第9話 蛆虫が這い寄る
ヒックが熱心に毛づくろいをしていると、またもや扉を叩く音がした。
ヒイラギが戻ってきたと思い、ヒックは天井の柱に身を隠す。ツカサは片づけを行っていた手を止め、扉を開いた。
果たして、そこにいるのはヒイラギではなかった。
「カシナさん」
「夜分に悪いな」
カシナと呼ばれた痩躯の男が愛想笑いのような顔で扉の前に立っていた。
ヒックはこの男に見覚えがあった。いつも村長の隣で腰を低くしていた奴だ。今日の儀式の間も、今みたいに愛想笑いを浮かべ、整えられていない髪の毛を額に貼り付けていた。
「何か御用ですか」
ヒイラギと接していたときとは違う、堅い空気を孕んだ声でツカサは訊ねる。
カシナは扉から一歩、部屋の中に入った。
「少々君と話をしておかなければと考えてな」
「話・・・ですか」
「そうだ。ともあれ、ひとまず今日はご苦労だったな」
「はい、まあ」
真意がわからず、ツカサは曖昧に頷くしかない。
「なんだ、覇気がないな」
「いえ、別に」
「あれほどの大役だったのだ、もっと胸を張ってもいいんじゃないか。何せーー海神の命を絶ったのだから」
「・・・・・・。」
わずかにツカサの瞳孔が開く。ツカサが固まっている間にもまた一歩、カシナは部屋の中へと入った。後ろ手に静かに扉を閉める。
「君は直ぐにここへ戻ったから知らぬだろうが、あれから村は大騒ぎだ」
「そう、ですか」
「神に捧げられる供物が神を殺したとあればそれも致し方ないことだがな。村の記録をひっくり返してもこんな前例は見当たらない。ましてやそれを成し遂げたのが君のような娘だというのだから」
「運が良かったんです」
「運!運命だと。巡り会わせが良かったとそういうのか!神に相対しておいて運が良かったと。はは、これは恐れ入った。いや、恐れ知らずということか」
カシナの物言いにツカサはたじろぐ。目を背けたままでツカサはカシナに言う。
「あの・・・お話というのはなんでしょうか。失礼ながら今日は疲れておりまして、できればすぐにでも休みたいのですが」
「ふん。ヒイラギは歓迎できても私は歓迎できんと言うわけか」
知っていたのか、それとも様子を伺っていたのか。カシナの言葉には薄気味悪い響きがあった。
「さしたる用ではない。ただ、気にしているのかと思ってな。次の神守について」
「それはっーー」
「憧れていたのだろう。前にヒイラギから聞いた。儀式に選ばれ一度は諦めたそうだが、しかしどうだ。生き残った今となってはまたその憧憬も戻ってきたのではないか」
「私は・・・っ。」
慌てて何かを言おうとし、ツカサは一度口を閉じた。そして、小さく深く息を吸い、冷静を装って問う。
「もしそうだとしても、それは村全体がお決めになられることですから」
「そうだな。神守は村の合議で決まるものだからな。君の母親であるカマツもそうやって選ばれた」
「・・・お母さん」
「カマツには人徳があり人望があった。祭事の能力も類稀なるものがあったな。しかし、君はどうだ?」
ツカサの顔を覗きこむようカシナは見据える。痩躯に乗ったその顔は、ヒックには骸骨のように見えた。そしてその窪みに鈍い生暖かい光も見える。
「儀式に選ばれ、供物として捧げられてなお抗うその態度。神を傷つけることを厭わないその執着。果たして神守に相応しいと言えるかどうか」
「あれは!・・・あれは神などではなかったのです。私程度に殺せる存在など神ではありません」
あれは海神ではなくただの鮫だった。人に殺されるものが神であるはずがない。それはヒックがツカサに説いた方便であり、ツカサが自分に言い聞かせていた言い訳だった。だからこそ、ツカサは殺してでも生きることを望んだ。
ツカサの言葉にカシナは口角を歪ませる。
「殺せたから神ではないと。なんとも傲慢な物言いをするものだな。ああ、確かに海神が神だったのか否かについては今まさに村で話し合っていることだ。面白いことに意見も割れている。だが、それが何故君にわかったのだ?わかるはずがないだろう」
「しかし現にあれは死にました」
「そうだ、死んだ。村長もあれは神ではなく神から我々への施しだと言っていた。しかしそれは結果論だろう。やる前からわかっていたわけではないだろう。だったら、だからこそ皆は迷っているのだ。かつて神だったものに弓引いたツカサは、次も神と呼ばれるものに弓を引くのではないかと」
「そんな」
神を殺したことがツカサに付きまとう。神を神でなくしたこと。その行為とその動機を問われてしまう。ヒックとしては村の中で見解が割れるのは事前に予想もついていたことだった。信仰に対する反応は一つではない。しかしどちらに転ぼうと、ツカサが生きていることが大事だった。
ツカサにはその予想がつかなかった。否、考えてはいたのかもしれない、しかしそれから目を逸らしていた。
「そんな悲痛な顔をするな。そんな考えもあるというだけの話だ。まだ、何も決まってはいない。今はまだ・・・な」
カシナの手がツカサの肩に触れた。ツカサは身をよじって離れる。離れた分を一歩、カシナが近づく。
「神守は村全体が決める。その候補もそうだ。しかし、それでも無視できん人物がおるだろう。そう、村長だ。村長は海神殺しの件を咎める気はなさそうだが、かといって神守に関してはどうだろうな。神を御座から引きずり降ろさんとするものを果たして神に遣う者として選ぶのかどうか」
カシナの目に見えた鈍い光は暗く、しかし明度を増す。
「などと疑問を投げかけたのは俺だがな」
「そんな」
「悲痛そうな顔をするなーー俺の言葉次第では村長に口利きもできんことはない」
「それは・・・。」
カシナは村長の腰巾着。常に傍にいる者として、相談役に近い役割も果たしている。その言葉に村長がどれほど真摯に耳を傾けるかはわからないが、それでも気後れすることなく村長に進言できるというだけで、十二分に価値はある。少なくとも、ツカサがそう考えるであろうことをヒックは気づいていた。
ではその見返りは。
「カマツは器量もいい女だった」
カシナの手が再度ツカサの肩に伸びる。先ほどと違うのは、ツカサがそれを振り払わないこと。カマツの手が触れた瞬間、小さく肩が跳ねただけだった。
「ヒイラギはそこに憧れ、そして今も君の中にそれを見ているがゆえに君を気に掛けているのだろうが、しかし馬鹿だな。目の前にこんなにも瑞々しいものがあるというのに」
「何をーー」
「わからぬ歳でもなかろう。いや、わからんというのならそれはそれで一興。こちらも愉しみが増える」
カマツは猛禽類のような苛烈さと荒々しさで、ツカサを寝床へと組み伏せる。振り回された力でツカサの衣服は乱れ、首もとの肌があらわになった。
「や、やめ」
「拒んでもいいぞ。ただし明日から村にツカサという娘の居場所はなくなるがな」
カシナの言葉にツカサは動けなくなる。村からはじき出されること、ヒックが知る限り、それはツカサが最も忌避していたことだ。身体能力の高いツカサならば、カシナを打ち倒すことは無理だとしてもこの場から逃げだすことくらいは何とかできるはずだった。しかし、カシナの言葉にツカサは縛られ、碌な抵抗もできていない。
「なに、悪いようにはせん。村長にも上手くとりなすさ。生活も不自由させんぞ」
ツカサの首筋にカシナの舌が這う。まるで肉食獣が獲物を仕留めた合図のように。
ヒックは屋根の柱から傍観していた。ツカサはあまり好ましく思っていないようだが、このカシナの提案する取引は存外悪いものではないと考えているからだ。この数日の様子から、カシナが村の中でそれなりに地位のあるものだとわかっている。村長への影響力も低くはないだろう。そしてツカサの生活を支えるとも言っている。この村でツカサが生きていくにあたってカシナの庇護を受けられるというのは望外の待遇だ。交尾に至る過程の乱暴さに関しては些か目に余るものがあるが、文明程度の低い集団というのはこういうものなのだろう。
ツカサの衣服が剥ぎ取られようという段になっても、ヒックはただ見ているだけだった。
ツカサは身を固く強張らせるだけで何も抵抗できない。何度もカシナから脅しと換言を受け、ただ目を見開き浅い呼吸を繰り返す。
その目がヒックを捉えた。大した興味はなさそうに、さりとて目を離さずにいたヒックとツカサの視線が交差した。
ヒックが目を逸らす。これはツカサにとって悪い話ではないーーはずだ。
誰とも交わらなくなった目で虚空を見つめ、掻き消えるような声で少女は言った。
「助けて」
周りに家はなく、ヒイラギもとうに去っている。
その声が聞こえたのはヒックだけだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます