5話 緋色の獣
八郎太と甲賀が連れて来られたのは、仁沙を置いてきた宿から遠く離れた地点だった。周りには建物などなく、大量の緋い水晶に囲まれた、真ん中に傷だらけの鎧が飾られただだっ広い空間だった。鎧の近くには刃物や棍棒が乱雑にしまわれた箱が置かれている。こんな適当な扱いをして、刃こぼれしないのだろうか。
「武器はいっぱいありますけど、鎧は1つしかないんですね。オレ達には鎧は支給されないという認識で合っていますか?」
「?鎧なんて化け物討伐班の人間だったら誰にも支給されないぞ。化け物の顎は鎧なんて簡単に嚙み砕く力を持っているからな。着ていても着ていなくても同じだ。それなら俊敏さを失わない方がいい。この鎧は武器の使い方を練習するためのものだ」
「な、なるほど。皆生身のまま戦うんですね」
「自警団入りたての侵略者討滅班の団員には一応最初支給されるが、こちらも動きを邪魔するという理由でいずれ使わなくなることがほとんどだな。俺は化け物討伐だけじゃなく侵略者討滅もするが、鎧は重くて邪魔になるから着ないな」
RPGでも盾や鎧という重い装備をしているキャラクターは素早さが遅くなっていることが多い。その代わりに防御力が高くなるので、敵の攻撃を一手に引き受けるタンク役になったり、長期戦で活躍できたりする。
ただ、攻撃をほとんど防ぐことができないならばただの重りだ。それならばまださっさと動けるように生身でいた方がいい。
対人間の場合はある程度攻撃を防げるから鎧を支給されるのだろう。それでも途中から使わなくなるのは、やはり攻撃は最大の防御で、リスクを大きくしてでも素早く相手を仕留めた方がいいからだろうか。
傷を作って回復ができない状況ならば、確かにどんな小さな傷でも作りたくない。理屈は分かる。
しかし、実際そう思ってても敵の攻撃に全く当たることなく戦うのは難しいもので。だから鎧が生まれた時代以降、どの戦でも誰もが鎧をまとっていたのだ。
「ここの人達は戦闘民族か何かなのか……?俺達が真似するのは無理だぞ……」
まさか道具を改造する方面ではなく、レベルを上げることで対処するよう考えるとは。弓矢や銃、戦闘機や果ては爆弾まで発明して戦いの規模を大きくしてきた甲賀達の世界とは全く違う。
「あの……ここの人達ってもしかして生まれた時から何かと命のやり取りをさせられるとか、殺伐とした日常を送ってるんですかね……?もしそうなら、オレ達とはレベルが違うんでお役に立てる気がしないです……」
バイトなどしたことがないので得意分野はないものの、まだ飯炊きや接客の方が断然マシだと思う。八郎太に至っては家事はしているので、宿屋の仕事は仁沙よりもまともにこなせる自信がある。
「いや、自警団に入るまでは基本武器とは無縁の生活を送っているから、お前達と特に変わらないと思う。そもそも、祭司様がいらっしゃるまでは兵隊や盗賊が来ても追い払う術なんてないから、最低限の食事と一緒に別の地に移動して新しく集落を作るしかない状態だったらしいしな」
「それがどうして、今では自警団に入れば、装備万端の兵隊を生身で倒せるぐらいのムキムキ人間になるんですか?
「ムキムキ……」
大真面目な顔で言っている甲賀の言葉を聞き、八郎太の脳内では侵略者が現れて追い払う際に、筋肉を盛り上げて服を破ることによって兵隊を圧倒し、混乱に陥った兵隊を圧倒的筋肉で撃退するセレンの姿が思い浮かんだ。
線が細く、男性と分かるものの中世的な顔立ちをしたセレンが服を破るほどのムキムキマッチョになっている姿は想像するとアンバランス過ぎて面白さしかない。実際に目の当たりにしたら、可愛い女子高生がジムに通うトレーニング漫画の若いイケメントレーナーの腹が実は6つに分かれていたぐらいの衝撃を受けそうだ。
「筋肉が肥大するわけではないから別にムキムキにはならないな。……お前達、この街に来てから、どこにでもこの水晶があるのは見ているだろう?」
「…………?ええ、はい。綺麗だなーとは思ってましたね」
「この水晶はただの鉱石じゃなく、人間の潜在能力を限界以上に引き出すことができる水晶なんだ。何でも人間の体の中にある命の源になる要素を爆発的に増大させるんだとか説明いただいたが、理屈は結局良く分からなかったな」
「人間の命の源……」
血液か何かかと考えるが、すぐに
ということは宗教とかで言われる魂の力というものか。未だに科学的に証明されていないものの、判明している理論だけでは説明できないものが人体には存在するらしい。これもその名状しがたい理屈の1つか。
「実際に見せた方が早いから、水晶を使う前と使った後で比較してみるぞ。まず、水晶を使う前の状態でこの鎧に攻撃してみる」
武器の入った箱の中から、適当に腕の長さほどの剣を取り出す。当たり前だが乱雑に置かれていたから刃こぼれもひどく、ボロボロだ。
『こんな武器で実戦に投入されるのか』と八郎太が引きつった顔をしていたことでセレンに考えていたことが伝わったらしく、鎧を切りつける前に注釈が入った。
「……実際に化け物討伐の際には綺麗な武器を渡すから。これは実戦でボロボロになって使い物にならなくなったから訓練用にのみ使っている」
「な、なるほど!すみません」
最初は問答無用で処刑の雰囲気しかなかったし、今でも別に八郎太や甲賀が街に留まることに納得しているわけではないだろうから怖いイメージを抱いていたが、ちゃんとこちらの希望は聞いてくれるし、意外にいい人だ。
ちなみにこの時、甲賀は『やっぱイケメンに心底怖い人はいないんだな。俺もそうだし』とナルシスト全開のことを考えていたことは誰も知らない。
「やあ!」
セレンが掛け声と共に鎧に向かって斜め左下から剣を切り上げる動作をした。鎧を打った時の衝撃にセレンの握力が耐えられなかったみたいで、剣はセレンの手のひらからすっぽ抜け、近くの地面に刺さった。
更に手のひらも痛いみたいで、何もなかったかのような顔をしているものの、左手で剣を握っていた右手をさすっている。
「これが水晶を使う前な。残念ながら街の男衆の中でも握力は弱いようだ」
「そ、そうなんですね」
見た目が華奢だから仕方ないと思う、むしろこちらの方がイメージ通りだ。
「で、水晶を使ってみる。水晶の使い方は、こうやって尖っている部分を握ってもぎ取るように引っ張り、欠片を作る。あんまり大きな欠片だと過剰摂取になってしまうから、大きくなってしまった場合は更に半分ぐらいに割るといい。最終的に手のひらに収まるぐらいの大きさになればベストだな」
パキリと軽い音がして、セレンが握った部分の水晶が割れ、小さな欠片だけが手に残る。取れたのはかなり小さな欠片で、親指の大きさほどしかないがそれでも問題なかったようで八郎太達に見せてきた。
「これだと実戦で使うには小さいが、今は水晶の力を見せるだけだからこれぐらいでいいだろう。戦いに出る際は、この3倍ほどの大きさを目安にして取ればいい」
「なるほど……。そういえば今、結構簡単に石を割ってましたが、そんなに固くないんですか?」
八郎太が今見ている限り、せんべいを割るぐらいの気安さで割っていた気がする。道端に落ちていた石ころよりも実は柔らかいのだろうか。
「水晶が緋いうちはそこまで固くはないな。木の枝を折るぐらいの強さで欠片を取ることができる」
「水晶が緋いうち……ってことは、この水晶、緋くなくなるんですか?」
「水晶から力を取り出せば水晶はただの石になる。そして水晶は、握っていればその力を与えてくれる」
手のひらの真ん中に水晶の欠片を置き、ぐっと握ると指の間から緋い光が漏れる。緋い光はセレンの体に吸い込まれるように、全身を取り巻き消えていく。
石と同じ色にも関わらず、なぜだかセレンの体に取り込まれている様子を見ているとうすら寒い気持ちになった。例えるならば、動いている生き物を食べている様を見ている時のような気持ち悪さだ。
「これが力を吸い尽くされた後の水晶だ。透明感もなくなって硬度が上がる」
セレンが手のひらを開いて出てきたのは、形こそ先程割った水晶と同じ形であるものの、色も透明度も失われただの石と化したものだった。高いところから落としても割れないことから、言った通り硬度も上がったことが分かる。
「セ、セレンさん……」
「何だ?」
「目が……」
「ああ。水晶の力を吸い取った直後はこうなるんだ。別に熱くも痛くもなければ、視力が失われるようなこともない。むしろ遠くまで良く見えるし、動体視力も良くなる。時間が経てば水晶の力は消えるが、その後目に問題が出るわけでもない」
甲賀が驚いたのは、セレンの瞳が真っ赤になっていたからだ。白目周りが充血しているのもあるのだが、黒目がカラーコンタクトを入れたみたいに、水晶と同じ緋色に代わっている。明らかに目に負担をかけてそうなのだが、水晶の力を得ただけだと問題ないのだろうか。
「で、水晶の力を取り込んだ後は筋力なども上昇する。今回は腕力と握力の増強具合しか見せられないが、移動速度、跳躍力等、ありとあらゆる身体能力が高くなっている。残念ながら脳みそは鍛えられないようで、判断能力は元のままだがな。そこは学習と経験でカバーしてもらうしかない」
先程飛ばしてしまい、地面に突き刺さったままだった剣を拾い、再び鎧に向かって斬りかかる。今度こそ鎧が真っ二つになっているかと思ったが、鎧は変わらずそこにあった。
今度は剣を離さなかったものの、刀身が真っ二つになって片方は甲賀のすぐ傍の地面に突き刺さった。さすがに飛んでくる瞬間は反応ができず、ちょっとずれていたら自分に剣が刺さっていた状況に心中半泣きになるしかなかった。むしろ目の前で大泣きしなかっただけ褒めてもらいたいぐらいの気分だった。
本当は鎧を斬る予定だったのか、セレンは不満げな顔だった。
「……上手に剣を振り下ろせば剣ではなく鎧の方が壊れるらしいんだがな。まあそこは俺の技術がまだまだというわけだ」
「いやむしろ、よっぽど丈夫な鎧って認識の方が正解かと……」
鎧についた傷の数を見る限り、恐らく今八郎太と甲賀にしているみたいに、新しく自警団に人が入る際には毎回、水晶の力を示すためにこのように鎧が攻撃されているのだろうと想像できる。にも関わらず、未だ傷がつくだけで壊れる様子がないことからよっぽどこの鎧は丈夫なのだろう。
ゲームで言えば終盤で伝説の勇者の鎧として紹介される可能性もありそうだ。いくら化け物の噛む力が強いと言っても、この鎧ならば大丈夫な気もするし、この鎧を着て戦場に出たい。
「で、ここまでがただの説明で、これからはお前達に水晶の力を得た状態で戦う訓練をしてもらおうと思っている。何度かこの鎧に対して攻撃をした後は俺相手に模擬戦闘を行ってもらう」
「えっ。……いや、確かに水晶の力のすごさは分かりましたけど、全く実戦経験のない人間が、数回動かない鎧に対して打ち込みをしただけで、何度も戦って生き残っている人間を相手できる気がしないんですけど……」
「悪いがこの街にはそんな訓練施設もノウハウもないから、できることと言えばそれぐらいなんだ。それに、俺だって水晶の力があるから何とか生き残れているだけで、戦闘技術なんてからっきしだ。一応侵略者の戦闘スタイルを真似ようとはしているが、正式な型なんて分からないから、結局適当に振っているだけだしな……」
「だからこの鎧だって切れたことがない」と傷だらけになった鎧を指差す。その横顔は何だか悔しそうだ。
「で、でも侵略者も化け物も撃退できてるんですよね?鎧が斬れるかどうかよりよっぽど戦闘技術を保証してくれてると思うんですけど」
「人間や獣の方が柔らかいからな。たまにこの鎧よりも硬い鎧を着てる人間が来る場合もあるが、今と違って狙うのは人間じゃなくて鎧だから、とにかく隙間を狙えばいい。もし隙間がなくても、斬るんじゃなくて突くようにすれば中の肉体も貫いてくれる」
「……その理論で言えばこの鎧だって穴を空けるぐらいできると思うんですがね」
この鎧に関しては片手剣で斬らなければならないという縛りがあるのが不思議で仕方がない。まあ、訓練用の鎧なのでそうそう壊れられちゃ困るというわけで、それぐらいの縛りがある方がいいのかもしれないが。
「じゃあ、お前達も適当に自分の武器を選んだ後、水晶を握ってみろ。当たり前だが実戦で使うものを選べよ。実戦でいきなり握ったこともない武器を振るって戦うのは不可能だからな」
「武器……武器なあ」
刃物だとナイフから腕ぐらいの長さの剣、長いものだと八郎太の足から胸ぐらいの長さのものまで存在する。その他草刈り用の鎌やら槍、先端に土のついた
棍棒は小さなものだと肘ぐらいまでの長さのものから、大きいものだと足の長さぐらいのものまである。長い棍棒は先端も大きく、重さも十分だ。ゲームのトロールや大きめのゴブリンなんかが持っている印象がある。
八郎太や甲賀としては銃が欲しい。もっと欲を言うならば戦闘機やロケットランチャーが欲しいのだが、そんなものがない世界線のようだ。文明レベルで言えば鉄砲が伝来する前の島国ぐらいか。
「じゃあ、これで……重……」
「……そんな大きいものを持ち歩けるのか?いくら水晶の力を得れば筋力も上がるからといって、普段持ち歩けないようなものは困るぞ」
「まあ……山盛りの教科書とプリントを入れた鞄と書道セット、あとは中華鍋をパシリで3人分ぐらい運ばされてると考えれば何とか……」
「プリントとかショドウセットとかチュウカナベとか何なんだ?」
どうもそこらへんも、八郎太達がいる島国特有の産物のようだ。
八郎太がセレンから心配されたのは、八郎太が自分の足から胸ぐらいまでの長さの大剣を選んだからだ。刃の横の長さだって大体顔ぐらいある。
八郎太が大剣を選んだのは、単純に大きい=強いという考えからだった。大きければ適当に振っていてもどこかしら敵に当たるだろうし、これだけ重量があれば例え斬れなかったとしても勢い良く振って当てることで敵を吹っ飛ばせたり叩き潰すことだってできるだろう。
難点はただひたすら重くて運びにくいし振りにくいということだが。両手で持ってもなお重くて、振りかぶってから振り下ろすまでに5秒から10秒ぐらいはかかる気がする。自分の基礎筋力不足を痛感し、こんなこともあろうかとちゃんと親戚の子供を抱える練習をしておくんだったと後悔した。
「じゃあ俺はこれにしようかなー。ギターより重くてしんどいけど、化け物にも近寄りたくないし」
甲賀が選んだのは、先端が笹の葉のように先端が鋭く、中央部が膨らみ、持ち手の方に近づくに連れて刃が狭まっている形状の槍だった。普段から「俺ってば赤が似合っちゃう情熱的な男だからな!」と豪語しているし、
長さは甲賀の身長より少し高く、セレンの身長より少し低いぐらいだ。華奢な体つきのせいで身長が同じぐらいなのではないかと印象を持ってしまっていたが、実はそこそこ背が高い。175cmは間違いなくありそうだ。
恰好つけて片手で振るおうとしていたものの、片手では持ち上げることすら難しそうで、大人しく両手で
「武器が決まったなら次は水晶の欠片を握れ。もう1度忠告するが、取り過ぎるなよ」
どこの水晶を割ってもいいとのことだったので、目の前にあった大きな水晶の塊から欠片を拝借することにした。細く尖っている部分を握って手前に引くと、パキリと軽いものが割れる音がして、30cmほどの細長い欠片が取れた。
セレンの方を見てみると、無言で首を横に振られたので、これは大きいんだなと判断して半分に割って甲賀に渡す。甲賀の方も甲賀が思っていたより軽かったみたいで、目をちょっとだけ見開いて驚いていた。
欠片とは言え、30cmほどある水晶がせんべいほどの重さだったのは驚くことだ。水晶なんて母親がピアスや指輪にしているものを宝石箱にしまっているところしか見たことがなく、実際に持ってみたことはなかったものの、一般的に知られている水晶がこれだけ軽いのはさすがにないだろう。
手のひらに刺さりそうだと思いながら、ゆるく水晶の欠片を握り込むと、先程まで外気温より少しだけひんやりするぐらいの温度だった水晶が、熱を持ち始める。その熱が指の隙間から漏れたと思うと、全身を取り巻いてやがて消えた。
時間にして10秒も経たないぐらいだったと思うが、不思議な感覚だった。甲賀も初めての感覚に鳥肌が立ったのか、両腕で両肘の辺りをさすっている。
熱が消えた後の水晶は、少しだけ重くなっていた。握った者に力を与えた後は、本当にただの石に変わり果てるようだ。
「あのー……この石になってしまった水晶はどうすれば……」
「……ゴミではないし、捨てても構わない」
「あ、そうなんすね」
取り扱いに困っていた甲賀がセレンに質問をすると、呆れたように答えを返してきた。
少なくとも甲賀も八郎太も、ゴミでなくともモノをそこら辺にポイ捨てしてはいけないと教わっている。あの自由奔放な仁沙ですらそういったマナーについては家庭で厳しく躾けられている。が、そういったことを気にする様子もないし、もしかしてこの世界ではそこまで気にしないものなのだろうか。
まあ、地面から伸びているものなのだから、地面に戻しても問題ないということかと思い直した。
石を捨てた後に改めて先程選んだ大剣を持ち上げると、あまりの軽さに驚いた。まるで紙のように、とまではいかないものの、中身の入った500mlのペットボトルほどの重さになっている。先程は両手を使っても緩慢な動作しかできなかったが、今では片手で自由自在に振るえるようになっている。
なお、刃を鎧にぶつけても凹むばかりで斬れる様子はなかった。甲賀の方も切っ先を鎧に刺そうとするものの、表面が平面ではなくなだらかな曲面になっているため、受け流されて空を切るばかりだった。
やっぱりこの鎧が最強な気がするので、できればこの鎧を着て戦いたい。
「ではそろそろ模擬訓練をするか」
「え!?まだ10分も武器の練習してないですよ!?」
「のんびり練習する暇なんてないからな。それに動くものと対峙した方が手っ取り早い訓練になる」
「ブラック過ぎる……」
会社で言えば、入社数日でOJTに放り込まれるようなものだ。昔の会社では往々にしてあったのかもしれないが、今では教育制度が整備されていないブラックな会社と言われる。
が、そもそもOJTすら行われることなく、いきなり現場に放り込まれることになると数秒後に知ることとなる。
セレンが水晶の効果が切れたからと欠片を再び手に取った時、空から鎧に向かって何かが降り立ち、棒に吊るされていた鎧が重い音を立てて地面に伏した。
何かというのは、半透明な緋い毛色の狼だった。シベリアンハスキーに似ているものの、シベリアンハスキーの方が何となくまだ愛嬌のある顔立ちをしている気がする。こちらをじっと見つめる黒い目は、まるでそこに何もないかのような空洞に思える。
狼は空に向かって一吠えすると、八郎太の喉笛めがけて襲い掛かってきた。
反応できたのは、緋い水晶の力を借りていたことと、単純に運が良かった。とっさに危険を感じて手前に大剣を引き寄せたおかげで、狼の牙を遮ることができた。
「八郎太!」
狼の牙が大剣の刃を噛み砕くのと、甲賀の槍の穂先が狼の体を貫いたのは同時だった。が、致命傷には至らなかったみたいで、体を捻って槍を抜くと、ターゲットを変えたようで、緋い体よりも更に赤い液体をぼたぼたと滴らせながら真っ直ぐに甲賀に向かってきた。
何も反応できないまま固まっていると、横からセレンの剣が狼の首を落とした。狼の体が崩れるように落ちるのを見て少ししてから、足の力が抜けたかのようにへたり込んだ。
「し、死ぬかと思った……。走馬灯とかそんなんなくて、あの瞬間絶対死んだって思った……」
「オ、オレも、死ななくて良かった……。怖かった……」
八郎太も深くため息をついてその場にしゃがみ込む。
今この瞬間、漏らしていないだけ褒めて欲しいぐらいだ。というかそもそも、今この瞬間生きていることを褒めて欲しい。
水晶の力がなかったら反応速度と動体視力が弱くて死んでいたし、甲賀がとっさに八郎太を守ろうとしなければ八郎太が死んでいたし、この場にセレンがいなかったら甲賀も死んでいた。運が良かったとしか思えない。
走馬灯など見ている暇はなかった。まだ人生経験が浅いから、という理由かもしれないが、人間死ぬ時は本当に一瞬なんだと悟った。
「お前達、筋がいいな。訓練すれば確実に強くなるだろう」
「筋が良くなくていいから、帰りたい……。次こそ確実に死んじまうって……。……死にたくねえよ……」
「……オレだって」
「せっかく褒めたのに」と嘆息するものの、戦いたがらないことを非難することはなかった。
死が怖いのは当たり前だ。セレンだって最初はもっと怖かったし、今だって危険な目に遭えば自警団を辞めたいと思う。今日はたまたま標的にならず、安全地帯で戦闘を終えたので死の恐怖を身近に感じることがなかっただけだ。
目の前にいるのは戦いを始めてする上、たまたま無傷で済んだものの目の前に死が迫っていた子供だ。怖くて当然だと思う。
こんないかにも平和な世界で生きてきたような子供がスパイなわけはないと思うので、訝しむ気持ちは消えていた。半泣きで家に帰りたいという八郎太達を目の前に、「早く帰れたらいいのに」とも思っていた。
ただ、八郎太達の住処がどこにあるかが分からなければ帰し方も分からないためどうにもできないし、ここにいる以上は嫌でも怖くても働いてもらわなければならない。更に戦いのセンスを見込んだ人間に対して「もう戦わなくてもいい」とは言ってあげられなかった。
「……ん?これは……」
セレンが血だまりの中に倒れている狼の傍で何かを見つけて、眉をひそめる。
『怪しいものでもあったのか』と思ったものの、八郎太も甲賀もそれに対して突っ込んでいく気力がなかった。
「…………」
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