第3話 神様を疑うこともなく
幸運に恵まれて何かを得たとき、偶然の折り重なりで命を救われたとき、人はそれに感謝し祈るものであることをヒックは知っていた。故郷の文献に載っていたものを一通り覚えている。そして、同様のそれは自分たちの社会にも存在したことを忘れてはいない。ヒックはそのために故郷を後にし、遠い地まで足を運んでいる。しかしヒックの社会にないものがここにはあった。見たこともないものがこの村には根付いていた。
幸運ではなく不幸で、偶然ではなく必然に、天災や厄災に見舞われたとき、理不尽な死に直面したときにも、この村の者たちはそれを畏怖し祈りを捧げるのだ。
祈りを捧げられるそれを、それらをこの村の者たちは神として崇め奉っている。幸運をもたらす神もいれば、不幸をもたらす神もいる。それがこの村の者たちが持つ宗教観であった。
この村のいう神に形はない。それは無形というわけではなく、決められた形がないということだ。天候が神になることもあれば、偶然が神になることもある。はたまた猛獣が神になることだってある。
「今は神様の機嫌が悪いのよ。そのせいで村の男衆も海に攫われたの」
「だから、ツカサが人柱として神の餌になるっていうのかい?」
ヒックはツカサからこの村で言う神がなんなのかを聞いた。おおよその把握はできたが、それもとても時間を要した。文献では知っていたのだ。人間の歴史の中で、ある世代の文化として命を捧げることで物事を昇華させようと試みた過去があったことは。しかし自身の内側にない価値観についての話である。いくらヒックが賢い猫だとしても、そのやりとりには限界があった。ヒックそのものに信仰はないのだが、なまじ宗教観という言葉の意味を理解しているがゆえに、飲み込むのに難儀することもあるのだ。
ともあれ、相当な時間は要したが、それでもヒックはツカサの言わんとすることを理解しつつあった。
「餌じゃないのよ。この身を捧げるの。神様と一体となることで怒りを静めていただくのだから」
「捧げる・・・か。それがどういう結果に繋がるか、理解した上で言葉にしているんだよね」
「もちろんよ」
ツカサは笑顔でそう言った。ヒックにはこれが人の正常な所作なのかはわからない。生きている人間を観察するのは今日が初めてなのだ。先ほどの男衆たちのようにあからさまな態度なら読み取ることもできるが、ツカサの場合は話が別である。ツカサの笑顔は終始同じもので、どこかに欺瞞があるのならば、それは最初からということになる。ゆえにヒックにはわからなかった。
ツカサが正常なのか異常なのか、わからなかった。
ヒックにわかっているのは、少なくとも表面上、彼女は自身の死を受け入れているということだけだった。
「しかしなんでまた、ツカサがその人柱に選ばれているんだい?神様への供物というけれど、それは誰でもいいのかい?」
「誰でもはよくはないわね。一応由緒というか由縁を持ち合わせている者でないと駄目よ」
「ツカサにはその由縁とやらがあるのかい」
「ええ、そうよ」
ツカサは頷く。まるで誇るように。
「私のお母さんは神守なの」
「ごめん、知らない言葉だ」
「神守というのは、神様に御使いする人のこと。選ばれた者しか務めることのできない誇りある立場なのよ」
「神に仕えるというのは?」
「具体的に何をするのかは私も知らないわ。実際に仕えている者にしかわからない」
「そしてツカサの母親はその役割を担っている・・・。」
「その通り」
「担っていた、ではなくて担っているなんだね。過去のことではなく、今も執り行っていること。だとしたら、ツカサ、君の母親は生きているのかい。君が一人で生活していると聞いて、僕はてっきり両親共に落命したものだとばかり思っていたけれど」
「お父さんはその通りだけれど、お母さんは生きているはずよ」
「はず?」
曖昧なツカサの物言いにヒックは首を傾げる。
「神守になった人は神様の居城で働き続けるの。だから、神守に選ばれるのはとても光栄なことだけれど、選ばれたからには家族と共に暮らすことはできないのよ」
やはりヒックにはツカサの言うことを理解できてはいないのだが、それでも母親がこの家でない場所で暮らしていることは伝わった。ヒックはツカサの言葉に先ほどよりも興味が沸いた。
「神守は、何人ほどいるのさ?」
「正確にはわからないわ。けれど、数年に一人、村の女性から選ばれるから、それなりの数はいるはずね。私のお母さんが選ばれたのは四年ほど前よ」
「四年前・・・それからずっと?一度も帰ることなく?」
「当然よ」
またまた誇るようにツカサは頷いた。四年間母に会っていないというのに、一人置いていかれたというのに。
それともこれが人間という生き物の正常な振る舞いなのだろうか。ヒックは思案する。故郷の文献にはなんと書いてあっただろうか。母と子の関係性について。そもそもヒック自身、そんな文献に目を通していたのかも定かではないが。
小さな頭を捻ってもわからなかったので、ヒックは理解できたことだけを取りあえず飲み込むことにした。その上で疑問に思う。
「神守の娘だから、神様に捧げるにあたう由縁を持っているっていうことはわかったけれど、でもどうしてそれがツカサなのかはまだわからないな」
ヒックは痛みの引き始めてきた体を起こし、ツカサのそばを一周する。ねめつけるように、品定めするように。
「神守に縁のある人だってこの村には相当数いるはずだよね。神に捧げるに値する人間がツカサ一人だけだとは思えないんだけれど。でもだとしたらどうして、ツカサが明日なの?」
「単純な話よ」
そう言ってツカサは人差し指を立て、それを下に向けた。
「ここには私しかいないから。私が一人で生きているからーーというより、お父さんが死んでいるから、が正しいのかしら」
「父親がいないことがどうしてツカサが生贄に選ばれる理由と繋がるのさ」
「私は毎日キリクの家に手伝いをさせてもらいに行くのよ。そしてその報酬として美味しい食材を分けてもらってる。一日を生きるための糧を分けてもらってるの。でもお父さんが死んでしまう前はそうじゃなかった。お父さんが生きていた頃は、お父さんが海へ魚を取りに行って、その間私は家でお留守番をしてーーといっても毎日遊びまわっていたけれどーー日が暮れる頃にお父さんが帰ってくるの。すごい収穫の日には両手一杯の魚を持って。自分たちの分を残して後は畑を持つ人と交換をして、そうして毎日を過ごしてた。わかる?お父さんが生きていた頃は、何かをさせてもらうことも、恵んでもらうこともなかったの」
ツカサは炊事場の食材を指差す。少量の肉に干した魚、穀物に根菜や瑞々しい野菜もいくつか。ツカサ一人、数日生きていく分には充分な量。
「お父さんが取ってきた魚を元に交換していたときとは違う。元はない仕事を作って与えてもらって、その上でその対価に生きる糧をもらってる。私はキリクの家に、ううん、村の人たちに生かしてもらっているの。いなくなっても変わらない命なのに、生かしてもらえたのよ」
だから、とツカサは呟いた。
だから、その身を神に捧げるのだろうか。だから、村のために死ぬのだろうか。
「それは・・・。」
ヒックにはわからない。ただ、自分の命というものの絶対的な価値を知らない生き物なんだなと、ヒックは驚きつつも呆れるだけだ。
ツカサがどのように事実を解釈しようと、要は単なる口減らしなのだ。ヒックにはそうとしか思えない。
海で神とやらが暴れだして、人柱が必要になった。選ばれたのはツカサ。偶然にも神守の娘で、一人で生活していて、村全体で世話をやいていた、例え死んだとしても悲しんだりする家族のいない女の子。事実としてはただそれだけだ。
ただそれだけが、とても残酷な選択を示したのだ。
「ツカサはそれでいいの?」
「村の一員として果たす義務だもの。それが果たせる私であることが、私は嬉しい」
「わからないな。自分の命より共同体の方が大事だなんて、まるで原始的な動物みたいな発想だよ」
「猫の君がそれを言うのね」
「うん、僕はツカサよりも頭がいいと思っているからね」
というよりは、ツカサに限らず、少なくともこの村に住む人間の誰よりも知能と知識を持っていると、ヒックはこの半日で判断していた。生活の水準、道具の精度、そして慣習。ヒックの知っている地球の世界から十世代以上は後進している。
文献にはあったが、文献にしかないはずの世界。
ヒック自身の目的から考えれば、これはあまり好ましい事態ではない。
「ともあれ、ツカサが納得していることなら僕は口を挟まないさ。挟むような権利もないからね」
「そういえば、明日の正午、儀式が終わればこの土地は誰かに分配されるわ。ヒックが上手く振る舞えば、新しい家主にここへ居続ける許可をもらえるかもしれないわね」
「期待はできそうにないけどね。下手を打てば、ツカサに憑いてた何かとして処理されそうだ」
その可能性はそれなりに高そうだとヒックは思う。信仰で命を投げ出させる村だ。自分たちの常識と異なるものーー例えば喋る猫などーーが現れた時にどう反応するか。いかなヒックといえどもわからない。しかし想像はできる。最悪の想像は。
その場合は喋れることを伏せた方が得策なのだろうけれど、しかし自分から生き物としての段階を落とすのは気が引けるヒックだった。外を歩く原始動物のまねごとは、できれば避けたいものである。
「まあこの土地に長居する必要もないし、粗方終えればここを去るかな、僕は」
ヒックとしてはどこに向かうかはまったく無計画であるし、そもそも地球の地理を把握していないのであてなどないのだけれど、それでも、この村に居着いたところで意味はなさそうだというのが現状の判断だった。
この村はヒックの想像を超えて想像以下だったのだ。であれば、他の地域を探索するしかない。困ったことに道具は海の中だけれど。
「・・・、それは?」
ヒックが明日以降のことに考えを巡らせていると、ツカサはいつのまにやら不思議な形になっていた。当然、ツカサそのものの形が変わったという訳ではなく、立ち姿がさっきまでと異なっていたのだ。立ち姿というか座り姿だけれど。ただ足を組んで座っていた姿勢から、足をそろえて尻の下に置き、手は何かを握り込んだ上で合わせていた。頭を少し垂れ、目は閉じていた。ヒックの持ち合わせる知識で表すのなら、この姿勢は人間の祈りに近い。
ヒックはそれが祈りなのかどうなのか、はたまた別の意味を持つ所作なのかはわかりかねるので棚に上げたが、しかし無視できないことが一つあった。
「それは何を手に持っているの?」
ツカサの握り込んだ物にヒックは興味を示す。
ツカサは顔を上げ、ヒックに手を開いて見せた。片手に乗る程度の四角い塊に、いくつかの文字とおぼしきもの。そして箱の角には模様が刻まれていた。
「・・・?」
「お父さんがくれた物。厳密には、お父さんが残していったもの、かしら。お母さんが、神守に選ばれる少し前に神様の居城の近くで見つけて、それをお守りとしてお父さんに持たせてたらしいの。お父さんが死んだとき、これだけが私の元に戻ってきた。それ以来、いつも持ち歩いているのよ。これがあれば、お父さんとお母さんも近くにいてくれる気がするの」
ツカサはもう一度それを握り、まるで幸福であるかのように笑う。
しかしヒックは気づく。
ほんのわずかであるが、ふるえていた。きっとツカサ本人も気づかない程度に。父の形見を持つその手が。得体の知れない形見とやらがヒックの目の前で黒く鈍く光った。
そうか、と思う。そして同時にヒックは決意する。
ヒックはゆっくりとツカサの膝の上に乗り、片方の前足をその形見に触れて言う。
「決めたよ。僕は神を打ち倒す」
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