第8話 心の置き場を探る間に

 浜辺の大人たちは混乱していた。

 日が高く昇った頃合を見て、儀式は始められた。白い装束を身に纏った少女が海へと足を浸け、遠目には海神の影が見えた。海神の存在に気づき、全員が息を呑んだ。

そこまでは前回の儀式と同じだった。

しかし、人柱となるはずだった少女が隠し持った弓で海神を射ったところから、様相が変わった。前例通りではなくなった。そこから先は激動と混乱の連続である。

子供が海へ転落し、海が突如局所的に爆発したかのように波立ち、かと思えば白く氷を撒き散らした。

船を出した男衆が転落した子供を引き上げた頃には、海神の影も人柱である少女の姿も見えなくなっていた。

皆が遠くから直前まで少女のいた水面を見つめる。流石に海に入ってまで確認しようとする者は一人もいなかった。子供を救った男衆も海神を恐れて即座に浜へと引き返していた。

何が起こったのか、何かが起こったのか、浜にいる者達の混乱が限界に達しようかというそのさなかに、ようやくその姿は現れた。

「村長、あれ」

 村長の隣にいた男が指をさす。視線の先にはツカサがいた。

 水面にツカサの頭だけが見えた。早とちりした者はそれを生首だと誤解し悲鳴をあげるが、当然、少しずつ首から下も姿を現す。五体満足なそのままで、ツカサはゆっくりと浜へ向かって泳いでいた。時折背後を確認しながら、泳ぎにくそうに浜へと近づく。

 足が着く深さになると、浜にいる大人達にもツカサが何をしているのかがわかってきた。何かを引きずっている。それも相当に大きな何かを。その何かが海底に接し、砂の抵抗でツカサの腕では引きずることもできなくなる頃には、見ていた皆がツカサの引きずっていたものの正体に気づいた。

 海神。

 凍りつく者、腰が抜ける者、目を見開く者。皆様々な反応をしたが、誰一人声を出せなかった。目の前の状況が理解できず、肺から空気を出す方法を忘れていた。

「ふふ、ふふふ」

 ツカサは大人達のそんな表情がどうしようもなく可笑しく思えてしまい、場違いにも笑ってしまった。ただ、押し殺した笑い方だったため、大人達には一層不気味なものとして映ってしまったけれど。

「ツカサ、おぬし」

 口を開いたのは村長だった。

「確認するが、そこに横たわっておるのはーー海神なのじゃな」

「如何にも、その通りです」

「死んでおられるのか」

「ええ、殺しました」

「そうか」

 ツカサの言葉に、村長は呆然としたまま肯いた。

 状況に追いつけないのは周りの大人達も同様である。何しろ、海神の姿を見たことがあるものもそういないのだ。それが今目の前にあること。既に死んでいること。そしてそれを成したのがツカサであること。一度に飲み込むにはあまりに衝撃的過ぎた。

 そして何より、村人のそれぞれが図りかねているのだ。この状況をどう捉えるべきなのかを。

 ツカサがいきている。海神が死んでいる。ツカサが海神を殺した。

 喜んでいいものなのか、悲しむべきものなのか、それとも憤るのか。それぞれがそれぞれにわからないままであった。だからこそ、次の村長の言葉に皆は注目した。

 それはツカサも同様である。否、それ以上だ。この場の誰よりもこの先を気にしていた。神を殺した村の反逆者と扱われるのか、それともーー。

 村長もそのことには気づいていたのだろう。すぐには口を開かず、慎重に考えをめぐらし、十分に時間を掛けた後、言った。

「よくやってくれた」

「・・・はい」

 安堵の声と共に、ツカサの目から涙がこぼれた。

怖かったのだ。鮫に挑むことよりも、血を流すことよりも、村の裏切り者として罵られることが怖かった。村長の一言はそれを否定してくれた。ツカサの行いは間違ったものではないと、認めてくれた。

「皆の衆。見やれ、あの海神の巨体を。これは紛れもなく神がわしらにその身を供物として与えてくださった証拠じゃて。ありがたく頂こう」

 村長の号令を受け、男衆が海からかつて海神だったものの体を引き上げ始める。その巨体は確かに食料として十分に食いでがありそうだった。

 男衆の作業を離れて見ていたツカサの肩に、村長の手が触れる。

「今日は疲れたじゃろう。ひとまず家に戻りなさい」

「ありがとうございます」

「礼なんぞ、それこそ・・・いや、言うまい」

 村長の枯れ木のような手は、それでもかつての力強さを思わせるほど大きく、そして暖かかった。

「夜には誰かにあれの身を運ばせるからの。それに、そうじゃのう。明日は働かんでもええ。ゆっくり休め」

「はい」

 村長の手がツカサの背を軽く押す。肩に残る熱の余韻を感じながら、ツカサは浜から丘へ、自分の家へと歩く。

 その背に向けられる目線にはついぞ気づかないまま、ツカサは帰路へとついた。



 ツカサが浜を離れてしばらくしたころ、ようやくヒックが浜辺の砂に足をつけた。ツカサと同時に海中から上がるのを避けたためだ。ツカサが神を引きずって海中から顔を出すのだから、隣から猫が同時に出てきても誰も気にも留めはしないだろうが、念のために時間をずらすことにしていた。

 身震いをして水を飛ばす。

 案の定、村の全員が死んだ元海神の体に目を奪われており、ヒックを視界に入れるものすらいなかった。

「・・・。」

 ヒックはそのままその場を去ろうとしたが、途中でふと思い立ち、元海神のもとへと近づいた。

大きな体に鋭い牙。死んでなお周囲に撒き散らす脅威のせいか、漁師を除いて村人達も手の届く距離には近づこうとはしていない。仮にぴくりとでも動けば、即座に皆が逃げ出すだろう。それだけ巨大だった。体も、その存在も。

体の表面には無数の傷跡があった。深くついた傷跡もあり、それは元海神の生きていた世界の恐ろしさを感じさせると共に、やはりこの鮫は単なる生物だったのだとも物語っていた。

傷つきもすれば死にもする。そんな単なる生き物。

傷跡の中にはパラシュートで絡まった際にできた傷もあるのだろうが、それ以外にも生傷がいくつかあるように見え、ヒックにはどの傷跡が何に起因するものなのかは想像するしかなかった。しかし、一つだけ明確に原因を特定できる傷跡があった。背びれの付け根にできた矢の傷だけは、考えるまでもないものだ。

 当然、弓など射ることのないヒックだけれど、ツカサの射た矢が、どれほど凄まじい技能によって対象へと刺さったのかは村人達の反応から窺い知れた。皆矢を見て一様に驚愕の表情を浮かべているからだ。浜から見ていた村人達の多くは、矢が刺さったかどうかも見えてはいなかったようだ。

 村人の中に鮫の知識を持つ人物がはたしているのか。そもそも村人達には目の前の生き物がどのように死んだのかもわかってないのかもしれない。

「海神を殺すとはな」

「ああ、凄いことだ」

「凄いには凄いけれど、私は怖いよ。罰が当たりゃしないかね」

「当たるとしたらツカサにだろうが・・・。」

「俺は悪いことだとは思えんがな」

「わしもそうだ。しかし、気持ち悪くもある」

「気持ち悪いどころじゃないわよ。勘弁しとくれよ」

「しかし村長はツカサを咎めはしなかったぞ」

「ああ、確かにそうだ。村長はこれは供物だとおっしゃった。神がお与えになられたと」

「こうやって死んだ姿見ると、神だったかどうかもわからないわよ」

「そりゃそうだがーー」

 一人が喋れば波紋のように周囲の者達が口々に自分の意見を言う。そんな光景がいたるところで起こっていた。戸惑いと怖れがあり、歓喜と安堵もある。反応をざっと見回すに戸惑う者が一番多いように見えた。漁師達は幾分喜んでいる者の割合が多い。

 村長の指揮の下、元海神の体が解体され始めた辺りでヒックはその場を立ち去った。

 丘を登り、ツカサの家へと戻る。その途中でヒックは一人の少女とすれ違った。ツカサを除けば村に知り合いなどいようはずもないが、ヒックは丘を駆け下りていく少女の姿に既視感を抱いた。

「・・・あ、あの子か」

 神殺しの途中に海へと転落した子供だと気づく。画面に映った映像で、しかも海から出ていた顔の辺りしかヒックには見えていなかったので直ぐに思い出せなかったが、あの子供は確かにそうだ。

 丘の上にはツカサの家しかなく、それを過ぎれば森が広がっているのだが、あれほど小さい子供が一人で森に行ったとは考えづらい。ツカサに何か用でもあったのだろうか。

 ツカサの家に着いたヒックは、出入り口に花をより合わせて作った輪が掛けられているのを見つけた。儀式に向けてツカサと共に出発した際には間違いなくなかったものだ。ところどころ曲がっているそれは、歪ながらも丁寧に作られており、製作者の心を表しているかのようだった。

 ヒックはしばし花の輪を眺めてからツカサの家へと入った。

「ツカサ、戻ったよ」

「遅かったのね」

 寝床に横になった姿で、顔だけ入り口に向けてツカサは返事をした。

「周りの様子を見ていたくてね。それより、どうしたのツカサ。凄く怠けた格好しているけれど」

「え・・・そうかしら?」

「そうだよ」

 ツカサは寝床に体を放り出し、着ている衣服は半分以上はだけていた。弓も儀式の装束も床に転がったままで、あまつさえ寝転がった姿で乾燥肉を咀嚼している。ヒックの知る言葉で表現するのなら、これは怠惰というものだ。

「家に帰ってきたら力が抜けたのよ。自分でも驚くほどに今の私無気力なの」

「まあ、命のやり取りを終えたあとだからね。仕方ないといえば仕方ないだろうけどさ。まさか客が来たときもそんな格好してたわけじゃないよね」

「来てないわよ客なんて」

「あれ?女の子が一人来てなかったかい?」

「いいえ。誰のことを言っているの?」

「いや、ここに戻るときに丘の途中で女の子とすれ違ったから、てっきりツカサを訪ねてきたのかと。ほら、儀式の途中で海に落ちたあの女の子だよ」

「あの子が・・・。いや、でも、ここに来てはいないわ」

「そっかそれは意外だったな。てっきり入り口の花もあの子からの贈り物かと思ったよ」

「花――」

 ツカサは跳ねるように身を起こすと、慌てて外に出た。そして戸口を振り返り、ヒックも見た花の輪を目にする。

 ヒックは見た。振り返ったツカサが花を目に捉えた瞬間、柔らかく笑うのを。この三日間で一度も目にしたことのない表情。ヒックは初めて嬉しそうに笑うツカサを見た。

「ツカサ、そんなに嬉しいのかい」

「ええ、嬉しい。あの子が来てくれたのね。こっそりとこんなことをせずに、声を掛けてくれればよかったのに」

「うっかり中を覗いて声を掛けていたら、幻滅したかもしれないけどね」

「・・・。」

 急にツカサは乱れた衣服や髪の毛を整え始めた。もう遅いだろう、という言葉をヒックは飲み込む。

「ついさっきまでツカサは生贄だったわけだし、あの女の子もどう接したらいいのかわからなかったんじゃないかな」

「そうかしら。そうだといいけれど」

 ツカサは花の輪を持ち上げて花弁の一つに顔を近づける。嗅いだ匂いをかみ締めるように小さく頷き、花の輪を家の中へと持って入った。

「どうするのそれ」

「えーと・・・。」

壁を見回し、窓際の縁に結びつけた。

「うん、綺麗」

 ツカサは満足げに頷く。

 ヒックは花の輪とツカサを交互に見る。この位置だと家の外からも花の輪が飾られているのがわかる。外に放置しておくよりは日持ちもするだろう。誰に対する配慮なのかは考えるまでもない。ヒックとしては、それはとても回りくどい意思表示の仕方に思えたが、ツカサにしてみればこれでも気を利かせた方である。

 花の輪を飾り終えると、ツカサは傾き始めた太陽を見て時間の経過に気づいたのか、夕飯の準備を始めた。火をくべ、米を洗い始めてはたとその手が止まる。

「お米しかない」

 ヒックはツカサの視線につられるように見回す。保存の利く食料は先ほどからツカサが噛んでいた乾燥肉くらいのもので、野菜や魚の類は何もなかった。

「あれ、でもツカサ、昨日村長が来たときは食べ物はあるって言ってたよね」

「ええ。儀式の日、つまり今日の朝までの分は十分あったのだけれど、そうね、それ以降のことを勘定に入れていなかった」

「あー・・・。」

 食材の管理なんて、昨日今日の話ではない。何日も前からずっと、食材がぎりぎりで底を突くように計算していたのだ。無駄にならぬよう、面倒を残さぬよう。しかしツカサは生きている。ヒックと出会う以前の予定に反して、ツカサは今夜もご飯を食べることになった。

「お米だけでもいいけれど、まだ明るいし山菜でも採りに行こうかしら」

「僕もネズミくらいなら狩ってこれるよ」

「・・・肉はまだあるから」

 ツカサはヒックの打診を断り、籠を手に山へと出かける身支度を始める。

 自分の食べ物くらい自分で調達しようかとヒックは寝そべっていた体を起こし、さて山に行くか海に行くかと悩み始めた辺りで、扉を叩く音が聞こえた。

 遠慮がちなこの音はヒックにも聞き覚えがある。ツカサは尚更である。

 ツカサは背負っていた籠を下ろし扉を開く。ヒックはなんとなくツカサの寝床に身を隠した。

「ヒイラギさん」

「ツカサ!あぁ、ツカサだ」

「ちょっーー」

 扉が開くと同時にヒイラギはその大きな体でツカサを抱きすくめた。ツカサは顔に胸板を押し当てられた状況になり、ヒックからほとんど隠れてしまう。

「儀式、予定通り行われるって聞いて、ツカサの・・・ツカサが言ったとおり儀式には立ち会わないことにしてたから、驚きで。家にいたら村長が、持っていけって、切り身を、というか海神を。凄いよ本当に」

 ヒイラギはよほど興奮しているのか話している内容が支離滅裂で、加えてツカサはヒイラギの胸の中で文字通り息が詰まっていたので、二人は何一つ意思の疎通ができていない。ツカサは訴えるようにヒイラギの背中を強く叩く。

「息、できな・・・顔、離して」

「え、ああごめん!」

 ようやくツカサの状態に気づき、ヒイラギがツカサから離れる。ツカサは素潜りを終えた後のように顔を上に向けて思い切り深呼吸した。あまりにも急に吸い込んだせいかしばしむせる。

「せっかく生き残ったのに、殺すつもりなのかしら、ヒイラギさん」

「ごめんごめん、あまりに嬉しくて。でも本当によかった、生きていてくれて」

 言葉にしてまたも感情がぶり返してきたのか、ヒイラギはもう一度ツカサを抱きすくめようとしたが、それはツカサの手に静止された。まるで大型犬のようだとヒックは独り笑う。

「ありがとう。そう言ってもらえて私も嬉しい」

「昨日ツカサに言われたとおり、俺は儀式の間は家にいたから、何が起こっていたか知らなかったんだ。知らせを受けて飛んできたんだよ。まさか海神を殺すことができたなんて、今でも信じられない」

「そうね、自分でも驚いてるわ」

 海神の話になるとツカサは目を泳がせた。神を殺したこと、その手段。ツカサにとっても、そしてヒックにとっても質問されたくない事柄がいくつも含まれている。ツカサは話題を変えようと目に付いたものを指差す。

「その大きな包みは何?」

 ヒイラギの足元には大人が両手で抱えてやっとという程の大きな包みがあった。言われてヒイラギは包みを開く。中には薄い桃色をした塊が見えた。

「海神の切り分けた身さ。村中に配られてて、村長がツカサの家にも持っていくようにと言っていたから、俺が持ってきた」

「ありがとうヒイラギさん。実は今日食べる分の食材が心許なかったの」

「おっと、そうだったのか。言ってくれれば他にも何か持ってくるけれど」

「いいえ、これだけで十分よ。さっそく調理させてもらうわね。ヒイラギさんも食事がまだなら食べていかない?」

「うん、ありがたくいただくよ」

「少し時間が掛かると思うから、待っていて」

 ツカサは海神の体、つまりは鮫の切り身を手に料理を始める。手持ち無沙汰になったヒイラギが、呆けたように外を見ていると窓枠に掛けてある花の輪に気がついた。よく見てみようと手を伸ばすと、掛け方が不十分だったのか花の輪がツカサの寝床に転がり落ちた。

「おっと」

 ヒイラギが拾おうとしてツカサの寝床に手を着くと、運悪くそこはヒックが丸まっていたところだったので、ヒイラギの手がヒックの尻尾を押し潰してしまった。

「っーー!」

 声を出すのは流石に我慢したが、痛みのあまりにヒックは寝床から飛び出す。

「うわっ!」

 急に目の前に猫が飛び出してきたので、ヒイラギは無様な声を挙げて尻餅を着いた。

 尻尾に残る鈍い痛みがヒックをイラつかせる。声を出して抗議するわけにはいかないので、ヒックは猫らしく唸り声を上げておく。ヒックとしては久しく遣っていなかった発音なので、動物らしさよりもわざとらしさの方が勝ったような音になった。本物らしくするにはもう少し練習が必要だ。

「猫、猫か。どっから入ってきたんだお前。っていうかどこに入ってたんだよ」

 ちらちらと横目でヒックを見ながら、ヒイラギはひとまず花の輪を元の位置に戻す。

「どうかしたの」

 ツカサが料理の手を止めてヒイラギの様子を見に来た。ヒックは未だ機嫌が直りきっていないので、長い尻尾をぺしんぺしんと床に叩きつけている。

「この猫がツカサの寝床にもぐりこんでいたんだ。いつからいたんだこいつ」

「さあ、いつからだったかしら、覚えてるヒック?」

「・・・。」

 つられて返答しそうになるのを我慢する。ツカサはヒックが喋ることを隠す気はないのだろうか。ヒックはこの場における喋る猫という異常性をツカサに説明したかったが、生憎とそれはできない。説明することそのものが異常性の証明になってしまう。かといって、このまま放置してもツカサがヒイラギに伝えてしまいそうだ。ヒックが喋る猫であることを。

 ヒックはツカサが察してくれることを祈り「ンナァー」と先ほどよりは上手な猫の鳴き声を出した。ついでに小さく首を横に振る。

「どうしたのヒック、急にそんな猫みたいな声出して」

 伝わらなかった。ヒックの目にヒイラギの驚いた顔が映る。ばれてしまったか。

「驚いた」

 ヒイラギは目を見開いた顔のままツカサとヒックを交互に見る。

「ツカサが動物に話しかけるなんて。そんなことをする子じゃないと思ってた」

「――よし」

 思わずヒックは小さく呟く。どうやらヒイラギはツカサのことをペットに話しかけるタイプの少女だと誤解したらしい。あまりにもツカサのイメージとかけ離れているとヒックは思ったが、しかしだからこそヒイラギも驚きの表情をしているのだ。

 そしてどうやら一拍遅れてツカサもヒックに話かけるのは不味いと気づいたらしい。ヒックとしてはできればもっと早く気づいて欲しかったところではあるが。ツカサはヒックを両手に抱えて、未だ顔が戻りきっていないヒイラギに言う。

「この猫は喋りません」

「そりゃそうだろう」

「ですよね。では私は料理に戻るので」

「えっと、この猫飼ってるの?」

「ええ。二日ほど前から」

 ツカサが料理に戻った後もヒイラギの関心はヒックに残ったままで、ヒックのお腹をつまんだり、尻尾を掴んだり、ありていに言えば暇つぶしのおもちゃにしていた。当然ヒックは気分良くないのだが、かといって怒鳴るわけにもいかず、身をよじった程度ではすぐに捕まえられてしまうので、ツカサの料理が完成する頃には既に抵抗を諦めていた。

 料理を終え、ツカサが調理した鮫の切り身と米を並べる。ヒック用の切り身もあるらしい。ヒックとしては生でも問題なかったが、骨が面倒なので骨抜きをしてくれている分、調理済みのほうが嬉しい。

「ありがとうツカサ。では、いただきます」

「どうぞ」

「ンニャー」

 練習ついでにヒックも猫っぽい声を出しておいた。

 二人と一匹は鮫の切り身を口に運ぶ。租借し、飲み込んで、最初に口を開いたのはヒイラギだった。

「美味いなこれ。普通に美味しい魚じゃないか」

 こっそりとヒックも頷く。流石に博識なヒックといえども、鮫の味は体験したことがなかった。調理の結果ということもあるのだろうが、それを差し引いても普通にいい味のするものだった。声に出しはしないが、ツカサもその味は気に入ったようで、それなりの速さでもくもくと食べ続けている。

 それから二人と一匹は暫し食事に集中した。ツカサとヒックは多忙だった一日の疲れから体が栄養を求めていたし、ヒイラギはどうやらここ数日ものをまともに食べていなかったらしい。

 一通り食べ終え、食後のお茶で喉を潤した段になって、ヒイラギは声の調子を変えた。

「しかしツカサが海神を仕留めるとはな。これで一歩、いや一足飛びに五歩くらいは近づいたんじゃないか」

「近づいたって、何に?」

「神守の事に決まってるだろ」

 ぴくんとヒックが耳をそばだてる。それは聞いたことのある名称だ。神守とはツカサの母親が従事していると言っていた職業の名前だったはず。

「近づいた・・・。私が、神守に?」

「ああ。だってそうだろう。海神を仕留めるなんてこの村で未だかつてだれも成し遂げていなかったことだ。俺には想像もできなかったことだ。それだけの大事を成し遂げたのなら、神守の候補に上ったっておかしくはない」

「だとしたら、とても嬉しいけれど」

 言いながらツカサの顔には影が差す。

「けれど?」

「そうじゃない可能性だってとても大きいから。ヒイラギさんだってわかるでしょう」

「言いたいことはわかる。海神を殺したわけだからな」

 神殺しーーツカサはそれを成した。海神とあがめられていたものを殺して躯へと変えた。それは確かに偉業だ。人が信仰を与えるにたる巨大な存在を単身で打ち滅ぼしたのだから、おいそれとできることではない。しかし、凄いことをしたからといって、それがそのまま正当に賞賛されるかと言えばまた別の話である。ヒックは帰りの道すがら聞いた村人の言葉を思い出していた。

 神罰を怖れる者がいて、不快感を示す者もいた。

 評価が一様ではないのだ。神を殺したのだから凄いと褒める声があり、殺されるような存在は元々神ではなかったのだとひねたことを言っていたりもした。村として今日起きたことをどう捉えるかは、未だ決まってはいない。村長が海神の肉を神が村民に与えた施しだと言いはしたが、それがどこまで受け入れられたかは疑わしいものだった。少なくとも、ツカサにとっては手放しで喜べる状況ではないのだ。

「神を殺したとして、私が神に近づくことを禁止される可能性だってありえるもの」

「悪い方に考えがいく気持ちはわかるけれど、俺はそうは思わない。思えない。ツカサが生贄にならなかったおかげで、多くの命が救われたんだから」

「救われたのは私の命だけよ」

「違うな。君は君の次に海神に捧げられる誰かの命を救った。君の次の次に生け贄となる誰かの命を守った。そうだろう。君が終わらせたんだ」

 ツカサは何かを言おうとし、言葉に詰まったのか目を閉じて頷いた。

「まあ仮に神守候補に入ったとしても、そう容易になれるわけじゃないけどな。他にも候補はいるし、そもそも神様の許しが出るかどうか」

「今年はどうなのかしら」

「周期としては近々だとは思うが、まったく神様ってのは気まぐれだからな」

 それから暫く二人は雑談を続けた。先日ヒイラギがツカサの家に訪れた時は短く簡素なやり取りだけだったが、今回は違う。ツカサの死が回避されたことで、二人にはーー特にヒイラギの側にーー無駄な時間を過ごす余裕ができた。食材の件も含め、無自覚のうちにツカサも自分が死ぬことに捉われていた。それがなくなった今こそが本来のやり取りであることにヒックも気づいた。

「長居したな。そろそろ帰るよ」

 日が落ち、風が冷たさを増した頃にヒイラギが腰を上げた。

「ツカサ、生きててくれてありがとう」

 心底嬉しそうにヒイラギは笑い、そして夜の闇へと消えていった。

「疲れた」

 ヒイラギの姿が見えなくなった後、ヒックはツカサの寝床に体を伸ばした。食事を終えた後もヒイラギは帰るまでずっと片手間にヒックを撫で回していたので、ヒックはようやく開放された。

「あれは何だよ。嫌がらせなの?」

「ヒイラギさん、猫好きなの。あれでも加減していた方よ」

「この土地の猫に同情するよ」

 撫で回されて不揃いになった毛並みをなおしつつヒックはぼやく。この数刻で猫の声まねが上手くなってしまった。ヒックにとっては若干の不名誉である。

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