帰属意識を持つ者はいなかったのだ。種の違いか、それとも個の違いなのか。ヒックとツカサにはその点において大きな差異がある。
せめて事前に気づけていられればーーそんな風にヒックは後悔する。ツカサの村への執着は度を越したものがあった。村からはじき出されるくらいならば、死を受け入れたほうがましだとさえ考えていたのだ。であるならば、村の一員であるカシナを殺すことに関してどのような反応を示すかも想像できたはずだった。そしてそれが予見できていたならば、あの夜、別の手段を取ることもあったかもしれない。ともすればそれはツカサを見捨てることになっていたかもしれないが。
ありえた可能性と現状、それぞれを比較し、ヒックは思案する。やりにくいこの状況を思案する。
ツカサと良好な関係を結べていれば、神の居城を探す手助けをしてもらえたかもしれない。ヒックが一番後悔しているのはそこだった。ツカサは神守になりたいと考えている。神守が至る場所である神の居城にも興味がないはずがない。
神の居城はこの村における最重要機密であり、探ることさえ不敬とされる。だから神守になりたいと望んでいてもただ座して待つしかない。ツカサもそのつもりであった。それでも、好奇心は向いている。明確なほどに焦がれている。
ヒックとしては、ツカサの協力が取り付けられれば、村の一員としての側面から神の居城についての情報が集められることになる。ただ話を聞いて回り、あてどなく村の中を歩き回るよりもよほど有益である。
ゆえに、ヒックはツカサとの間にできた溝を憂いている。
「はい、これヒックの」
「ありがとう、ツカサ」
目の前にツカサの作った夕飯が置かれた。毎日ツカサはヒックの分も食事を用意する。その一事を取ってしても、完璧にヒックと絶縁するつもりはないのだろう。であるならば、とヒックは思うーーまだ良好な関係性を築く余地はあるのかもしれない。しかしその切っ掛けがどうにも難しい。
ひとまず食事を取ってから考えようと器に顔を伸ばしたところで、
「これは?」
とツカサが近くにあった花を指差した。玄関からヒックが運んできた花である。
「さっき玄関で見つけたんだ。きっと、またあの少女だよ。」
「そう・・・。」
そう呟いてツカサは花に手を伸ばす。花を見つめるその目は、少しだけツカサの固さが和らいだように見えた。
これだ。
ひらめいてからは早かった。次の日にはヒックは行動を起こしていた。
朝、ツカサが手伝いに家から出るのを見届けた後、ヒックは丘から浜辺へと向かった。あの少女を見つけるためだ。日中の浜辺には子供達の遊ぶ姿があった。天候の悪い日を除けばいつも数人は子供が走り回っている。ヒックは浜辺に下りて少女を探す。船の間や岩場の陰で遊ぶ子供は何人かいたが、目的とする少女の姿はみつからなかった。浜辺をぐるりと歩き回り、ヒックはようやく、そういえば浜辺で例の少女を見かけたことがないと思い出した。
ヒックにとって人間の子供は見分けがつきにくく、どこでどんな子供を見かけたかを思い出すのにも手間がかかるのだった。雄か雌かの区別も難しい。髪の長さだけがヒックにとっての判断基準だった。
それでも何とか時間をかけて、高く上った日が少しずつ角度を落とし始めた頃にようやく目的の少女を見つける。少女は広い原の中で同じような背丈の子供と一緒に花を摘んでいた。
ヒックは少女に近づく。少女からも見える距離まで近づくと、一声だけ声を発した。もちろんツカサと会話するような声ではなく、この土地に住まう猫と同じような泣き声である。
「ミャオ」
声量を絞ったその声は、目的の少女にだけ届く。
「あ、猫さんだ」
声に気づいた少女が手に持つ花を置いてヒックへと近づいてくる。ヒックが少し警戒する素振りと、少女は、
「怖くないよ」
と、屈んで手を伸ばす。
それを見てヒックはそろりと近づき、その手の平の下に頭を押し付けた。
「ふふふ、可愛い」
嬉しそうに少女はヒックの頭を撫でる。
これはこの十数日でヒックが身に着けたことだった。この土地に限った話なのかはヒックには判断がつかないが、人間というものはどうやら猫が擦り寄ると喜ぶ傾向にあるようだ。当然全員が友好的に接してくるわけではなかったが、試したところおおよそ八割以上の確立で、ヒックが擦り寄ると嬉しそうに笑っていた。ヒックはこれを生かしてここ数日は村人の近くで情報を収集していたのだ。
しきりに体を撫でようとするのは人間の愛情表現なのだろうかと、ぐしゃぐしゃにされる毛並みを整えながらヒックは考えたりもしていたが。
ともあれ件の少女も多数派だったようで、ヒックを楽しそうに撫で回す。
さて、とヒックは思案する。何かめぼしいものはないものか。
ヒックは見上げた少女の髪に、紐でできた髪飾りが結えてあるのが見えた。
これでいいか。
撫でられる手をくすぐったがって身をよじる振りをしながら、少女の横に回る。とっさに少女はヒックを抱きかかえようと手を伸ばし、ヒックが急に逆方向へ向き直ったために両手を地面に着いた。そしてヒックは軽く跳躍する。
「あっ・・・だめ!」
少女が気づいた時にはもう遅く、ヒックは少女の髪飾りを咥えて着地していた。そのまま少女を見つめ、二歩後ずさりする。
「駄目よ猫さん。返して」
少女がヒックに手を伸ばしてきたのを見計らい、方向転換して駆け出した。
「待って、待ってってば」
少女は慌ててヒックの後を追う。周りの子供達は遊びに夢中でその様子に気づいていなかった。
ヒックと少女は原を抜けて浜辺を走り、丘の方へと進んでいく。少女は懸命に走るが、ヒックとの距離は縮まらない。それでも大きく離されずヒックを追いかけている。当然、ヒックの足ならば少女を振り払おうとすれば難なくそれができた。そうならないのはヒックが加減しているからだ。時折振り返り、少女が着いてきているのを確認して再度走り出す。
ヒックとしては少女が途中で諦める可能性も危惧していたのだがーーその可能性は十分にあったーー少女は折れることなくヒックに着いてきた。
丘を登り、先にある家へとヒックは入る。もちろんそれはツカサの家だった。
「えっ・・・。」
追いかけてきた少女はヒックが家に飛び込んだのを見てようやく、今いる場所が何処なのかを認識した。少女にとっては特別な場所。特別な相手の家だった。
家主は既に帰宅している。
「ヒック、帰ったのね」
挨拶とも独り言とも取れるツカサの言葉には返事をせずに、ヒックは咥えていた髪飾りをツカサの足元に置いた。
「・・・?」
ツカサはヒックの置いたものが気になり、屈んでそれを拾い上げる。ヒックはというと一度もしたことのないような、まるで野性動物のような格好で、ツカサの足元で転がっていた。
「あのぉ、すみません」
ツカサが髪飾りを拾い上げた丁度そのとき、中に入るのを躊躇していた少女が戸口から顔を覗かせた。緊張しているのか、恐る恐る声を発している。
驚いたのはツカサである。少女の声にびくりと肩をはねさせたのをヒックは見た。無理もない、この家には来客なんてこないし、来ても男ばかりだったのだから。
「え・・・あなた」
少女の顔を見てツカサは二度目の驚きを示す。手に持った髪飾りをうっかりと取り落とした。それをヒックはわざとらしく大げさな動きで咥え上げ、ツカサの手のひらに戻す。ツカサも少女もその動きに注視した。
「その髪飾り、私のなんです。猫ちゃんが持ってったの」
見るとツカサは半ば呆けていたので、ヒックは少女から見えない位置でぺしりとツカサを叩いた。尻尾で。ツカサはようやく話しかけられたことに気づくと、屈んでいた体制から慌てて立ち上がる。
「あ、えっと、髪飾り?ああ、髪飾りね。素敵よね、髪飾り。ほら、これどうかしら」
しどろもどろで喋りながら、ヒックにとっては不可解なことに何故かツカサは手にした髪飾りで自分の髪を結い始めた。真っ直ぐに伸びていた髪を頭の後ろで纏め、機械のように軋んだ音を立てながら横を向き、
「ど、どうかな」
と、ヒックを見ながら言った。
どうしてこっちを向いているのか、ヒックにはとんと理解できない。この娘の対人能力はこんなに低かっただろうかと思い返し、そういえば年下と接しているところを一度も目にしたことがないという事実に思い至った。というか、ヒックが知っている限りこの家を訪ねてきたのはヒイラギとカシナ、それに村長とその付き添いくらいだった。何の参考にもならない。憧憬を抱いていた年長者が慌てながら不可解な行動をしている、これを見た少女はさぞ困っているだろうとヒックが目をやると、しかして少女はけらけらと笑っていた。先ほどまでの強張った様子が嘘のように、笑っていた。
「あはは、お姉さん面白い。どうして髪を結んだの」
もっともだとヒックは肯く。
「それに猫さんに感想聞いても喋ったりなんかしないよ」
それは違う。
言われてツカサはようやく自身の奇抜な行動を理解したようで、先ほどまで白かった顔を急に赤く染めた
「な、なんてね」
冗談めかしてツカサは髪飾りを取ろうとするも、慌てて結んだからか、髪飾りはツカサの神に引っかかり、ツカサがほどこうとすればするほど絡まっていく。絡まった上でぐるぐると髪をねじり回すので、髪飾りはツカサの意に反して髪の奥深くへと潜り込んでいった。
「・・・。」
「・・・。」
あまりの出来にツカサと少女は無言で目を合わせた。
それから間を空けて、ツカサが「よし」と呟く。
「髪を切るわ」
「それは駄目!」
少女が慌てて制する。
「あげるから、その髪飾りお姉さんにあげるから。いやむしろ、もとからあげるつもりだったから」
ツカサよりもよほど大人だ、とヒックは思った。
「わ、私にくれるつもりだったの?えへへ嬉しいな」
そしてこいつは子供だ、とヒックは呆れる。
髪飾りについては勘違いを含みながらも少女からツカサへの贈り物ということで決着が付き、騒動をはさみながらもツカサも少女もようやく落ち着きを取り戻した。
「あ、あのね・・・あたしね・・・。」
落ち着いた事で恥ずかしさを取り戻したのか、少女は若干赤面しながら言葉を紡ぐ。
「お姉さんにお礼を言わなきゃって思ってたの。あの時のこと」
「あの時って、儀式のことかしら」
「うん」
少女は頷く。十数日前、儀式の途中でふいに崖から海へと転落した少女は噛みしめるように頷く。
落ちた少女の匂いにつられ海神ーーつまりは巨大鮫ーーはツカサにたてようとした歯を少女へと向けた。それが少女の元に到達する前に、ツカサは自分自身を餌にして海神を引きつけた。
「お姉さんが何をしたのかあたしにはわからないけど、お姉さんが何かをしてくれたのはわかったよ」
少女はツカサの手を取る。無垢な瞳をツカサに向ける。目の縁には光るものがあった。
「凄く怖い固まりがあたしに向かってきて、死ぬと思ったの。でも、遠くに暖かい何かが見えたと思ったら、怖い固まりが急に離れていった。そのときはわからなかったけど、後でお姉さんが海神を殺したって聞いてわかったの。あの時、お姉さんが助けてくれたんだって。あの時の暖かさはお姉さんだったんだって」
あの時、少女の目にはツカサの行動は見えていなかった。見えるはずもない。それでも、行為の意味は届いていた。
「ありがとう」
少女は言う。
「助けてくれてありがとう。海神を殺してくれてありがとう。生きててくれて、ありがとう」
「私はーーっ」
言葉を紡ごうとして、もう一人の少女は声が出せなかった。嗚咽だけが喉から漏れる。
ヒックは気づく。ツカサが海神を殺したことを正面から感謝されたのはこれが初めてだということに。目的の途上で身を挺して庇った相手に、自身の行為を誉めて、認めてもらえた。それはきっとツカサには何ものにも代え難いもののはずだ。この数日間、ずっと願っていた言葉だったのだ。
突然泣き出したツカサに少女は驚き慌てる。
「どうしたの、お姉さん。あたし何か悪いこと言っちゃった?」
「ううん、そうじゃない。そうじゃないのよ。ただ、嬉しいだけ」
涙を拭い、ツカサは屈んで真っ直ぐに少女を見た。
「私こそありがとうだよ。えっとーー」
「シイナだよ。あたしの名前はシイナ」
「ありがとう、シイナ。私はツカサって名前なの」
「じゃあツカサお姉さんって呼ぶね」
お互いの名前を呼び合い、ツカサとシイナは嬉しそうに笑った。
それから二人は他愛もない会話をし、一緒に花を摘み、お互いに作った花輪を交換して遊んだりしていた。ヒックは特に何をするでもなく二人を遠くから眺めていただけだった。
時間が経ち、日が傾き始めた頃にようやく、ツカサは名残惜しそうに言った。
「そろそろ、シイナはおうちに帰らないと駄目ね」
「うー、もうちょっとツカサお姉さんと遊んでたいけど・・・お母さんに怒られるのも嫌だし」
「そうそう。続きはまた明日、ね?」
「うん!」
元気よく返事をして、シイナは浜辺へ続く道を駆けだした。途中で振り返って、大声で言う。
「明日は絶対に猪捕まえようねー!」
「うん」
シイナには届かない声で頷き、ツカサは大きく手を振った。
それを見てシイナは嬉しそうに手を振り替えし、今度こそ帰路についた。黄昏の光を反射して山吹色に髪を染めて、丘を下っていった。
「ツカサ、あの子とどんな約束したのさ」
「狩りの仕方を教えてあげるって言ったのよ。猪は難しいかもしれないけれど、ウサギの一羽くらいはしとめてあげたいわね」
上機嫌そうに応えるツカサの姿に、ヒックは目論見が上首尾に終わったと一息付いた。ツカサの態度は幾分軟化している。元通りというわけでもないが、悪くはない。
などとヒックは一人ごちていたが、ツカサの後ろについて家に入ろうとしたところで、足を止めたツカサにぶつかった。
「・・・。」
「どうしたの?」
家に入らず、急に黙り込んだツカサにヒックが訊く。
「流石に、流石にわかっているのよ。私だって」
「・・・何を?」
「ヒック、貴方がシイナを無理矢理にでも引き連れて、私と面識を持たせることで私の気持ちを和らげようという魂胆」
「あー、うん。否定はしないよ」
ばれていたか。しかしヒックとしては気づかれようとさして構わない。駄目で元々の行動だったのだ。
「すると、僕は余計にツカサの気分を害したことになるのかな」
「ところが、そうでもないのよね。私だけだときっとあの子に、シイナに声を掛けることはできなかった。今日、こんなに嬉しい思いをすることもなかった」
思いを確かめるように、ツカサは胸に手を当てた。
「だから、貴方の魂胆は見逃してあげるわ」
「そりゃどうもだね。ところでーー」
家の中に入ろうとするツカサにヒックは一声掛ける。
「その埋まり込んだ髪飾りをどうにかしたら」
「っ・・・。」
夕日のせいか、それとも羞恥か、ツカサの顔は赤く染まっていた。
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