第6話 振り返る先に道を探し
草を踏む音でツカサは目を覚ました。どうやら朝に準備を終えてから寝てしまったらしいとツカサが気づいた辺りで、ヒックが入り口から入ってくるのが目に入った。
「おかえり。どこに行ってたのかしら」
「お散歩だよ。まだこの村を見て回ってなかったからね。今起きたの?」
「そうみたい」
ツカサは外を見て日の高さを確認する。時間が迫っていることを認識し、寝床から体を起こした。
「それで、ヒックの興味を引くようなものはあったの?」
しっぽをたふんと揺らしてヒックは応える。
「うーん、特にこれといっては・・・ああ、いや、一つ」
腕を動かしながら身振り手振り。
「村の奥に、こういう大きな鳥居を構えた社があるでしょ。あれは少し気になったかな」
「とりい?やしろ?・・・何のことを言っているの?」
ヒックにとっては残念なことに、ツカサは鳥居も社というものにも見識はなく、というか名前すら知らないため、ヒックが話していることを一つも理解できていない。
「鳥居や社を知らないのかい。両親や村の年長者から教わらなかったのかな」
「知らないわね。本当に、ヒックが何について話しているのかがわからないわ」
「村の奥に建物があるだろう?」
「あの寄り合い所のことかしら。三角屋根の大きな建物のことよね」
ツカサの言い方にヒックは違和感を抱く。ツカサもヒックが何かに頭を捻っているらしいことは伝わってくるのだが、何に考えを巡らせているのかがとんと見当がつかない。それは両者の意志疎通が上手くいっていないということではなく、単に下地としての知識の差であった。
「建物はおそらくそれであってるけれど・・・寄り合い所?仮にも信仰の場だろう」
「信仰って、どうしてあそこが信仰の場なんてものになるのよ」
「そりゃ神様を奉っているんだから当然だよ」
ツカサはいよいよもってヒックの言い分が理解できない。
「あそこに神様なんて奉られているわけがないでしょう。ただの古びた建物なんだもの」
「いや、だからさーー、」
と、言いかけてヒックはぴくんと髭を立たせた。ゆっくりとツカサの周囲を回り、ぶつくさと独り言を口にし始める。「だから」、「でもだとしたら」、「なぜ伝わってない」等々。ツカサにはヒックがなぜその『とりい』やら『やしろ』やらに拘っているのかがわからず、というかあまり興味もないので、正直放っておきたかった。
本当に放置して身支度でも始めようかとツカサが考え始めた頃に、ヒックは「そうか」と目を見開き、ツカサに向き直った。
「ツカサはずっとこの村で生きてきたんだから、一度くらいはあの建物に行ったことがあるんだよね?」
「もちろんよ」
村の人間で足を運んだことのない者はいないだろう。ツカサも一度等と言わず、両の手でも数え切れない程行っている。あそこは女衆がよく会話をするのに使う場だ。男衆は浜辺でよく酒を飲んだり意見の交換をしている。女衆はそれをあの寄り合い所で行っている。つまりあそこは女衆にとっての浜辺なのだ。もっとも酒を飲み交わすことはないし、たまに男衆も混ざったりするのだが。ツカサもツカサの母であるカマツが居た頃は連れ立って訪れていた。カマツが神守になってからは頻度が減ったりもしたけれど。
「ツカサだけじゃなく、村の全員がきっと同じ認識なんだね。社という呼び名もきっと知らないんだろうな」
「どうしたの?」
「そうだね、一つだけ。あの建物は所々補修されている部分とそうでない部分があったけれど、それはどうしてかな?」
「直せないからよ。直せる部分は直すけれど、そもそも直し方がわからない部分が結構あるの」
「ーーやっぱり」
「やっぱりって?」
「まあいいや、機会が来たら話すよ。きっと今じゃ理解できない」
とても上から目線な物言いに、珍しく、ほんの少しではあるがツカサの心がささくれ立つ。
だからだろうか、
「機会が来たらって、私に明日がある保証はないのよ?」
などと、不用意にそんな言葉を口にしたのは。
それはツカサの心の底からこぼれた言葉だった。生に未練がないと言えば嘘になるが、かといってがむしゃらに生きることにしがみつこうともしていない。達観とはまた違う、なるようになるという愚鈍な現状への肯定。ヒックもその片鱗をツカサから嗅ぎ取ってはいたが、こうもはっきりと匂い立ったのは初めてだった。
隠してきたわけではないが、さりとて表に出そうとはしてこなかった自分の本音が、微量ながら漏れたことをツカサも自覚する。
「いや、そのーー、」
何か言い繕おうとしたツカサの言葉を遮るように、
「駄目だよ」
と、ヒックは言い放った。
「え?」
「駄目だよ。ツカサは死なせない。海神に殺させないし、死なせない。僕は絶対にツカサを生かしたまま今日を終える」
優しさの欠片もない目でそう言い放った。
*
時間が迫っていた。刻限が迫っていた。もっとも、急に顕在化したわけではない。もともとあったものが、意識した結果、輪郭を強くしただけだ。
ヒックは身支度を進めるツカサを眺める。
臆することなく粛々と自分の支度を進めていた。死ぬための支度を進めていた。
策があり、仕掛けを施しているとはいえ、それでも儀式そのものは少女の無惨な死を目的としている。その準備を震え一つなく行っている姿。自分自身が故郷においてはぐれ者だと自覚していたヒックでさえ、その姿には異質さを覚えた。
生き物として、最低限の死への恐怖はツカサにもちゃんと備わっている。それはヒックも知っている。しかし、ツカサはそれから目を逸らさず、省みず、折り合いを付けて生きている。それでも仕方がないとして飲み込んでいる。
物静かに準備を進めるツカサを見てヒックは内側に寒気を感じた。まだ空元気な達振る舞いを見せる方がかわいげがあるというものである。
「きっと一昨日も同じように準備したんだろうな」
ツカサに聞こえない声でヒックは呟く。
抗おうとせず、ただ従順に海に歩を進めるツカサの姿が、ヒックには容易に想像ができた。
ーー僕が落ちてきたとき、君は何を思ったのか。
そんなことをヒックは些細な疑問として抱いた。でも訊ねはしない。これを聞くのは今日を乗り越えてからでいいと胸に決める。余計なことに頭を割いて生き残れるほど生ぬるい状況ではない。ゆっくりと沸点を超えたように、静かに氷点下まで温度を下げられたように、僅かな刺激で結果という水は形を変える。不要な刺激は与えたくないというのがヒックの結論だった。
ツカサには生きていて貰う。
これは嘘偽りないヒックの願望である。
故に、この少女の在り方はヒックにとって悩みの種である。物怖じしないのは利点だとも言えるが、かといって慎重さに欠けられるのは困るのだ。このままでは、例え今日を乗り越えたとしても、いつかあっさりと死んでしまう気がする。そんな予感をヒックは抱いていた。
目的が有る分、死にたがりの方がまだ扱いようがあるというものだ。死を渇望するものはその実誰よりも生へ執着している。生を大切にするが故に綺麗な形で自身を終わらせようとするからだ。しかしツカサにはそれもない。とことん生きることに無関心だった。死ぬことに恐怖は感じても、それは結果ではなく途中経過を恐れている。切り裂かれる痛みを怖がっても、その後の自分については考えが及んでいない。終わることへの畏怖がない。
「これは大変だ」
頭を足の一本で器用に掻きながら、ツカサの身支度が終えるのを待った。
ともあれ、まずは今日を乗り越えなければならない。
それだけは考える必要もないことだった。
*
「孤独に生きていってもいいのよ」
小さな頃に母から言われた言葉をツカサは思い出す。
「私たちは群れていなければ生きていけないけれど、それでも孤独でいることは許されているの。私もかつてはそうだったわ。お父さんに会ってからやめちゃったけれどね」
ツカサを胸に抱きながら、ツカサの母は言葉を続ける。
「群れることの価値を、孤独でいることの意味を、それら全てを知った上で選べるのなら、貴女は孤独に生きてもいいのよ」
ツカサの記憶の中では、小さなツカサは泣いていた。臑をすりむいていたことを覚えている。あれはこけてできたのだったか、それとも喧嘩でもしたのか。
「ねえツカサーー貴女はどうしたい?」
それに何と応えたのか、ツカサの記憶には残っていない。
ツカサは澄んだ水に足を浸ける。
水、海水。ツカサの目の前には水平線が広がっている。
日が高い。日差しは陰を足下に小さく作り、一秒毎にツカサの体力を削っていく。足から伝わる海水の冷たさが心地良いくらいだった。体に纏った白い装束は光を反射してツカサの姿を鮮やかに浮かばせる。
ちらりと、ツカサは背後を確認する。
たくさんの人が居た。村人のほとんどがいるんじゃないかとも思えるような。見覚えがある顔ばかりなのは村の規模の小ささからか。
そしてそれら全てが望んでいるのだ。ツカサがこれから死ぬことを。男衆も、女衆であっても。皆が分け隔てなく、儀式の完遂を望んでいる。子供の姿が見えないのは大人達の配慮だろう。そういえば、とツカサも思い出す。ツカサがこの村に生まれてから十余年立つが、ツカサは儀式を見た覚えがない。十年に一度、多ければ二度、儀式は行われていたと聞いていた。
きっと、隠されていたのだ。大人達がそれを子供らの目からは隠してきたのだ。年の近い子供の何人かは儀式を見たと言っていた気もするが、きっとあれは見栄っ張りの嘘だったのだろう。
つまり大人達もわかっているのだ。誰かの命を差し出すことで自分達の生活を保とうとしている事の意味を。その心の内にある濁ったものを。自覚して、飲み込んでいる。諦めて開き直って受け入れて、そうやって生きている。しかし、それを指摘されるのは嫌なのだろう。純粋な子供の目で咎められるのは怖いのだ。だから隠して、時期が来たら打ち明けて。そうやってこの儀式は紡がれてきた。
「だからどうってことじゃないけれども」
儀式が風習として永く紡がれてきたことに対しては、ツカサとして思うところは何もない。ツカサはヒックに会うまでは、単にそういうものだとして受け入れていたことなのだ。朝に日が昇るように、井戸から水が汲めるように、風が匂いを運ぶように、あって当たり前のこととして考えてーー否、考えもしていなかった。しかし今は考えている。儀式そのものの是非はツカサにはわからない。ただ、ツカサとしては、死んでいるよりは生きていた方がいいだろうと判断し、ヒックの提案に乗ることにしたのだ。
すなわち神殺し。
背筋が張っているのは気構えのためか、それとも。
村の信仰、その一部に石を投げることになるかもしれないが、それでもツカサは行うと決めた。その理由はとても単純なものだった。一つは生きてる方がましだということ。そしてもう一つは、殺して死ぬ程度の存在なら、神として丁重に扱う必要もないだろう、ということ。ツカサからすれば、殺せた時点で海神は神ではなくなるのだ。
つまりツカサにとって海神が神かそうでないかは、今日の結果次第ということになるのだった。
儀礼用にと手渡された短刀を懐に仕舞う。村人達は恐らく、この短刀でツカサが命を絶つと思っているのだろう。きっとツカサも儀式に殉じるのならそうしていた。
「出た、出たぞ」
背後から野太い声が聞こえた。ツカサが振り向くと、男衆の一人が海を指さしていた。
波が穏やかになる潮の変わり目、そこに黒い影が延びていた。波にではない、波を裂くように影が動いている。右に左に、まるで時を待つように、ゆっくりとしかし確実にその影を濃くしていく。
海神。畏れを抱く神が姿を見せる。
豊穣でなく、天候でなく、人を人たらしめるための根元ーー恐怖を纏うのが海神である。
瞬間、ツカサは背中に冷たく硬いものが触れたように感じた。もちろん実際には何も触れていない。ただそう感じただけ。海神を目にして、体が反応しただけだ。
一昨日、最初の儀式の時は海神を目にする前に、ヒックがツカサの目の前へと落ちてきた。だからこれは初めての感覚。
ぞわぞわと千の足を持つ魚が背中をさかのぼるような、ぬめついた悪寒。ツカサの耳には、動かそうとした足が軋む音が聞こえた。
「・・・、違う」
ツカサは鼻から大きく息を吸い、口から長く、それこそ吸った量よりも多く、息を吐く。存在に惑わされないよう、実在に飲み込まれないよう、頭に酸素を送る。
「失敗しても死ぬだけよ」
それはそれで儀式を完遂できるということなのだから、ツカサにとってそれは、そう悪いことではない。過程が少々痛みを伴うだけだ。
右に左に、大きく旋回しながら海神は徐々に浜へと近づいている。動きを見ている村人のざわめく声も少しずつ小さくなる。皆そのときを見逃さないために、それに集中し始めているのだ。
教えられた儀式の手順通り、ツカサは歩を進める。膝の高さだった海面は今や腰まで浸かる深さになり、あと数歩踏み出せば体が浮き始めるそんな位置。
足下にある岩の大きさを肌で感じながら、ツカサは隣を確認する。隣を漂う逆さの木箱を確認する。
木箱には側面に小さな穴があけられている。空いた穴から光る目が二つ。ツカサはその目と視線を交わす。その中にいるヒックと意志を交わす。
「あっーー」
遙か後ろで村人の誰かが息を呑む。海神の背がはっきりと姿を現した。ツカサとの距離はまだ遙かにあるが、その偉容を示すには十分の体躯である。
ツカサは頷き、足下へと手を伸ばした。岩の透き間へと腕をねじ込ませる。反対側の手では髪を留めていた紐をほどく。麻でできたその髪紐は、髪を止めるには十分すぎるほどに長い。水平線の上にもう一本、世界を分ける境界線の様にその髪紐はたなびいた。
岩の透き間から抜いたツカサの手には弓が握られていた。
儀式の予定にないその弓を見て、静まり返っていた村人達がにわかに沸き立つ。あるものは驚愕し、またあるものは意図を察して。そして見つめるーー目の前の少女の一挙手一投足を。
ツカサは素早い動作で月の輪に髪紐として使っていた弦を掛け、岩を支えにして弓をしならせ、日の輪にも弦を結ぶ。瞬く間に一張の弓ができあがった。朝の内に沈めておいたことを知るものはツカサとヒックを除いてこの場にはいない。背中へ手を伸ばすと、装束と背中の間から一本の矢を取り出した。これだけは濡らすわけにはいかず、背中へ隠していたのだ。おかげで背筋が張って面倒であったが。
弓に矢をつがえて引き絞る。弓の軋む音がツカサの耳に届く。
遙か後方から眺めている村人全員がまさかと思った。
隣のヒックが誰にも見られない場所でにやりと笑った。
海にたたずむツカサが無表情でさらに弦を引いた。
風を裂く音と共に矢が放たれーー海神の背に突き刺さった。
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