第7話 成し遂げた意味を見る前に

「まさか当てるとは」

 そう呟いたのは村人の一人ーーではなく、隣で見ていたヒックだった。

 前日の打ち合わせでは、最初の一矢はただ射るだけで構わないという前提だったのだ。というか、ヒックは当てられるものだとは露ほども考えてはいなかった。せいぜい側に落ちて威嚇がいいところだろうと思っていたのだ。それをまさか命中させるとは、偶然にしても出来すぎている。

 ともあれ、上手くいく分にはヒックの予定としては問題ない。むしろツカサの腕前に目を奪われている今この瞬間こそが策をふいにしかねないというものだ。

「じゃ、行ってくるよ」

 そう言ってヒックはかぶっていた木箱を放り出し、水中へと潜行する。目指す場所は朝と同じ、ヒックの宇宙船だ。

 潜る瞬間の水平線には海神が水面を強く打って暴れているのが見えた。怪我を負って興奮しているのだろう。もっと、更にもっと興奮を重ねて貰わなければ。

 朝と同じ手順を踏んで船内へと入る。エアロックを介して海水を排水し、塗れた体は身震い一つで繕って操縦室へと滑り込ませた。各部に電源を回す。重苦しい音と共に宇宙船が鳴動を始めた。ヒックはその中に異音が混じっていないか注意を払う。

 大丈夫、こいつは正常に動き始めた。

 必要な機構のみを作動可能な状態に移行させる。ここら辺は手慣れたものである。側面のボタンを押し込み、レバーを引く。水面に近い方の表面蓋が開き、中から連絡線で繋がった小型機器が複数水中に放り出される。

 正面の表示盤に操作を加えると、幾度かノイズが走った後に宇宙船外の風景が表示された。八台のカメラが水面と水中のそれぞれ四方を撮影し、宇宙船へと映像を送っているのだ。

「えーと、ツカサはどこだろう・・・あ、いた」

 カメラの画角を調整するとツカサの装束が写り込んだ。予定通りの位置へ移動している。宇宙船の底部方向、もっとも、宇宙船は浜へ頭を向けるようにして横たわっているので、この場合は宇宙船より海側へツカサが移動していることになる。もう既に足は付かない位置。泳ぐことが得意な者達の世界。そこへツカサは足を踏み入れている。弓は背に背負っているが、もう使う事はできない。そして当然、使う予定もない。

 最初の一射目は意思表示だ。文字通り神に弓引くつもりであることを示したのだ。その意志を示す相手はもちろん神ではない。村人に対してもそうだ。なればこそ、この後の結末にも意味が作られるのだから。

 海神は食い込んだ矢から血を滴らせながら左右にやたらめったら動き回っている。痛みとその意味を推し量るように、しきりに体を捻っていた。

 浜辺の方では村人達がただならぬ様子に右往左往している。ツカサが儀式を順序通りに行うつもりでないのは明白だが、だからといってどうすればいいのか判断しかねている様子だった。まさか海に入ってツカサを引きずり出すわけにもいかず、かといってツカサに言葉をかけたところでどうなるわけでもないのはわかりきっている。

 ヒックはその様子に、状況も忘れて笑ってしまった。

 ヒックの目には浜辺と海中で、人間と海神が似たように慌てているのが滑稽に映ったのだ。せわしなく動き回り、焦燥ばかりが伝わってくる。この場で最も冷静なのはツカサだった。最も弱い立場にあるはずの、生け贄として捧げられるはずの少女だけが淡々と事を進めていたのだ。それがヒックには面白かった。

「笑ってばかりもいられないか」

 痛みに慣れたのか、海神は同じ場所を動き回るのを止め、ツカサへと向きを合わせた。ツカサもそれに気づいた様子で次の動きに備える。

 ツカサに狙いを定めた海神が真っ直ぐに速度を上げながら突進してくる。海上には海神からにじみ出た血が赤い直線を描き、浜からでもその軌跡が見えていた。村人もその瞬間が近づいていることを察知し、息を呑む。

 ツカサは慌てない。まるでそう作られた機械のように、やるべきことをやる。肺の空気を吐き出しながら、海神を見据えたままゆっくりと潜行を始める。そして船体の底部に近い位置で潜行を停止した。海神はもはやその歯並びすら見えそうな位置まで近づいている。

 状況を見ていたヒックは感嘆のあまり思わず息を漏らす。ここまで正確に動けるとは。あまりに策どおりに進むので、違和感すら覚えるほどである。

 ヒックは操作盤の一つに手を掛ける。レバー式のその装置を渾身の力で引いた。

 船体の底部、ツカサの居る真横から、巨大な布が飛び出す。それは丁度海神が突き進んでいる真正面へと展開された。布の正体はパラシュートである。一昨日地球へ落下する際に使わなかった予備のパラシュート。それを海神の正面へと飛び出させた。それと同時にツカサの離脱も平行して行われる。ヒックの宇宙船はパラシュート展開時に、パラシュートが格納されていた空間に周囲の空気を送り込む機構になっている。そうすることで効率よくパラシュートを展開させるのだが、この場合船体へ空気を送り込むための吸引機構は、そのまま海中での推進力となる。宇宙船のではなく、そばにいるツカサの推進力に。

 実際、射出と共にツカサの体は船体側面へと急速に引かれ、パラシュートの展開に巻き込まれることはなかった。後は海神がパラシュートに巻き込まれるだけーーのはずだった。

 誤算が一つ。

見物人は浜だけでなく、丘の上にも幾人かいた。丘の縁は大人の背丈程の草が生い茂り、視界も悪い。わざわざそんなところで見にくい丘の崖ぎりぎりに居て、儀式の様子を眺めている。浜辺にいる村人と違うのは数人いるその村人全員が子供だということだ。少年達は今日、村の海で何かが行われることを知っていた。そして、それに参加することを堅く禁じられていた。しかし、子供の好奇心を大人の言葉一つで抑えられることができるはずもなく、こうして周囲から見つからない場所で様子を眺めていたのだ。

見物人がいることそのものは問題ではない。ヒックやツカサにとって大人が見るのと子供が見るのとでは大差ない。しかし、それも見物人という枠に限っての話だ。

海神がツカサに突進し始めたその時、ヒックがレバーを引くその刹那、ツカサが衝撃に備えたその一瞬にそれは起きた。

「きゃあ」

 と、場違いな甲高い声と共に、海神を一目見ようと身を乗り出した一人の少女が崖から落下し、海に落ちた。

 近くに居た少年たちを除いて、その事態に最初に気づいたのは浜の大人達でも、ツカサやヒックでもなかった。

 海神、その狩人としての感覚器にそれは飛び込んできた。少女の落ちた振動、混乱からにじみ出る汗に混じる匂い、恐怖による失禁、それら全てを海神は瞬く間に捕らえる。

 パラシュートが開き、ツカサが離脱を終えた時には、海神は既に方向を切り替えていた。目の前の手ごわそうな獲物から、別の貧弱な獲物へと。

「なんで!」

 海神に集中していたヒックは何が起こったのかわからなかった。予定通り海神は突き進んでくるはずだったのに。

 次いで浜辺にいる大人達がその事態に気づいた。低い崖の下で懸命に泳いでいる少女と、それに向かって進んでいる海神。幾人かの男衆が間に合わないと知りながら船に手を掛ける。

 浜の様子をカメラで確認し、ヒックもようやく事態を理解した。

「どうする」

 あの少女が喰われてしまうのはヒックにとって既に確定事項となった。何をどうしても止めることはできない。であるならば、それをどう利用するのかを考えなければならない。一番望ましいのはあの不運な少女の死をもって、儀式が完遂されたと強引にでも主張すること。しかしそれで村人達が納得するかといえば難しい。既にツカサは神に弓を引いている。それはごまかしようがない。それに、ツカサ自身がその案を飲み込むかといえば。それもそれで難しいように思うのだ。とすれば、あとは策の仕切りなおしだろうか。幸いパラシュートは格納すればもう一度使うことができる。同じ状況をもう一度作り、初志を貫くというのはそれなりにいい手だとヒックには思えた。

 しかしながら、ヒックはこの状況で既に読み間違えていたのだ。まったく気づいていなかった。逃れられない死に直面した少女とそれを狙う海神に気を取られ、欠片も他が見えていなかった。これから訪れる事態に浜辺の大人達が目を背け、届かないと知りつつも男衆が船を海へと引き、崖の上で少年達が泣く中で、ただ一人だけ救う事を諦めなかった少女のことを。

 海神の方向転換を見て取り、ツカサは急いで水面に顔を出した。そして見たーー自分よりも遥かに小さな年の少女が今まさに殺されかけているのを。ツカサは懐から儀礼用の短刀を取り出すと、左腕を深く切り付けた。策など何もないままに、少女は自分を切った。

 あふれ出た血は広がる。それに誰が一番早く気づくかなど、もはや論じるまでもない。

 この世で最も惹きつけられるその匂いに、海神は眼前の小さな獲物を忘れた。再度方向を切り返し、芳醇な匂いを放つその生き物へと駆ける。

「僕はそこまでやれなんて言ってない」

 船外の様子を捉え、ヒックが驚いた。

 鮫の生態をツカサに教えたのが仇となったことにヒックは気づく。鮮血が止めどなく水中に漏れ出ている。あれでは十分ともたない。長期戦も仕切直しも選択肢から外さざるをえなくなった。今ここで決めるしかない。

 海神は先ほどとは比べ物にならない速度でツカサに接近する。陽動までは考えていたツカサだが、そこから先に打てる手を持っていなかった。船体の底部に展開されているパラシュートを挟んで海神を見つめている。一か八か、海神がパラシュートに引っかかることに賭けているのだ。

 それを見てヒックは行動を決めた。ツカサの博打は失敗する。海神の巨体では、パラシュートが絡まっても勢いを殺しきれない。かといって、今からツカサが船内に逃げ込む時間もない。

「これでどうだ」

 海神が最高速度で遊泳し、目前の獲物に対し口を開いた瞬間、ヒックは船のバーニアを起動させた。

宇宙船の燃料は地球へ来る際に加速と減速でほぼ底を突いていた。残ったわずかな燃料が、ほんの数秒火を噴く。海中での噴出は火炎の形にはならなかったが、爆散する勢いで水流と泡を吐き出した。海神の巨体は揺らぎ、ツカサは大きく流された。そして目論見通り、海神はパラシュートへと絡まった。

「よし、次」

間髪入れず次の行動に移る。ここから先は元々立てていた作戦に戻るだけだ。

操作盤をいくつかの手順を挟んで操作し、警告表示を無視してボタンを押す。すると、宇宙船底部の大部分が表面の外装を落下させた。操舵室を残し、ほとんどの内部がむき出しに近い形となる。そしてそれと同時に、船体内部に仕込んであった薬品が海中へと流れ出る。

その薬品はヒックの故郷で肥料として使われていたものである。また爆薬の原料としても使用できる汎用性から、ヒックはその薬品を宇宙船に積んできていた。薬品の特性はそれだけではない。水に溶かした場合、薬品は水との反応で吸熱を起こす。端的に表現するならば、周囲を冷やすのだ。そして、この場においてヒックが目論んだ薬品の役割もそれであった。

宇宙船の周りに流れ出た薬品は数秒の間にその役割を果たす。急速に周囲の熱を奪っていく。

ヒックは操舵室の側面にある窓から外の様子を見た。

バーニアの発生させた水流で宇宙船から引き離されたツカサも、その光景を目にした。

 海中に氷の粒が舞い、水面へと立ち上る。まるで逆さまに降る雪のようだとツカサは見とれていた。

「海神様の様子はどうか」

 ヒックは側面の扉を開けて、海中へと体を滑らせる。想像以上に水は冷えており、肺が一気に縮まるのを感じた。

 バーニアの噴出で勢いを殺され、パラシュートに絡まった海神は鈍く身をよじっていた。動きが鈍いのはパラシュートのせいだけではない。体を冷たい海水に晒し、加えて海神はエラ呼吸。冷やされた海水はエラを通して海神の体温を急速に低下させた。変温動物の常として、体温が上がれば活発に動き、そして体温が下がれば動きは鈍る。自ら動いて発熱しようにも、それはパラシュートに阻害される。

 海神にとって手詰まりな状況であった。

 ヒックは用意しておいた綱を手繰り、それを慎重に海神の体へ引っ掛ける。万が一にも解けぬように、絡まったパラシュートの外側から、更に何重にも海神を拘束する。流されていたツカサも戻ってきて、一人と一匹は互いに身震いしながら海神をより強固に宇宙船へ縛り付けた。

 作業を終えたヒックとツカサは宇宙船の船内へ入る。ヒックの作った宇宙船なのでツカサにとっては少々以上に手狭だったが、体を収めることはなんとかできた。

 海水を排水し、ヒックは身震いで水を飛ばす。ツカサが纏っていた装束の水を絞り終えたところで二人は安堵の息を漏らした。

「何とかなったね」

「海で雪景色が見れるなんて・・・。あんなに寒くなるのね」

「ああそれは・・・って、それ止血しないと」

 腕から血を垂らしたままのツカサを見て、ヒックは急いで血止めを行う。傷口の上方を弓に使った弦で強く縛り、傷口に装束を裂いた布を固定させてようやく血は止まった。やはり相当深く切り込んでいたらしい。

「ツカサは、無茶するね」

 一息ついて、ヒックは言う。ツカサは自分の腕を見ながら、

「そうしなきゃ間に合わなかったもの」

 と、当たり前のことのように応えた。

「あの子はツカサの友達か何かだったの?」

「いいえ。話をしたこともなかったわ」

「だったらーー」

「でもこの村の子供よ。助けなきゃ駄目じゃない」

「ツカサが生け贄に捧げられる様子を見物に来るような子供なのにかい?」

「それとこれは、別の話なのよ」

 止血した腕を見ながら、ツカサはそう言い切った。

「そうかい」

 ヒックは改めて深く息を吐く。実際、際どい勝利だったのだ。万全を期すのなら、最初のパラシュート放出で絡め取れなかった時点で、一度仕切り直すべきだった。しかしそれはツカサが無謀な判断で不可能にした。バーニアの噴出でどうにかなったが、計算をしてのことではない。使える手段を講じたらたまたま上首尾に事が運んだだけだ。

 もう二度とごめんだ。と、口には出さないがヒックは心に誓う。二度とどころか、ヒックとしては一度だってやりたくはなかったことだったのだけれど。虎の子の余剰燃料も使い切ってしまった。どうせ動かすことはできなかったが、燃料の補充が適わないこの状況では、わずかでも余っているのとまったくないのとでは天地程の差がある。船体の発電は太陽光でまかなっているが、それも海中に沈んでいる今となっては不十分だ。せいぜい数キロ海中を移動させる程度しか残っていない。

 いよいよ本格的に鉄くず同然になりつつある宇宙船の中で、ヒックが船体の今後の取り扱いについて思案していると、隣のツカサが「そういえば」と口を開いた。

「海神に止めを刺しにいかなくてもいいのかしら」

「いいんだよ。あの種類の鮫は泳ぎ続けないと死んじゃうんだから。あれだけ縛り付けておけば勝手に窒息して死ぬさ。これ、説明しなかったっけ?」

「事前に聞きはしたけれど、いまいち納得できないのよね。丘で生きる私達ならともかく、海の生き物が海の中で溺れるというのが」

「こればかりはそういうものだとしか説明できないからね。それにしても海の生き物か。うん、いいね」

「いいって、何がいいのかしら?」

「もう神様とは呼んでないんだなと思ってさ」

「・・・そうね」

 パラシュートのロープに絡まり、冷やされた体温も相まって身動きもろくにできないただの鮫。ツカサにもそう見えたということだ。海神はまだ死に切ってはいない。ものの数分で死ぬが、まだ死んではいない。しかし、ツカサの中ではすでに海神は神ではなくなった。

 こうして、一人と一匹の神殺しは成し遂げられた。

 海神はヒックとツカサが殺した最初の神となった。

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