第2話 孤独な青年

「調子はどう?」


「体は特に変わりありません」


「そう、それは良かった。今日はこのあと芽衣ちゃんが診察にくるよ」


「…そうですか」


 上着に袖を通して立ち上がると、看護師さんにドアを開けるのを待つように告げた先生が、立ち上がった俺にもう一度椅子に座るように促した。


「芽衣ちゃんとはどう?」


「変わりないです」


「悠人くんとの記憶が何か戻ったりは…」


「何もありません」


「…悠人くんの気持ちは、今も変わらないの?」


「変わりません」


「そうか…。引き止めてごめんね。腕も、よくなっているけれど無理は禁物だよ」


「ありがとうございます」


 今度こそ診察室のドアを開けてくれた看護師さんに頭を下げて会計を待つソファに深く腰掛けると、慣れた病院の匂いが鼻をつく。 


 俺は…この匂いが嫌いだ。


 いつかの歌を聴いたら、いつかの懐かしい記憶が蘇ってくるみたいに、この匂いを嗅ぐと忘れていた感情を鮮明に思い出して逃げ出したくなる。普段考えない様にしていることが、頭の中で忘れられるはずないだろうと語りかけてきて、定期健診の日はいつも、そんな自分に言い訳をしながら帰りのバスに乗るんだ。







「悠人くん!?」


「…おぉ」


「今日病院だったの?」


「そう。もう帰るとこだけどな」


「今月の健診、同じ日だったんだね!知ってたらもっと早く来たのに」


「どうせこの後仕事だから」


「そう…」


 寂しそうに目を伏せるいつもと違う雰囲気の芽衣の姿に、胸の奥が小く軋む音がする。


「スカート履いてるの珍しいな」


「え?あ…へへ、だって修平先生に会えるし」


「…バス来た。じゃぁまたな」


「あ、うん!また連絡するね!仕事頑張ってね!」


 バスが出発するまで手を振る芽衣は、あの日と何も変わらないのに。俺たち、何も変わっていないのにな。










「芽衣ちゃん変わりない?」


「はい!」


「何か新しく思い出したことや、小さな変化はあるかな」


「この間…友達に教えてもらった場所に足を運んだら、一度その場所に来たことがある気がして。懐かしいような…笑い声とか友達の着ていた服とか…そんなものが微かに映像で見えたんです」


「そう。また少し記憶が戻りそうな瞬間があるんだね」


「それは何度も…少しずつだけど写真を見たりすると思い出せることも増えています」


「すごくいい傾向だね」


 にっこりと笑う先生の笑顔が何だか真っ直ぐ見れなくて、そっと目を伏せた。きっとマスクの下の頬は紅く染まっているに違いない。

 

 先生は私にとって特別な人。

 事故から目が覚めた時も、記憶が抜け落ちて混乱していた時も、先が不安で眠れない夜もいつも病室に来て安心できるまで話を聞いてくれたのは先生だった。先生がいてくれたから辛い入院生活にも耐えることができたし、いつしか先生の笑顔は私の精神安定剤になった。だから二ヶ月に一度あるこの定期健診が、私の秘かな楽しみになっている。

 

 そして特別な理由がもう一つ。これは偶然なんだけれど、先生は私の主治医でもあって、悠人くんの主治医でもある。



「今日悠人くん診察にきたよ」


「さっき偶然バス停前で会えました!」


「そう、会えたんだね。悠人くんとは相変わらず仲良くしてるの?」


「はいすごく!」


「…付き合っちゃえばいいのに~」


 先生がニヤニヤと目を細めると、カルテを打ち込んでいたであろう看護師さんの先生!という咎めるような声がすかさず届く。


「二人とも僕が長く診ているんだから、うまくいって欲しいと思っただけだよぉ」


「今の若い子はそういうの嫌がりますよ」


「僕だってまだ若いよ!」


 二人の掛け合いに肩を揺らしていると、先生は私を覗き込むようにして声を潜めた。


「いい感じじゃないの…?」


 先生が近付くだけで胸の奥がぎゅっと苦しくなる。切なくて甘い、アルコールのような石鹸のような先生の香り。この匂いが鼻を抜けるだけで、無条件に心拍数が上がっていく。


「悠人くんは親友のような存在です」


「ずっとそう言っているけど、お似合いだと思うけどなぁ」


「こら先生!」


「はい、すいません!」


 看護師さんに謝りながら襟を正す先生を見つめながら、もっと近づけたらいいのに…なんて邪なことばかり考えてしまう。


「じゃぁまた二ヶ月後に予約を取っておくね」


「はい、よろしくお願いします」


「またね芽衣ちゃん」


 診察室から出ると、病院特有の匂いが鼻をついた。先生の匂いと同じはずなのに、なんで先生からはあんなに甘い香りがするんだろう。思わず目を細めてしまう、幸せな香り。

 次に会えるのはまた二ヶ月後か…先程悠人くんも見ていたであろう会計の電光掲示板を見つめながら、小さなため息をついた。














「先生、芽衣ちゃんにあんな風に言うのはどうかと思いますよ」


 カルテを打ち込むキーボードの音と共に、少し尖った声が聞こえる。


「うん、僕も反省してる」


「…さっき悠人くんの顔を見たからですか?」


「そうかもしれないね」


「先生気持ちは分かります。でも芽衣ちゃんは今悠人くんのことは…」


「分かってる。でも…今でも忘れられないんだ」


「先生…」


「悠人くんが、大切な人ができたんだと教えてくれたあの日のことを」










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 肩に傷を負ってこの病院に救急車で運ばれてきたとき、悠人くんは高校生だった。


「親にやられた…?」


 手術は成功したものの、これから大変なリハビリが待っている。親御さんに大切な話をしなければいけないのに、その場にいたのは警察だった。

 色んな事情を持った家庭に出会うことは、この仕事をしていると少ないわけではない。それでも、悠人くんの事情を聞いた後は、しばらくご飯が喉を通らないほどだった。




「気分はどう?」


「…大丈夫です」


「手術は無事に終わったからね。安心してね」


「…ありがとうございます」


 麻酔から覚めた悠人くんは、父親から暴力を振るわれて運ばれてきたとは思えないほど落ち着いていたけれど、僕を見つめる瞳は熱を失っていて、濁ったガラス玉のようだった。



「先生…いつ退院できますか?」


「悠人くん…君は肩に大きなけがをしたんだよ。今はよく休んで…」


「そんな暇ないんです。俺…バイト休めなくて…」


「バイト先にはちゃんと連絡をいれるから安心して」


「ダメなんです。俺働かないと。だから…っ」


 ”母親は体が弱くて近くの病院に入院して家にはおらず、離婚した父親が金を無心するために定期的に息子さんの元を訪れては暴力をふるっていたようです”


 この子はどれだけのものを背負って生きてきたんだろう。体の弱い母親に、暴力を振るう父親。いくらか国から支援を受けていたとしても、学校に通いながら夜中まで働いて、必死に生きていたのだろう。主治医だからじゃない、いや、主治医になったからこそ、僕はこの子を放っておくことなんてできなかった。もちろん医者以上のことはできない、でも僕はこの子の人生を見守っていくと誓ったんだ。


 父親が逮捕されたことで、暴力に震える日々はなくなったはずだけど、退院した後も悠人くんは無理をしてバイトに通っているようだった。大学にはもちろん進学せず、就職して、それでも夜中に仕事をして、体を心配する僕に彼はいつも「母親をいい病院にいれてあげるまでなので」と答えた。

 何年たっても彼は意志が強くて、優しくて、孤独を抱える青年のままだった。







「今日は顔色がいいね。少し体重もふえた?」


 定期健診のある日、久しぶりに見た悠人くんは前の健診で会った時より随分と雰囲気が変わっていた。


「最近少し仕事を減らしていて」


「そう!よく眠れているの?」


「はい…」


「いいことだよ。安心した」


 無口で、余計なことは話さない彼が、この日診察が終わった後すぐに立ち上がらず何かを言いたそうに僕を見つめた。あの日濁っていたガラス玉が、その日は透き通って見えたんだ。



「先生」


「どうしたの?」


「……」


「ゆっくりでいいよ。何かあるなら話して」


「俺…。大切な人ができた」












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 あの日のことを、昨日のことにように覚えている。僕は診察室の外にほかの患者さんがいるのに、泣きながら悠人くんを抱きしめたんだ。彼女が母親の為に健康でいるべきだと教えてくれたと、母親に会って手をにぎってくれたのだと…そう悠人くんが話してくれた日を忘れられるはずがない。




 なのに何でこんなことになってしまったんだ。



 

「先生、芽衣ちゃんの記憶は必ず戻ります」


「…そうだね」


「側に悠人くんがいるんです。きっときっと…」

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Deep blue moco @moco-moco7

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