第10話 伸ばされた手は救いではなく
怖い。
海で溺れた時よりも、音のしない夜の森よりも、海神に立ち向かった今朝よりもーー怖い。
ツカサにとって生まれて初めて向けられる男の本能が、ツカサの体を冷えた海に放り出されたときのように強張らせた。そして自分を組み伏せる悪魔は言葉でも動きを封じてくる。抵抗することは、拒絶することは村からの廃絶を意味していた。だとしたらもう動けない。逃げ出したくても動けない。
衣服が剥ぎ取られ、上半身がさらけ出される。
考えたくない、何も見たくない、それでも怖くて目を閉じられない。
見ようとしないままに見上げていた天井にヒックが見えた。そして目の端で、カシナが衣服を脱ぎ始めるのを捕らえた。
やめろとは言えなかった。嫌だとは口にできなかった。
けれど、「助けて」という言葉が口から零れ落ちた。
「誰に言っているんだ。誰にも届かんさ」
カシナが歪んだ笑顔を浮かべ、ツカサの足を掴んだ。思わず目を閉じてしまい、後悔する。より恐怖が増しただけだ。再度目を開こうとしたその顔に、鉄の匂いと共に生暖かい液体がかかった。
はたして、ツカサが目を開いた先には口から血を零すカシナの姿があった。
「な・・・何が」
「がっ、ぐ」
血は今もツカサの顔へ飛散し続けている。しかし出所はカシナの口ではない。その下、喉元から。正確にはカシナの喉元に突き立てられた矢の切り口からだった。
矢の端はヒックが咥えている。今なお深く、そして広く傷つけようとヒックは力を込めている。
カシナは抵抗しようともがくが、力が入らずその手は虚空を掻くばかりでヒックには届かない。
「なっ・・・なん、ごれ」
血を吐きながらカシナが声にならない音を漏らす。
ヒックは矢から口を離すと、ツカサの上に降りた。丁度カシナと目線が合う位置で、カシナを見据えて口を開く。
「残念だったね。お楽しみは無しだよ」
噴出す血を浴びたまま、笑顔を作る不気味な猫の姿。それがカシナの生涯最後に見た光景であった。
何度も大きく痙攣をした後、カシナは力尽き、ツカサの上から転げ落ちた。血は溢れ続けているが、カシナはもうぴくりとも動かない。
「一丁上がり」
体についた血を舐め取りながら、ヒックはおどけた調子で言った。
ツカサは血が付いた顔に触れる。一瞬強く香った血の匂いに、胃の中身を全て床にぶちまけてしまう。
「げほっ、が、がはっ。・・・な、なん」
「ん?どうしたのツカサ」
「何で、どうして、こんな」
寝床に転がるカシナの死体がツカサの目に映る。えぐられた喉元から寝床を伝って一段下の床一面に広がる血。凄惨な顔と共に見開いた目が虚空を見つめていた。
「何でって、助けを求めたじゃないか。ツカサだよ。言ったのはツカサだ」
「私は、私はこんなこと、ここまでのことをーー」
「望んでないって?じゃあどうしたかったの。どうすればよかったの。どうして欲しかったのさ。拒めばここでは生きていけなくなる。かといって受け入れることもできなかったでしょ」
「ヒックが、そう、ヒックが喋りかければあの男だってきっと驚いて」
「驚いて、何。そこから先は?確かに僕が声を掛ければ驚いたかもしれない。たぶんそうだろうね。そして驚きついでにここから立ち去ったかも。でもそれで、何がどうなるっていうのさ。普通じゃない何かを飼ってる娘として、やっぱりツカサが村八分にされただけなんじゃないの」
「それは・・・そうかもしれないけれど」
「変わらないよ。何をどうしたって、ツカサがカシナとの交尾を拒む以上、殺すしかないんだから。殺さなくちゃ、ツカサはこの村にいられなくなるんだから」
激情も動揺も陰鬱さもなく、ヒックはいつもと変わらない様相であった。この異常時に通常通りであること、その異質さがツカサを更に混乱させる。
「勘違いしないで欲しいけれど。僕だって好き好んで殺したわけじゃないんだ。反撃される可能性もあった。逃げられる危険性もあった。ツカサがカシナの蛮行を受け入れるのであれば何もしなかったよ。だけど、ツカサのさっきの様子だと、ともすれば明日にでも自殺しかねなかったからね。それは僕としても困るんだ。ツカサには生きていて貰わないと困る」
「困るって、私が死んでいようが生きていようがヒックには何も関係がないじゃない」
「それがあるんだよ」
そう言うとヒックはツカサの正面からするりと横を抜け、枕元へと顔をもぐりこませる。顔を枕元から引き抜いたときには、四角い小さな塊を咥えていた。それはツカサが父の形見としているお守りだった。
ヒックはころんとそれをツカサの前に転がす。右の前足でそれを押さえてツカサに言う。
「これがその理由だ」
「わからない。ヒック、私には何も、貴方が言ってることもやってることもわからない。そのお守りが何だっていうの。どうしてそれが人を殺す理由にまでなるの」
「んー・・・そっか。もう少し落ち着いてから話をしないと難しいかな」
ヒックはツカサの正面から身を翻し、死体となったカシナの傍に立った。そして血の痕が残る前足でそれを指差して言う。
「それじゃ、まずはこれを片付けようか」
「片付ける・・・。そう、そうよ。どうにかしないと。こんなこと誰かに見られたら」
ツカサの家に死体が一つ。家に住むのはツカサ一人。誰がどう考えても、犯人はツカサとしか思えない。よもやヒックが殺したなどと弁明もできない。誰も信じはしないだろう。猫が矢を喉に突き立てたなどと。言えばツカサが頭のおかしな者だと思われ、一層嫌疑をかけられるだけだ。
「まあ少なくとも、村人を殺した奴が神守になれるとは思えないよね。おっと、それ以前に村八分かな」
ツカサにはヒックの顔が悪意で満ちているように見える。その実ヒックは表情なんて変えていないけれど。
「運び出さないと。それで、どこかに。そう、海よ。海に流せばーー」
「それは良くないと思うけど」
「どうして」
「だってここは漁港だよ。海神がいなくなったんだから、明日からはたぶん漁が解禁されるよね。となれば船は行きかうし海底はさらうでしょ。ツカサがよほど沖合いに遺棄しない限り、見つかる確立高いよね」
「カシナさんの死体が見つかっても、それが海なら誰が殺したかなんてわからないじゃない」
「そうかな」
言われてツカサは気づく。ヒックがカシナを殺した凶器が、よりにもよって矢であることをツカサは失念していた。ツカサの弓の腕は今日村人の多くに見せつけられたばかりである。近日中に矢で射られた死体が発見されれば、連想される人物は一人だ。
「そうだ、駄目よ。ここから運び出すだけじゃ駄目。隠さないと。誰にも見られないように」
カシナが殺されたことすら気づかれないように。
自分自身の発想に、ツカサは一瞬冷えた鉛のような気持ちになったがすぐさまその感傷を振り払う。すぐに行動しなければならない。夜間にツカサの家を訪ねてくる者はほぼ皆無だが、目の前にはまさに訊ねてきた人物の死体があるのだ。
「森に埋めるしかないだろうね」
「他人事みたいに」
「これに関しちゃ僕は力になれないからね。ツカサほどの体があればいいけれど、猫のこの身じゃ運ぼうにも限界があるよ」
ヒックの言い分はもっともであったが、かといってツカサもカシナを軽々と運べるわけではない。試しに抱え上げようとしたが、ほんの数秒持ち上げるので精一杯であった。荷車に載せれば運ぶことができないわけではないが、道中で何かあった場合、立ちゆかなくなるかもしれない。
「血抜きしたら?」
ヒックが言う。
「人間の血液って結構多いからね。抜いておけば多少は軽くなるだろうし。運ぶ道中に余計な痕跡を残さなくて済むよ」
ツカサは気乗りしないながらもカシナの下に瓶を置き、カシナの体を傾けて血抜きを始める。血が出やすいように傷口も広げる。傷口に刃を立てるとき、ツカサはふとこのまま傷口を矢によるものとわからないよう加工すればどうだろうかと考えた。そうすれば海に遺棄することもできるのでは。しかしその考えはすぐに捨てる。死因以前に、カシナの死体が見つかること事態よい状況とは言えない。カシナが行おうとしていた蛮行を考慮すれば恐らく、今晩カシナがツカサの家を訪ねたことを知る者はいないだろうが、それでも万が一がある。ツカサの家を訪ねたはずのカシナが死体で見つかれば、誰が疑われるかなど自明の理。結局のところカシナが死んだこと事態誰にも発覚してはならない。ツカサはそう結論付けた。
しばらくして傷口から血がほとんど出なくなった。カシナの体は赤みを失い、粘土のような見栄えとなっている。にじむ程度になった傷口を布できつく縛り、血が滴らないよう注意しながら荷車に載せる。
周囲を警戒しながら、ツカサは明かりを灯さずに夜の森へと荷車を引いて入る。月明かりも頼りない闇夜だがヒックが夜目を効かせて歩くので木の幹に阻まれることはなかった。森に入って数刻ほど後、村人の誰も立ち入らないような場所に荷車を止める。山菜も採れず、水源からも遠い、少し開けた場所に。
「人が人を弔う方法は時代や文化で多用だと本で読んだけれど、土に埋めるというのはどの地域でも広く見られた文化らしい。この村はどうなんだい」
「・・・。」
ツカサは応えない。村のならいで埋葬は荼毘に伏した後で遺灰を土に埋めることになっているが、そんなことをわざわざ教えたりはしない。そもそも、ツカサにとってこれは埋葬ではないのだ。
ただ隠しているだけ。
自業自得とは言えないけれど、かといって赦すこともまた難しい。生きていれば恨むこともできた。蛮行を行う前に死んだのであれば死を悼むこともできた。けれど、今のツカサにはどちらも難しかった。だから隠すのだ。整理のつかない感情を含めて、ただの躯となったカシナと共に隠す。
深く深く地を掘って、掘り起こされないよう、撒き戻されないようにより深くへ。穴の中に死体を横たえ、土をかける。何度も何度も覆い隠すように土をかぶせる。歪になった土の色をごまかすため、周囲の土も浅く掘って埋めなおした。枯葉を何重にもかぶせ、自然に見えるようならす。そうやって時間をかけ、ツカサはそれを隠した。当然初めてのことだ。上手くできたかはわからない。そもそも上手くできても嬉しくない。それでも時間をかけてツカサはやりきった。やりたくもないことを、嬉しくもないことを。
ツカサの手のひらは泥と血で汚れていた。明かりの少ない森の中でも判るくらいに、重くへばりついていた。あれだけ血抜きをしたのにカシナの体からは血がにじみ出ていたのだ。死に抗うように、己を主張するように。
程近い場所にある湧き水で手を洗い、冷たいその水を顔にかけてようやく、ツカサは一息つくことができた。しばらく休んだ後、荷車を引いて帰路へと着く。常にヒックはツカサの近くにいて、何度か軽口を叩いたりもしていたが、道中ツカサはまったく口を開かなかった。
家に着き、月明かりの下で荷車にカシナの血が付着していないかを丁寧に確認する。その後は部屋に飛散した血を丹念に拭う。その全てを終えるのに更に一刻費やした。そうやって全ての後始末を付け、カシナがいた痕跡を隠しきった後にようやくツカサはヒックと目を合わせた。その頃にはヒックはツカサに話しかけるのを諦め、どころかツカサを手伝うことすらやめて寝床で転がっていたが。
「話の続きをしましょう」
「話って、どれの?」
「父さんのお守りとヒックにどんな関係あるのかについてよ」
「ああ、それね。ようやく冷静になったんだね」
軽口を叩き、ヒックは再度ツカサの父が残した四角い塊をツカサの枕元から取り出した。右の前足でそれを転がし、角の模様を軽くなぞる。
「ツカサ、最初に話をしたとき、僕が何をしにこの土地へ来たのかを教えたよね」
「誰かに会いに来たって言っていたわね」
「特定の個人じゃないけれどね。創造主、僕のかつていた世界を作った者を探しに来たんだ。でも文明の程度を見る限り、この村にそれは見込めそうにない。それはこの数日で充分わかった」
「ならこの村を出て行けばいいじゃない」
「そう、だけれど例外もあったんだ」
ヒックはツカサのお守りを右の前足で軽く掻く、すると欠け落ちるように側面が開いた。開いた箇所を鼻先で押すと、四角い塊の隅に光が灯った。
「君がお守りとして持っていたこれは、高度な文明の機械だ。何に使うのか僕にも見当はつかないけれど、少なくともこの村の技術で作りえるものじゃない」
「なんなの、これーー。」
見たことのないお守りの挙動にツカサは言葉が紡げなくなる。今までツカサは父の形見をただの堅い四角い塊だと思っていた。それが蛍のように自ら発光するなど想像できるはずもない。ただ驚くばかりだった。
ツカサの驚愕をよそにヒックは話を進める。
「君は言ったね。この機械は君の、ツカサの母親が神の居城近くで見つけて君の父親に渡したのだと。そう、神の居城だ。そこにはこれと似たような文明の痕跡があるのかもしれない。僕の知りたいことがわかるかもしれない。ただ残念ながら神の居城はこの村における秘匿事項だよね。村の一部の人間しか知りえないことだって。だから僕はこの村にもうしばらく居続けることにしたんだよ」
「だから・・・だから私に生きていてもらわないと困るということなの?私が死んで、私の家が壊されたり誰かの手に渡ったりすれば、あなたは居場所がなくなるから」
「勿論それもある。ただ、それだけじゃないんだ。ともすればツカサが次の神守に選ばれるかもしれないよね。そうなれば、神の居城の全容を知ることだってできる」
「そういうことなのね」
ツカサはヒックから視線をそらし、家の窓から見える海をしばらく見つめた。いつもは水面に反射する月も今日は影を潜めている。明かりはどこにもない。
「ヒックは、私のために海神を殺そうと言ったわけじゃなかったのね」
父のお守りを見てヒックは海神を倒すことを言い出した。ヒックが神の居城に深い関心を抱いたのはその時だろう。
「そうだね。ツカサのためじゃない。僕のためだよ。ツカサに生きていてもらわなきゃ困るし、それに厄災をもたらす鮫を殺したとあれば、状況次第ではツカサが神守になる可能性もぐんと高くなると思ったしさ」
そこには同情も哀れみも何もなかったのだ。ツカサがそれを期待していたわけではない。それでも、ヒックの行動が自分のためではなかったという事実は、自分のためかもしれないと考えていたツカサにとって、快い話ではなかった。
そしてもう一つ。
「理由はわかったわ。けれど、だからと言って、やっぱり私はこの村の一員として、村人を殺すことを許容できない」
「ツカサを辱めに来たカシナでも?」
「わかってる。でも、理屈じゃないのよ」
「理屈を否定されると、僕に言えることはもうなくなるけれど。でもそうかい、そうなると僕はツカサの家から追い出されることになるのかな」
理解した上で言っている。ツカサはヒックの態度からそれを読み取った。追い出せるはずもないのだ。ヒックはカシナがツカサの家で絶命したことを知っている唯一の存在だ。ツカサからすれば目を離すことなどできようはずもない。この猫はそのことを重々承知している。これ以上ないほど理解している。それはツカサも同様だった。だから、追い出せるはずもない。
「今夜のようなことは、二度としないで」
「そうかい」
ツカサは心に抱いた不安を拭えない。
釘を刺すだけで、ヒックは考えを改めるだろうか。その自問に対する答えはツカサの中で既に出ている。考えるまでもない。考え方が違うのだ。次にまたツカサが窮地に陥れば、ヒックは誰かを殺すだろう。目的のために意識的に誰かを踏み潰す。ツカサはそれを想像するだけで胸が軋むのを感じる。嫌で嫌で仕方がない。
「疲れた。もう寝るわ」
考えるのを止めるために、ツカサは目を閉じた。寝ている間はこの思いに囚われなくてすむ。そう信じて光を閉ざす。
閉じた目から頬を伝って流れ落ちるものがあった。一粒こぼれる毎に小さく嗚咽を漏らす。
嫌で嫌で仕方がない。ヒックがではなく、自分自身が。
よかったと思っている。カシナの死体を隠すことができてよかったと。いやそれ以上に、海神殺しに否定的な意見を持っていたカシナがーーいなくなってよかったと。
ツカサの根っこの部分がそれを安堵していること、それこそがツカサが嫌で仕方ないことだった。
ツカサは神守なりたい。それはヒックの意図がどうであれ変わらないことだ。受け入れられない行動をしたヒックの目的に沿う形になっても、それでもツカサは神守になりたい。
けれどもそれはつまり、ツカサは心の根底でカシナが死んだことを肯定していることに他ならなかった。
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