3話 遺跡の探索

いつも憶い出せるのは、神殿の最奥部で女が指を組んでひざまずく場面からだ。

顔をフードで隠したローブ姿の者3人に囲まれ、何かを問いかけられて何かを答えている。この内容は良く聞き取れない。

やがてローブ姿の者の1人が祭壇から刃の短い剣を持ち上げ、女の方に向けた。

女はそれを恍惚とした顔で眺める。まるで至高の果実を与えられているかのごとく。

剣は何の躊躇いもなく女に向かって振り下ろされ、女の首が深く抉られる。

痛いはずだ。苦しいはずなのに。

女は嬉しそうに笑っていた。そして目の前で命が失われた瞬間を見た者達も笑っていた。

女の体から噴き出した赤に反応したかのように、祭壇を囲むように天に向かって伸びる緋色の水晶が強い輝きを放つ。まるで女の命を喰らっているかのようで、薄気味悪かった。

なのにローブ姿の者が、赤が滴る剣を振り上げ何かを宣言した時に、誰も彼も嬉しそうな顔をして歓声をあげた。女の死を祝福していた。

気持ち悪かった。この場にあるもの全てが。

隣で笑う、唯一の家族ですらも。

俺以外の全てが異物に見えた。


ああ、それとも。

俺が異物なのだろうか。


**********


「……何の夢だったのかしら」


実に夢見が悪い。仁沙はホラーは苦手ではないが、スプラッターは得意ではない。体液がブシャーと飛び出る場面なんて見たくない。

悲鳴をあげて起きたわけではないみたいで、隣のベッドでは母親が寝入っている。布団を抱いたまま寝返りをゴロンゴロンと打っているが、これで熟睡状態だ。ちなみに仁沙は、夢の世界に旅立ったままベッドから落ちたり天地が逆になっていたりするレベルだ。

夢の中の仁沙は現実の仁沙よりも少し低い目線で目の前の出来事を眺めていた。小学校ぐらいの男子だろうか。ただ、あまり食べていないのか手足が筋肉も贅肉もなく頼りない感じだった。

寝苦しくならないようにガンガンにクーラーをかけているにも関わらず、パジャマの首元や背中がぐっしょりと濡れ、額にも汗が玉のように浮いていた。おかげで風が当たると寒くて仕方がない。


「……気晴らしでもしようかな」


目覚めてまた即眠りにつくと、夢の続きを見てしまうという話を聞いたことがある。あの場で人が死んでいるのは特別なことみたいだったので、もうこれ以上死ぬことはないだろうが、そもそも夢なんて何が起こるか分からない。次見た時には皆殺しの現場に居合わせるかもしれない。

ひとまず寒いので別のパジャマに着替えた後、ベッドに横たわってスマホを起動する。スマホ画面のような強烈な明るさを浴びると眠りが浅くなると聞いたことがあるが、別に日常的に寝る前に浴びていなければ多少問題ないだろう。松山のようにゲームのイベントのせいで寝られないとかのレベルになると大問題だろうが。

今は眠りの質よりも、この鬱屈とした気持ちを忘れさせて欲しい。


『寝覚め最悪な夢見たんだけど』


スマホのホーム画面に出ていたのは、八郎太からのチャットの通知だった。

こんな時間にグループチャットへ投稿するなんて珍しい。グループチャットなら通知を切っているとでも思っていたのだろうか。残念だが、そんな面倒なことはしない。まあ、通知で起こされたことなんてただの1度もないのだから問題ないのだが。


『あ、俺も俺もー。いやー、ホラーなんて画面の向こうだけにして欲しいって。あ、幽霊とか怪異とか出てこないからホラーとは言わないのか?』


甲賀も起きていたようで、即続きの投稿が送られる。八郎太のチャットからわずか10秒足らずでこの文章量が送られて、相変わらず文字を打つ速度が速いもんだと感心するしかない。さすが常日頃から色んな女の子に同時並行で文面を送っているだけある。確か以前文章を打っている場面を目撃した時は、両手を使っていた。


『あたしも何か嫌な夢見たわ。ちょーグロかった』


一緒に陸に打ち上げられて息も絶え絶えな様子のカツオのスタンプも送っておく。このカツオ、イベントなどでもらえるものではなく課金をして買ったものなので、「何で金かけてこんな変なスタンプ買ってるんだよ……」と甲賀に呆れられ、むっとして甲賀が謝るまでスタンプ爆撃したものだ。

というか八郎太と甲賀は同じ家に住んでいるにも関わらず、チャットで会話しているのか。まあ部屋が分かれているから、ベッドから移動しなければそうなるか。こちらは親と同じ部屋なのにと、広い家がちょっと妬ましい。


『オレが見た夢もグロかったなー。首が切られてるのに笑ってる女の人が出てきてトラウマになりそう』

『え、八郎太の夢にも首が切られた女の人出てきたの?あたしの夢にも出てきて、しかも女の人死んでるのにそれを見てる人皆喜んでたわ』

『頭いかれてるんじゃねえのかその場にいた皆』

『おかしな宗教にでも入ってそうだよな全員。っつーか夢の内容よりも、俺としては全員同じ夢を見てるんじゃねえの?ってとこが気になってるんだけど』

『え!?甲賀も目の前で女の人の首が切られる夢見たの!?流行ってるのかしら』


『速報!今スプラッターが熱い!噴き出す鮮血』とかSNSのトレンドにあがるのだろうか。すごく嫌なブームだ。こんなものが流行るなんて世紀末もいいところである。


『さすがに流行りではねえだろ。こう、誰かが俺達に何かを伝えたいんじゃないか?夢に出てくる人物って夢に出た対象に会いたがってるって話もあるぐらいだし』

『でも、さすがに女の人が死んでるシーンに伝えたいメッセージがあるとは思えないんだけど』

『普通に考えて、死んだ女の人を見てる側がヘルプ求めてるんだろ。ここはおかしい!俺も殺されるかもしれない!ヘルプ!的な』

『だとしたら、ちょっとヘルプする場所間違ってる気がするなあ。どこで起こってるかも分かんねえから助けに行けないし』

『変な人間に囲まれ過ぎて自分も頭がおかしくなって、祈りが変な方向に飛びすぎてオレ達のところに来ちまったって感じなのかな。それはそれはお気の毒に』


見たことがない場所だったし、全体的に色素の薄い毛色をしていたので、恐らくこの地域からは遠く離れた、それこそこの星の裏側ぐらいの位置で起きていることだろう。


『何か色々妄想してたら眠くなってきたから寝るわね。じゃあまた明日ー』

『オレも寝るよ。ちゃんと明日から宿題やれよ』

『明日は持病のこめかみカユイカユイ病が発症する予定だから無理』

『こめかみが痒いぐらい我慢しろよ。全身切り傷できても山道元気に上り下りするくせに』

『こめかみ痒いのをほっとくぐらいなら、大腿骨だいたいこつ折った方がマシよ』

『じゃあ明日大腿骨折りに行ってやるから宿題やれよ。おやすみ』

『俺の弟サイコパスすぎてワロタ。身内から犯罪者出したくねえし、ちゃんと宿題やれよー。おやすみ』

『八郎太があたしの大腿骨折る前に、あたしが八郎太の肋骨折ってやるわよ。おやすみー』


**********


翌朝は幼馴染同士骨の折り合いをするという物騒な事件は起こらなかったものの、残念ながら宿題はさせられることになった。


「うっうっ……。あたしは朝からモーニングルーティンで優雅にせみ取りに行ってるはずだったのに、どうして漢字100本ノックさせられてるの……」

「毎年最終日に徹夜で仕上げるっていう負の連鎖を断ち切るために決まってんだろ。今日はまだ頭使わない書き取りしかさせねえんだから泣くな」

「こんなに漢字書いてたら、腱鞘炎けんしょうえんになるでしょ!!」

「月に1回は電柱とか色んなもん殴って拳ダメにしてる女が、腱鞘炎程度でウダウダ言うな!」


まるで定期的にものを殴っているような言い草は誤解を招くのでやめて欲しい。喧嘩を売られた時に手が出ているだけだ。それに最近では殴るのもコツを掴み、あまり手を痛めないようになった。

朝っぱらから八郎太監修のもと、方眼つきキャンパスノートと向き合うことになった経緯は朝7時までさかのぼる。

用意されたコンビニのコーンパンと牛乳を食し、7時頃にアミとカゴを用意していそいそと出かけようと玄関を開けると、そこには八郎太が憮然ぶぜんとした顔で立っており、仁沙をUターンさせて一緒に家の中に入った。ご丁寧に鍵とチェーンもしてだ。

無言で有無を言わさぬ圧力を放ちながら椅子に座らせ、仁沙のカバンから漢字帳とキャンパスノートとシャープペンシルを取り出して机の上に置いていた。


「P5からP12まで。全単語20回ずつそこのノートに写せ。こんぐらいなら4時間ありゃ終わるだろ」

「え、待って死んじゃう。待って。許して」

「終わるまで見ててやるから」

「ヒュ」


答えを教えるものでもなくてひたすら書くものである以上、見ている=見張っているという意味であるからして。

抵抗できる気などできず、仁沙は大人しく漢字の書き取りをせざるを得なかった。

ちなみに仁沙が漢字を書いている最中、八郎太も定期的に仁沙がサボっていないか見張りつつ、同じように漢字の書き取りをしていた。せっかく漢字帳を開いているし、一緒に同じものをした方が効率的だ。

無心で行う漢字の書き取りは、知識量による差異を生まないので速さは特に変わらない。強いてクオリティの差をあげるならば字の綺麗さ、真っ直ぐ書けているかという点があるものの、仁沙は勉強は得意ではないが字はそこそこ綺麗に書ける方だし、八郎太も男子の中でも丁寧に字を書く方なので、字に几帳面さが表れている。なのでこちらもそこまで変わらない。

ただ、根気強さは断然八郎太の方が上だ。八郎太は顔色1つ変えず黙々とひたすら漢字の書き取りを行っていたが、仁沙はだんだん飽きてきてペン回しを始めたり、挙句の果てには机に突っ伏した。


「無理ー!100種類以上20回ずつって2000回以上書かなきゃいけないじゃん!」

「何も考えなくていいんだから、数学とか英語の長文読解とかよりはマシだろ」

「そもそも、今はパソコンでもスマホでも漢字の変換ができるのに、自分で覚える必要とかあるの!?」

「役所の書類とかは今でも手書きのものが多いし、そもそも覚えてないと正しい変換すらできねえぞ。まあオレとしてはそもそも、今やってる勉強1個1個全部将来の役に立つかどうかなんて考える必要ないと思ってるけど」

「役に立たないのにやっててもしょうがないじゃない」

「まあその年代ごとでやらなければならないことっつーか。全く義務を果たせない人間が、いきなり大人になって金のために好きでもない仕事やるなんてなかなかきついだろ」

「……ちょくちょく思うけど、八郎太ってあたし達と同じ年?」

「同じ年だけど、もしかしたら記憶保持転生者かもしれないなー。オレが生まれてからの記憶しかねえけど」


今流行りの異世界転生とやらか。だから勉強もスポーツも家事も何でもこなせるのか。残念ながらハーレムの環境には置かれなかったようで、彼女いない歴=年齢だが。


「これでも今日のタスクは軽めにしてやってるんだから、これぐらい頑張れよ。さっさと終わらないと、遊ぶ時間が減るぞ」

「軽め!?これが軽め!!??……ん?あれ。終わったら遊ぶの?何か約束してたっけ」

「いや?でも兄貴が仁沙の喜びそうなところに連れてくとか言ってたぞ」

「何何何!?すごい気になるじゃないの!」

「その前にやるべきことはやろうな」

「うえー……」


飴が待っているならば仕方ない。些かどころかそこそこ鞭の割合の方が多い気もするが、飴の質が大きいならばまあ許そう。

『それにしても、何で甲賀は宿題しなくていいのよ』と不満の気持ちをシャープペンシルにぶつけると、芯が欠けてしまった。甲賀も現在自分の部屋で、漢字の書き取りではないが宿題をしているのだが、仁沙の目の届かないところでやっていても分かるわけがない。

甲賀も積極的に宿題を早く済ませる方ではないにも関わらず、鬼教官から指導を受けずに済んでいるのが不満で仕方ないのだ。甲賀は何だかんだ自分自身で済ましているから見張る必要はないということが仁沙の頭にはない。

結局、数十回投げ出しそうになり、そのたびになだめすかしたり般若の形相を向けて書き取り作業へ戻すということがあったため、終わったのは12時を過ぎていた。


「終わったー!もう夏休みも終わっちゃった気分だわ……」

「まだ始まって1日目だぞ……。しかもまだ英語も数学も理科も世界史も日本史も公民も残ってるし」

「信じられない……。この世の果てを見てる気分だわ……」

「この世の果てはもっとひどいだろ。さいの河原みたいな無間地獄もあるみたいだし」

「まだ石積みの方がマシよ……。お望みなら石でバベルの塔を築いてやるわ」

「いや、積んでも積んでも鬼が石の山を崩してくるから無間地獄って言われるんだぞ」

「鬼を倒せば崩してくるやつはいなくなるじゃない。リスニングより簡単な結論だわ」


仁沙の場合、賽の河原に放り込まれたら本当に鬼を倒して脱出しそうだから困る。八郎太は地獄の門番と知り合いではないので、鬼や閻魔大王、冥界の神が困っていても知ったこっちゃないのだが、それでも普段仁沙の監督をしている身としては申し訳ない。


「お腹すいたー。八郎太、ご飯ちょーだい」

「家に昨日の残りの焼き鳥あるから、それ食ってから遊びに行くか。オレも腹減った」


仁沙の母親は働いている上に料理も得意ではないため、基本お金だけ出すから好きに食べてくれというスタイルだ。さすがに小学校までは自分で用意するのも難しいため、レトルトや出前、総菜が机に置かれていたのだが、最近自立心を養うという意味も兼ねてか、朝食以外は勝手に食べてくれスタイルだ。

朝食だけは自分も家で食べるからか、買ったものが机に置かれている。

それに関して寂しいと思ったことがあるのかもしれないが、少なくとも今の仁沙にはそんな弱気な記憶は存在しない。八郎太一家が不憫に思って仁沙に食事を出すようになったのがかなり大きく影響してそうだ。

なお、仁沙の食事代は毎月定期的に多めに母親が払っているので、家計が圧迫されることはない。良く食事担当になっている八郎太も、1人分多めに作るのもそこまで手間は変わらないので構わないと思っている。


「やったー!焼き鳥!!でも焼き鳥って何で串に刺さってるのかしら。串の奥の方の肉が食べにくくて仕方ないのに」

「昔は焚き火で肉を焼いてたからじゃないのか?火の中に直接放り込むわけにも、地面に置くわけにもいかねえし。ってか文句言うなよ。肉を串に刺すのって結構大変なんだぞ」

「大変ならバラバラのまま作ればいいじゃない」

「でも、焼き鳥って言ったら串に刺さってるもんだろ?串に刺さってなかったら鳥炒めになりそうだぞ」

「鳥を焼けば焼き鳥でしょ。何で串があるかないかで名前が変わるのよ」


確かに言われてみれば不思議だ。串焼きという名前ならば串がなければおかしいが、焼き鳥という名前のどこにも串という単語は入っていない。

ただ色々言っていてもそのまま食べるのだからこれも不思議だ。串の奥の方の肉が食べにくいのならば箸で外してから食べればいいのに、なぜだか串に貼り付いて綺麗に外れない肉に苦戦しながらもかぶりついている。

甲賀は何も言わずに一旦串から全部箸で外して食べていた。特に苦情は言わないが、串に刺さっていること自体は不便に思っているようだ。

鶏肉を串に刺すだけで7分は使っている八郎太としては串も味わって欲しいぐらいだが、確かに食べる側になってみると肉を全部食べるのに串は邪魔だ。

ただ何となく串をそのままなくすのも寂しい。串に刺さっていた方が何となく見栄えもいい気はする。


「そういえば甲賀。あたしが喜びそうなところに連れてってくれるって聞いたんだけど、どこに行くの?」

「何でも昨日話してた遺跡がもう一般公開されたらしいぞ」

「早っ!?遺跡の調査ってそんなに早く終わるもんなの!?」

「普通どんぐらいかかるもんなのかは知らないけど、少なくとも昨日話してた遺跡は、金さえ払えばもう誰でも入れるらしいぞ」

「えー、お金取るのー?」


てっきりただで入れると思っていた。誰かが建てたわけではなく、突然現れたものなのに。


「1日で調査が終わったってことは大したもんも出てこなかったんだろうし、見せるのに入場料取るぐらいしか役に立たないんだろ」

「ちなみにいくらだ?」

「時間制限なしで500円らしい。まあ、夕方5時までには出て行かないとダメらしいけど」

「うーん……。高い方のワンコインか……」


八郎太としては、面白いものが見れるかどうかも分からないものに500円も払うのは惜しい。

そもそも1日で調査が終わるぐらいだから大した広さでもなければ、特殊なものが見つかる場所なわけでもないのだろう。そんなところを見に行くぐらいなら、同じ値段で動物園にでも行った方がいい。

ただ、仁沙は同じように思わなかったようだ。


「まあ500円ぐらいなら仕方ないわね」

「嘘だろ……。500円あればケーキだって食えるし、動物園だって水族館だって行けるし、ゲーセンで5試合は遊べるのに……」

「だって遺跡よ!?ロマンの塊じゃない!!」

「1日で調査終わるようなところだろ?大したとこじゃないって」

「1日しか調査してないってことはしっかり調べられてないってことでしょ。まだ見つかっていない隠し部屋とか謎の地下室とかあってもおかしくないわ」


調査隊が調べても見つからなかったものを自分達が都合良く見つけられるとも思えない。

八郎太はそう思っていたが、仁沙のみならず甲賀も自分達ならば見つけられると信じてならないようだ。お気に入りの白黒の斜め掛けボディバッグに財布やらビニール巻きのスコップやらをいそいそと詰めている。

中学2年生にもなってあるかどうかも分からないロマンを追いかけるのは八郎太的には信じられなかった。実際には八郎太が特別達観しているだけで、八郎太達の通っている中学の生徒は大体こんなものだったが。


「それにしても、神居かむい市にこんなちっちゃな砂漠みたいなのがあるとは思わなかったわ」

「そもそも電車じゃないときついとこまでは足伸ばしてねえもんな。お小遣い入りたての1日ぐらいは電車を使った移動も視野に入れたら、遊べる範囲広がりそうだなー」


遺跡があるのは、仁沙達が住む神居市西区からローカル線で6駅分揺られると辿り着く、砂川すながわ区という場所のようだ。

なお、この神居市は神威と書いたりした時代もあるようだが、仁沙達が生まれた当時から神居と書くのが普通だった。現代では神はただそこにいるだけで、畏れ敬われているわけではないという暗喩なのだろうか。

神居氏の電車は元々電子改札を採用している部分は少ないが、まさかまだ無人改札の駅が存在するとも思わず、どうやって精算したものかと困った。


「ピッてできないのかしら……。あたしICカードか携帯払いしかできないんだけど……」

「現代っ子かよ。……しゃーねえなあ。後で360円、返せよ」

「同い年の八郎太に現代っ子かって言われるとは思ってなかったわ。今日の夕食代として机にお札が置かれてたから、そこから払うわね」

「飯代が遊ぶ金に変わってるって、母親から見ればどうなんだろうな……」

「ご飯代にも使うから問題ないでしょ!」


都会へ出る電車と違って、ローカル線は利用人口がだんだん過疎化している。それを防ぐために、電車そのものに工夫をして興味を持たせ、客を呼び込む手法を取られていることが多い。

今仁沙達が乗っている電車も、電車がピラミッドとコラボしているのか、あちこちにスフィンクスの置物が置かれており、甲賀が写真を撮りまくっている。

その場で写真の明度を調整して見やすいように加工し、SNSにアップしていた。色んな検索文字列に引っかかるようにタグもつけまくって、女子かよと八郎太は思っていた。

逆に女子である仁沙は、スマホを出す気配すらなくスフィンクス1体1体の表情が違うのかどうかを確認していた。一応良く話すクラスメイトの女子や甲賀に勧められてSNSに登録はしているのだが、勧められた瞬間に蝉の写真をあげて以来開いてすらない。その蝉の写真に知らない外人から謎のコメントが来ていたものの、確認もしていない。

仁沙と甲賀の性別が逆だったらちょうどいいと思う時も多いが、甲賀のような女子を姉にするのは嫌だった。兄でも面倒だと思うし、何なら仁沙が身内だともっと面倒だとも思うが。


「砂川、砂川です」

「おーい、降りるぞ」


スマホを手放さない甲賀と、スフィンクスに夢中になっていた仁沙に下車を促す八郎太は、さしずめ保護者の気分だった。まあこの2人と遊びに行って保護者にならない日はないのだが。

砂川は地名の通り、ほとんど砂しかない場所だった。駅周辺はアスファルトで整備されているものの、駅から少し離れた場所はほぼ砂ばかりだ。遥か遠くには水辺が見えるが、それ以外は草も森も山もなく、ひたすら砂である。


「あそこに見えるのって、海なんだってさ。ってことは、ここは大きな砂浜ってところか」


駅の前には看板のような板があり、その板に砂川についての説明が書かれた紙が貼られていた。紙がダメにならないようにプラスチックが上にかぶせられているものの、風で舞い上がった砂が看板を汚して説明は見にくくなっている。それでも記念か、甲賀はこれも写真に収めていた。


「八郎太、アイスが売ってるわよ!買わない?」

「買うけどやらねえぞ。電車代だって貸してやったのに」

「人がいるなら電子マネーだって使えるでしょ!」


が、残念ながらこんな田舎の露店ではまだ電子マネーは対応していなかった。腰が90度以上曲がったしわしわの弱々しいおばあちゃんは電子マネーの存在すら知らないようで、スマホやICカードを見せても首を傾げられるばかりだった。


「うっうっ、こんなに暑いのに買えないなんて……」

「しゃーねえなあ。かわいそうだから俺が恵んでやるよ。『甲賀様この下民のわたくしめにお恵みをください』って可愛くねだってみな」

「こーがさまげみんのあたしにアイスください」

「はーいうっそー!んな簡単にやるか……って嘘だろ!?」


袋から取り出したラムネアイスを引っ込めようと腕を後ろに引いたが、その前に仁沙が大口を開けて食らいついていた。獲物を狙う野生の狼もびっくりの速度でだ。


「んー、おいしかった!ありがとー甲賀!!」

「俺のアイス……」

「仁沙相手にそんなちゃちなフェイントが効くわけねえだろ……」


3分の2は仁沙の腹の中に入り、満足気な顔をする仁沙とは対照的に甲賀はがっくりとうなだれ、くだらない意地悪が効くと思っていたことを愚かだと思った八郎太は呆れたような顔をしていた。

アイスを食べた後水辺に近付いていくように足を伸ばし、砂に足を取られながらこんもりと高く盛られた砂の山を登りきると、砂の山の下に遺跡があるのが見えた。

遺跡はそこまで高い建物ではなく、砂山の上からだと屋根に当たる部分が良く見える。ただ遺跡だからか、屋根らしい屋根ではなく、長方形の石が無造作に組み上げられているだけなので、隙間から雨が滲んできそうだと思った。しかも横幅を見る限り、あまり広くなさそうだ。広さ的には40人が入る教室と同じぐらいか。

その入口でサングラスをかけた受付らしき男性が、パイプ椅子に座って汗を拭っている。たまに目の前の長机に置いているパンフレットを並べ直したりしているが、その他にやることがなさそうで実に退屈そうだ。この様子だと客の入りは良くないように思われる。

目の前の建造物が何の前触れもなく突然出現したという事象そのものはすごいが、建造物本体にそこまでの価値はなさそうだと八郎太はすでに帰りたい気持ちになっていたが、一緒にいた幼馴染と兄はそうは思わなかったようで、遺跡を見つけてテンションを上げながら坂を下っていた。甲賀などお気に入りのちょっとお高めのスニーカーに砂が入るのも気にせずに駆け出している。

机にぶつかりそうな勢いで坂を下りてきた仁沙と甲賀に、男性はのけぞって声をかけていた。


「け、見学でしょうか……?」

「はい!3人でお願いします!!」

「1人500円だから1500円ですね。しかし、君達のような若い子達も遺跡に興味があるんですねえ……」


なお、今回も現金オンリーだったので、今度は甲賀が全額払うことになった。ICカードと電子マネーを合わせればギリギリ本日払った分全てを賄えるにも関わらず、どこも現金払いしか対応していないせいで、まるでヒモのようになっていた。

甲賀は女の子が大好きだが、女尊の意識はなかったので几帳面に携帯に仁沙にいくら貸したかをメモしていた。『帰ったらいつもすぐ返してるのに、やーなやつ』と仁沙が膨れていたものの、無視だった。


「じゃあさっそく入るわよー!お宝見つかるかしら!?」


せっかくもらったパンフレットはものの数秒で握り締められ、くしゃくしゃになっていた。甲賀もカバンに無造作に突っ込み、スマホで外観を撮っている。撮影禁止だと注意書きはなかったものの、写真は大丈夫だろうかと八郎太が心配していたが、特に問題ないようで受付の男性からは注意の声はあがらなかった。

両脇と手前は隙間を少し空けながら柱で囲われているだけで壁がなく、奥だけ柱がない代わりに暗い色の石の壁がそびえ立っていた。石壁にはところどころヒビが入っており、耐久性に若干不安を感じる。

柱の隙間や屋根の隙間から日光が入るからか、中は明かりをつけなくても真昼間のように明るい。その代わり日陰もないので外と変わらず暑かった。


「一応この建物はギリシャ建築だろうと言われてて、柱はドーリア式って様式で作られていると思われるって書いてる……って興味なさげだな」

「そんな世界史で習う単語には興味ないわよ!そんなことよりここには何もなさそうだし、さっさと地下に降りるわよ!」

「歴史を知るのは大事なことだぞ。……まあ、1日調査したぐらいで出た結果だから、本当なのかアテにならねえけどな」


八郎太はその地の歴史を紐解くものは好きだ。なので渡されたパンフレットもちゃんと読んでいたが、仁沙と甲賀はひたすら目の前の遺跡を進んでいくことしか興味ないようだった。

遺跡の1階はがらんとした何もない空間で、真ん中の床に小さな石造りの階段があるのみだった。机1つ置いておらず、もはやこれだけの広さを持たせたのも謎なレベルだ。

さすがに地下への階段に光はほとんど入らないのか、階段近くの壁にいくつか小さなランプが取り付けられていた。それでも足元が見えづらくて危ないので、全員スマホのライトで足元を照らして降りることになった。

ただ、仁沙はこのたび初めてスマホの懐中電灯を使ったので、どこから懐中電灯モードにするのか分からず画面をひたすら指で滑らせていた。

いい加減面倒になってスマホをポケットにしまい、壁に手をついていつもより気持ちゆっくりめに階段を下り始めた。完全なる真っ暗闇というわけではないので、ちゃんと目を凝らせば見えることには見えるのだ。

まさか同級生が懐中電灯機能すら分からないほどに文明の利器を使いこなせていないとは思わず、甲賀は嘆息していた。


「お前はおばあさんか……」

「仕方ないでしょー!電話するぐらいしか使わないんだから!」

「SNSもせっかく登録させたのに、全く投稿してないしな……。若者として終わってる気がするぞ」

「若者が皆スマホを使いこなしてると思うなよ!っていうか、八郎太だってSNSはそんなにやってないじゃん!」

「1ヶ月置きぐらいの周期で、思い出したかのように投稿してるからお前よりはマシ」

「信じられない……。八郎太はあたしの仲間だと思ってたのに……」

「いや勝手に仲間にされても。それにちょくちょく見ないと兄貴がうるさいからやってるだけだぞ」


地下への階段を下りきった段階で八郎太が仁沙に自分の投稿を見せようとする。が、電波が届かないみたいで、いつまでもデータを最新の状態にできず画面の真ん中で黒い円がくるくると回っていた。

八郎太の持つ端末は特別電波が入りにくいわけでもないし、そこまで深く下りてきたわけでもないのに圏外になるのは不思議だった。地下室が電波を通しにくい素材でできているのだろうか。


「げえー、電波入んないのかよ。ハッシュタグ遺跡とかつけて自撮りあげようと思ったのに。八郎太の」

「いや何でオレの写真なんだよ。それどう考えても自撮りじゃなくて他撮りだろ。自撮りなら自分の写真あげろよ」

「俺あんまり顔出ししねえからなあ。何か怖いし」

「何か怖いくせに人の写真はあげようとするのは何なんだ……」


言っているそばからスマホのカメラ部分が光り、カシャリという軽い音が鳴る。写っているのはげんなりとした弟の姿だろうに、カメラを確認して満足げにうなずけるのは不思議だった。


「ちょっとー、何やってるのよ!地下こそ色々あるに決まってるから、キリキリ探索するわよ!」


時間にして5分経ったかどうかだったが、その間に仁沙はどんどん奥に進んでいたようで少し声が遠かった。目を凝らしてもうっすら手を振っているのが分かる程度しか見えない。

すぐに見失いそうだったので八郎太も甲賀も小走りで仁沙の方に向かうと、奥から砂色の帽子をかぶった男性と女性が来るのが見えたので軽く会釈する。近くで見るとかなり年老いていると分かるその男女は、こちらを見て何となく気の毒そうな顔をしていた。

先ほどの仁沙の発言を聞いて、この地下に何か心躍るものがあると信じている若者だと思われたのだろうか。そしてこの先には何もないから気の毒そうな顔をしたと。


「まあ……何もないとは思ってたけどやっぱりかー……」

「まだ何もないとは決まってないだろ!」

「妙な期待持つのはやめてさっさと帰ろうぜー……」


まだ仁沙の元に辿り着かないのでもう少し奥があるようだが、もうすでに帰りたい。胸の躍るような冒険も、夢のような財宝もしょせんフィクションの中にしかないものだ。どうせ徒労に終わるのだから、無駄な足掻きをせずに帰りたい。

仁沙のいる地点に辿り着くのはそこまで時間はかからなかった。というのも、手を振っていた場所から進んでおらず、背中を向けて仁王立ちをしていたからだ。それもそのはず、仁沙の目の前には石壁しかなかった。それにしてもなぜ腕を組みながら厳しい顔で仁王立ちをしているのか。


「……どうしたんだ?」

「目の前壁しかないわね」

「まあ……一応ここに来るまでにいくつか曲がり道はあったけどな。暗くて見えにくかったけど」

「実はね、あんた達が来るまでに、曲がり道も全部曲がったのよ。で、全部結局壁に辿り着くのよ」

「早っ!?オレらそこまで待たせてたつもりはなかったんだけど」


いくらこの地下道内が狭いと言っても、曲がり道も含めると普通5分で確認を終えられるとは思えない。瞬間移動でもしたのか。


「っていうか、やっぱ壁しかなかったのか。ほら、言った通り大したもんないじゃねえか。諦めてさっさと帰……」

「ってことは、壁を調べるしかないのよね。うーん、仕掛けるならもっと分かりやすいギミックを仕掛けておいて欲しかったんだけど」

「いやギミックとかねえだろ!何でそんなあることが分かってるかのような口振りなんだよ!」

「助手!スコップを出して!片っ端から調べるわよ!」

「一体いつオレがおまえの助手になったんだよ!っつーか、スコップなんか持ってねえよ!」


そこで登場したのが、出発前に準備していた甲賀のビニールで巻かれたスコップだった。まるで執刀医にメスを渡す助手のように神妙な顔つきをしてスコップを渡している。

受け取った仁沙の方も何になりきっているのかは不明だが、キメ顔で頷いて、目の前の壁を下からコンコンと叩き始めた。当然石なので崩れることもないし固い音を鳴らすばかりだ。

甲賀は甲賀でスマホでライトを当てながら、壁に異変がないかを探っている。遺跡に来る前からずっとスマホを弄っているからか、すでに電池が切れそうみたいでバッテリーを装着していた。


「なー、帰ろうぜー……」

「ちょっと!八郎太もモタモタしてないで早く調べてよ!まだ閉まるまで時間はあるって言っても、来たのが午後からなんだから余裕がすごくあるわけでもないんだからね!」

「そうそう!俺もバッテリーあと3つあるけど、それ入れても数時間しか持たないんだからな!」

「お、おう……」


何でここまで興味なさげにしてたのにオレも調べるの前提なんだ、とか、日帰りで遊びに来たにしてはバッテリー持ち過ぎじゃねえのか、とか、数時間もいる予定なのか、とか色々言いたいことはあったものの、それら全てを口に出せない雰囲気を2人は醸し出していた。

仕方ないので、2人が調べている場所とは別の場所にふらふらと歩いていく。どうせ調べても何も出ないとは思ったが、何にせよ同じ場所ばかり見ていても仕方ない。それに、2人が一緒だと真剣に調べろとうるさそうだ。


「……んー?」


先ほど見つけた曲がり道のうちの1つを曲がってそのまま壁にぶち当たるまで進んで行こうとすると、目の前に白い影が見えた。

まだオレ達以外に人がいたのか。さっきの老夫婦といい、物好きも結構いるんだな。

もしかしてここは考古学マニアや観光客にとってちょっと有名な場所にでもなっているのだろうか。まあ、2組じゃあ有名な場所って言いきれるほどではないか。

その人影は体がうっすらと透けている気がした。しかも輪郭しかなぜか見えず、こちらを向いたような雰囲気は分かるのに、どんな顔をしているのかも、どんな服を着ているのかも理解できない。


「ー……」


人影の顔の口元が突如見えるようになった。何かを言いたげに口を開いたかと思うと、ゆるく笑みの形に歪める。

そのまま滑るように移動すると、まるで石壁に溶けるように消えてしまった。


「……は?」


慌てて石壁に近付き、右中指の腱で叩いても何ら違いは分からなかった。他と同じでやはり固い石壁で、とても通り抜けができるとは思えない。

ということは……。


「お、おいちょっと!」

「何何何!?隠し部屋への入口でも見つけたの!?」

「違う!ゆ、ゆゆゆ幽霊がいたんだよ!幽霊!!」

「幽霊ー??」


夢でも見たのではないかと疑ったような目を向ける。

現実世界でゲームのダンジョンのような仕掛けがあるのは信じて疑わないくせに、幽霊がいるという話にはとうとう頭がイカれてしまったのか、という顔を向けてくるのは大変心外に思える。確かに疲れてるものの、別に脳みそも目も正常だ。


「本当にいたんだって。オレ達と同じぐらいの身長で線が細くて幸薄そうな感じだった。真っ白で口元以外は顔が分からなかったから、男か女かは分かんねえ」

「まあ、幸せいっぱいの幽霊がそもそも現世に留まってるわけないわね。で、その幽霊はどこにいたってのよ」

「こっちだこっち。おまえらとは別の場所探そうと思って移動したら、こっちの行き止まりの辺りで見かけたんだよ」

「っつーか、八郎太お前ホラー苦手だっけ?すごい顔青くして駆け込んできたけど」

「フィクションなら平気だけど、さすがに実際に目の前に現れたらビビるだろ……」


甲賀の知る限り、八郎太はホラーものもスプラッタものも問題なく見れるタイプだ。一度興味本位で、山野家全員でR-18+の映画を観てみたことがあるのだが、八郎太以外の全員が殺人シーンのあまりの残虐さに途中でリタイアしていたのだが、八郎太だけは最後まで観ていた。その他、邦画洋画問わず悪霊が出たり青白い顔の少女が襲い掛かってくる映画を観たりしているが、大体平気そうな顔で見ている。人間を生贄にする風習のある村から脱出するホラードラマを見ている時に普通に食事をしていたのはさすがに驚いた。

そんな八郎太もやっぱり本物の幽霊は怖いようだ。話を聞いている限り今まで観た映画やドラマの方がよっぽど怖いと思うのだが、フィクションとノンフィクションでだいぶ変わるのだろう。

まあでも基本はホラー耐性があるみたいで、仁沙や甲賀と一緒に向かっている時にはもう平気そうな表情をしていた。


「ここだここ」

「何もいないじゃない」

「壁に向かってすーって消えてったからな。何というか、イメージが某魔法使い映画の人間界から魔法界に移動するために駅の柱をすり抜ける、あんな感じ」

「あー、なるほどー。じゃああたしもすり抜けられるのかしら」

「いや、オレが調べたところ普通の壁だった。だからあれはやっぱり幽霊だからできる芸当なんだな」

「ふーん……。しかし幽霊がわざわざ八郎太に見えるように壁をすり抜けてみせるって、八郎太に何かを伝えたかったのかしら」

「な、何を伝えるってんだよ」


まさか一緒に死んで欲しいとか言うのか。八郎太は人に惚れられることをした覚えがない代わりに、人に恨まれるようなこともしたことはない。少なくとも八郎太の中にはそんな記憶はない。

漫画ではひどいいじめをした人間が記憶喪失になっていじめをしたことが本人の中でなくなっている、ということもあるが、記憶喪失になった覚えすらないので大丈夫なはずだ。さすがに物心つく前のことは全く覚えていないが。


「そりゃあ……この先には何かがあるわよってことじゃない?」

「……ずいぶんと親切な幽霊だな。オレそんな幽霊に親切にしてもらえる覚えもないんだけど」

「幽霊に一目惚れされたのかもねー。ほら、キリキリ探すわよ!」

「嬉しくねー……」


男か女かすら分からない幽霊に惚れられても微妙な気持ちになるしかない。仮に女だったとしても、幽霊というだけでノーセンキューだが。

八郎太の中の女幽霊のイメージは、少年漫画や青年漫画に出てくるような色気があったり顔が可愛かったりして主人公とイチャイチャウフフしているものではなく、誰かに殺されて怨念がこの世に残り、悪霊として関係ない人達をある条件下で殺しまくっているというイメージだ。なので幽霊=おっかないものという認識を持っている。

幽霊が自分自身に何かを伝えたかったというのは八郎太にはにわかには信じがたかったものの、しかしゲームでは幽霊が示した場所を調べると先に進めるようになるというのは良くあることだ。それが別に自分達とは全く関係ない幽霊だったとしても、この地自体が大事でこの地を蝕む魔物に困らされているという理由で主人公達を先に進ませるというのは良くある話だ。


「……あれ」


岩壁を調べていると、他の部分と良く比べないと分からない程度だが、かすかな出っ張りがあるのを見つけた。ちょうど先ほど幽霊がすり抜けて行く際に右手が触れていたと思われる辺りだ。

強めに押してみると、小さくカチッとスイッチが押されたような音がした。古い扇風機のオンオフ切り替えの音を少し軽めにしたような音だ。

その後地響きのような音が地下通路中に響き渡り、周り全体が大きめに揺れる。ふらついて転びそうになるほどの揺れだったが、幸い天井も壁も崩れることはなかった。


「な、ななな何だ!?地震か!?」

「……もしかして地震を起こすスイッチでも押しちまったのか?壁の外側に仕掛けられてるダイナマイト爆破スイッチ的なものを押しちまった、とか……」

「そんな物騒なもの押さないでくれよ……。死んじまうって」

「いやオレも別に押したくて押したわけでは……」


特に心中願望があるわけではない。世の中を悲観的に見ているわけでもないし、万が一希死念慮があるとしても生き埋めなんて苦しそうな死に方はごめんだ。それなら銃で脳天ぶち抜きの方がまだマシだ。

それにしても、他の観光客が帰ってしまった後で良かった。万が一この地下通路が満員になるぐらいに訪問者がいたら大パニックになっていただろう。


「……そういえば仁沙は?」

「あれ、さっきまで俺達と一緒に地響きで揺られてたと思ったのに」


いつの間にか仁沙がいなくなっていて驚いた。こんな安全と言い難い場所で1人はぐれるとは一体何を考えているんだ。

と思ったら何か慌てたような様子で、手を振りながら戻ってきた。


「八郎太、甲賀!大変よ!!」

「もう大変な事態は経験したよ……。で、おまえの言う大変なことって何なんだ?」

「さっきの地響きのせいか分からないんだけど、あっちの石壁が崩れて行き止まりじゃなくなってるの!!」

「は!?」


ということは、先ほどのスイッチは石壁を崩すスイッチだったのか。

スイッチを押すと隠し扉が開くなんて、完全にゲームのダンジョンのような作りの遺跡だ。ここを設計した人はよっぽどゲームが好きだったのか。というか、ゲームより遺跡の方が古いだろうから、ダンジョンの仕組みはこういったところから着想を得ているのか。

仁沙に促されるまま先ほど仁沙と甲賀が調べていた地点まで戻ると、確かに石壁が崩れて隠し部屋が見えていた。隠し部屋はまるで別世界であるかのように見た目が全く異なっていた。元々は茶色い石壁と地面、天井の地下道だったにも関わらず、隠し部屋から向こうは明るい黄色のタイルが敷き詰められた部屋が広がっている。光源がどこにあるかは分からないのに、この地下道よりも断然明るくまるでお昼のようなのが不思議だ。


「やっぱり隠し部屋はあったのね!ほらー、やっぱり諦めなくて良かったでしょ!」

「ガチでこんなもんがあるとか、世の中不思議なこともあるもんだなあ……」


『事実は小説より奇なり』ということなのか。まあ小説の枠内には収まっている出来事だとは思うが。それでも現実世界で起こるとは到底想像していなかった事態なので十分奇想天外なことだと思うが。

黄色いタイルの部屋は明らかに遺跡の1階よりも広く、この遺跡は隠し部屋を探してからがスタートだとでも言いたげだ。しかも奥には更に別の部屋に続く入口がある。

ただこの先にはそう簡単に進ませてくれないみたいで。

仁沙が意気揚々と黄色いタイルの部屋のちょうど真ん中辺りを通り過ぎようとした時、目の前を一瞬何かが横切った。寸でのところで立ち止まったのは動物的本能とでもいうのか。

一歩後ろに退いた後、何が横切ったのか確認するため左右に目を向けると、壁のタイルの1つに矢が刺さり、その部分からヒビが入っているのが見えた。


「……おもちゃ、じゃないよな。モロに刺さってるし」


矢が通り過ぎた地点より少し離れた地点から手を伸ばして、甲賀がぐっと力を入れて矢を引き抜く。深々と刺さっていたようで引き抜く時に先端が折れてしまった。

茶色混じりの灰色のそれは鉄なのか鋼なのかは分からないが、とにかくおもちゃじゃないことは分かる。こんなものがもし人体に刺さっていたらただじゃ済まない。


「よーし、帰るかー」

「帰るわけないでしょ!やっと面白くなってきたところなのに!」

「いやガチで殺しにかかってきてるじゃねえか!こんな危ないところにいられるか!オレは帰る!!」

「逆に死亡フラグ立ててるじゃない!良く考えましょ。こういう侵入者避けの仕掛けって、仕組みが分かってる仕掛けた側には危険じゃないもんなのよ。でないと仕掛けた人は外に出られなくなるでしょ」

「頭脳キャラみたいな顔してキメてるけど、仕掛けた側は出ることすら考えてないとか、自分でも引っかかって死んでるとか十分ありえるからな」


ダンジョンの奥でひっそり寂しく白骨死体が転がっていることなんてゲームには良くあることだ。大概1人で守っていた宝のそばで壁に書き置きを残して死んでいる。


「いや、っていうか仕掛けを解こうとかそんな好奇心を出さずにさっさと出ようぜ。目の前に命の危険があるんだから逃げ出そうぜ。死から逃げようとするのは生き物の本能だろ」

「恐怖に打ち勝たないと栄光は掴めないのよ!」

「オレにとっては割とどうでもいいよ!」


さすがに甲賀も不意に本物の矢が飛んできたことに慄いているのか、仁沙ほど進む気満々ではない。というかむしろ自分達が入ってきた方にちらちらと目線を向けていて、帰りたい気持ちが伝わってくる。

やはり冒険心は安全が保障されてこそ湧いてくるものだ。何度でも蘇るキャラクター達が痛みを引き受けてくれるからこそできるものだ。心霊スポットへの立ち入りだって、いるかいないか分からないからするのであって、絶対に悪霊に襲われると分かっていればさすがに立ち入る人はほとんどいなくなるだろう。

が、仁沙にとっては八郎太や甲賀のそんな考え方は些かリアリスト過ぎたようだ。不機嫌そうに唇を尖らせて、『じゃあいいわよ』と口を開く。


「あたし1人で行くし、2人は帰れば」

「は?あ、え??」


冷たく言ったかと思えば、部屋の奥へ駆け出した。部屋の真ん中より少し先から矢の発射地点が密集しているようで、侵入者を撃退すべく放たれていた。それをしゃがんだりジャンプしたり、あるいはスライディングしたりで避け、何事もなく次の部屋への入口付近に辿り着いていた。

当の本人は八郎太と甲賀に向けてドヤ顔で鼻息を荒くしていたものの、見ている側としては気が気でなかった。これは自分達だけ帰ったら帰ったで不安で仕方なくなるやつだ。自分達が置いていったばかりに幼馴染が命を落としたらこの先ずっと悔やみ続けるだろう。世間からの風当たりだってひどいものになる。


「……あー、もう!ちょっとそこでストップ!オレらも行くから!」

「お、おお。やっぱ俺らも行くのか」

「いや、適当なところで無理やり一緒に帰る」

「なるほど」


説得するのではなく、隙を見て拘束するか気絶させるかして、無理やり連れ帰る気満々だ。

こんな人の言うことを聞かない女相手に大人しく説得なんて方法を取っていたのが間違いだった。

『やっぱり興味あったんじゃないの』と勘違いして得意げに鼻の穴を膨らませているのが実にうっとうしい。油断した隙に絶対連れ帰るから覚悟しろ。

矢が通り過ぎていた地点に何か仕掛けがないものかと周囲を見渡してみると、矢が刺さっているのとは反対側の壁にところどころ小さな穴が空いているのを見つけた。穴から真っすぐ進んだ地点に矢が刺さっていたので間違いない。

ということはこの穴を避けていけば、少なくとも矢に刺さることはないわけか。

穴は人間が身をかがめたり跳躍すればギリギリ避けられるぐらいの幅を空けて開けられていたので、何とか慎重に進めば穴の起動上に入ることはなかった。

が、そもそも仁沙が全て発射させた影響で空になっていたようで、何も飛んでくることがなかったのがちょっと悲しかった。無駄に変なダンスを披露しただけで終わってしまった。なお仁沙はその珍妙な踊りを見て腹がよじれて涙が滲むほど大爆笑していた。

八郎太と甲賀も仁沙のそばに辿り着き、一緒に入った次の部屋もまた黄色いタイルで埋め尽くされていた。ただ今回違うところは、危ないものが飛んでくる可能性のある穴はなくなり、代わりに何かが置かれた4つの台座が用意されている。それに先ほどの部屋に比べて狭い。

台座は部屋の真ん中に1つ、それを囲うように3つ置かれている。

そして部屋の奥にはまた次の部屋への入口があったものの、今度は巨大な鉄扉によって閉ざされていた。押しても引いてもびくともしないし、耐久性も抜群だ。仁沙が試しに回し蹴りをぶつけていたが、傷1つついていなかった。


「この台座の謎を解かないと、先に進めないってパターンね」

「お前、良くこんな硬そうな扉にキックかまして澄ました顔してんな……。見てるこっちの方が痛えよ……」

「見るからに痛そうだったから渾身の力で蹴るのはやめておいたわ。まあちょっと痛いけど」


木の扉なら凹んでそうなぐらいの音がしたのに、まだ渾身の力ではなかったのか。『絶対に女やめてる……。むしろ人間やめてる……』と甲賀が身震いした。


「この台座、何なのかしら……」

「駒は見たこともんばっかだけど、台座に置かれてるボードはチェスっぽいよな」

「これを一目見ただけでチェスと分かるとは……。もしや八郎太、チェスをやったことがおあり……?」

「何でチェスやったぐらいでそんなありえないものを見る目を向けられなきゃなんねえんだよ。パチンコとか競馬じゃあるめえし」

「いや、まさかあたし達の中でチェスなんて高尚な遊びに興じる人間が現れるとは思わなくて……」

「仁沙はオセロですら厳しいもんな」

「何であんな簡単なルールも覚えきれないんだよ……」


まさか斜めで囲った時に不正を疑われるとは思っていなかった。一応最初に軽く説明はしたのだが、横と縦で囲うことしか覚えてくれていなかったようだ。

八郎太の言うように4つの台座にはそれぞれチェス盤のようなボードが置かれており、真ん中の台座を囲うように置かれている3つの台座の上のボードにはそれぞれ、老戦士の駒と悪魔の駒と水瓶を持った乙女の駒が立っている。だが真ん中のボードの上には何もなかった。


「うーん……。駒をどうにかすればいいんだろうが、どうしたものか……」

「あ、この真ん中の台座の側面に何か書いてるわ!」


確かに仁沙の言う通り、真ん中の台座の側面には白い文字で何か書かれた石版が貼り付けられており、うまいとも下手ともつかない、読みやすさ抜群の日本語で謎かけのようなものが書かれていた。


『人類に栄光を』


「……こういう謎の遺跡にある言語って、普通オレ達がぱっと読めない古代文字とかで書かれてるもんだろうとかそういうツッコミは置いておいて、書いてる意味が分からん」

「八郎太って細かい部分気にするよなー。うーん、しかし栄光かあ」


この部屋では命の危険がなさそうだと思ったからか、甲賀も楽しそうに謎解きに参加している。さっきまであんなに帰りたそうにしていたのに、現金なものだ。八郎太は今からでもすぐに帰りたい。どこに危険が潜んでいるか分からないところになど1秒もいたくない。


「それにしても、何で真ん中だけ何も置かれてないのかしら」

「逆に周りにある駒を真ん中に集結させると何か起こるかもしんねえな」


甲賀がいつの間にやら抱えてきた3種類の駒を真ん中の台座に転がしてみる。が、何も起こる気配はない。倒れていたら問題があるのかと思って立ててみたりしたのだが、やっぱりうんともすんとも言わない。

最終的に乙女の駒を横たわらせて、老戦士と悪魔が襲い掛かっているような図式を作ってみたものの変化はなかった。気のせいか、乙女の駒が甲賀を恨みがましげに見ている気はしたが。


「うーん……。この駒が関係するのは間違いないと思うんだけどなあ……」

「全部置いてるからダメとか?試しに1体ずつ置いてみるとか」

「なるほどなあ。じゃあまずは水瓶の乙女だけでいくか」


仁沙の提案を聞き、甲賀が悪魔の駒をひょいとつまみ上げる。

するとなぜだか、乙女の駒と老戦士の駒が触っていないにも関わらず独りでに自立し、お互い向かい合った。そしてそれぞれの駒がクリーム色に輝いたかと思うと、勝手に動き出す。

老戦士が剣を振りかぶったかと思うと、乙女に向かって振り下ろす。が、乙女は乙女で水瓶で剣を防ぎ、そのせいでお互いの獲物が粉々に砕けていた。

部屋中に響き渡るような音で攻防が繰り広げられた後、しばらく睨み合いが続く。が、その直後ボードが沼になったかのようにとぷんと2つの駒を飲み込み、駒は消えてしまった。


「え?……は!?あ、え!?」


仁沙も甲賀も台座の下を覗き込んだが、どこにも駒はなかった。

甲賀がボードの中に飲み込まれたのなら、ボードの中から取り出せると思ってボードを触ってみるものの、先ほど液体のようになったのが幻だったと思えるぐらいに固く、チョップを何度かかましてもヒビ1つ入る気配はなかった。


「あの駒どこに行ったんだ……?謎解きの鍵を握ってるっぽいのに、やばくね?」

「いや、ここにあるから大丈夫だぞ」


真ん中の台座ではなく、周囲の台座を見ていた八郎太が、水瓶の乙女の駒と老戦士の駒を持ち上げて仁沙と甲賀に見せる。

さっき駒を取った時1体ずつしかなかったし、今だって1体ずつしか置かれていない。持ち上げたそばから新しい駒が生えてくるわけでもなく、八郎太が持ち上げた後ボードの上には何もない状態になっている。

ということは、先ほど沈んだことによって元の位置に戻ったのか。しかも親切なことに、粉々に壊れたはずの水瓶と剣も復活した状態で。


「とりあえず、駒を2体真ん中の台座に置いたらバトルが始まることが分かったんだから、この方面で色々試してみるといいんじゃないか?幸い、壊れても元通りになるっぽいし」

「なるほどね!じゃあ次は戦士と悪魔で戦わせてみたらいいんじゃない!?さっきは相打ちっぽかったけど、今回はどうなるのかしら」


八郎太が老戦士の駒を、そして甲賀がまだ抱えていた悪魔の駒を真ん中のボードの上に置く。今度は向かい合う手間は省くために最初から向かい合った状態で立たせてみた。

先ほどと同じように駒がクリーム色に輝いたかと思うと、悪魔が右腕を後ろに引き、戦士の方に伸ばす。陶器が割れたような音を響かせ、悪魔の右腕が戦士のみぞおちの辺りを貫いた。悪魔の腕が刺さったまま戦士が力なくこうべを垂れ、声は聞こえなかったが悪魔が高笑いを始めた辺りで駒2体がボードに沈んだ。


「……戦士弱くね?さっき水瓶の乙女にも負けてたし」

「まあ……もう年寄りだし前線は退いてるんだろ。じいさんに戦わせるなって話じゃないかな

ー」

「可憐なる女性を化け物と戦わせるのもどうかと思うけどな」

「さっきじいさんの剣を受け止めてたし、女は女でもかなりたくましいんだろ。いけるいける」


甲賀はちょっとフェミニスト気味な部分はあるが、八郎太はたくましい女性しか見たことがなかったので女性はか弱いものという話は全く信じていなかった。大人しい女性でも周りの人間を味方につけて自分に有利になるように状況を運んでいたりと、強かな面があるのだ。それに身近にいるのはおおよそ儚さなどとは程遠い女だ。

軽い口調で悪魔と水瓶の乙女の駒を向かい合わせに並べる。表情は全く変わらないし、首だって動くわけでもないのだが、水瓶の乙女を台座に置いた時だけ不満げな顔をしているような気がするのが不思議だ。か弱き乙女を戦わせるなとでも言いたいのだろうか。先ほどの老戦士の戦いを見ている限りでは、欠片もか弱さなど感じないが。

乙女が水瓶を天に掲げるように持ち上げると水瓶から液体のようなものが流れる。その液体が悪魔の足元に到達した時、悪魔が突然苦しそうにもがき出し、蒸発するように消えてしまった。

相変わらず不満げな乙女が水瓶をおろし、しばらく跡形もなく消えてしまった悪魔を見下ろしていたものの、やがて元の場所に帰ろうとするようにボードに沈んでいった。

『水瓶の乙女に悪魔を倒させる』という行動が正解だったようで、戦車でもなければ破壊できなさそうだった大きな鉄扉が重そうな音を立てて独りでに開いた。

仁沙は扉が開いたことに喜び勇んで、意気揚々と次の部屋へと向かう。甲賀も特に警戒心もなく仁沙の後ろをついて行く。2人共先ほど遭遇した危険などすっかり忘れてしまっている。喉元を過ぎるのが早すぎではないだろうか。

次の部屋は雰囲気が一変し、黄色いタイルではなく磨き抜かれた鏡のタイル張りだった。四方八方から自分の顔が自分を見つめてくるものだから何となく気分が悪い。

ただ甲賀に関しては正統派変態の本領を発揮し、ミニスカートを履いてきている仁沙のスカートの中身を覗き込もうとしていた。が、中身が見える前に鼻にかかと落としを喰らわされており、死体と化していた。なお、スカートは何らかの見えない力でも働いているのか、さりげなく八郎太が目線を向けても見える気配はない。スカートと足が一体化にでもなっているのだろうか。


「あっ!あたしの夢に出てきた幽霊!!」


鏡張りの部屋の真ん中に、八郎太が先ほど見た白い人影がいた。まさか仁沙の夢の中にも表れていたとは。

人影は先ほどよりもはっきりと表情や輪郭が見えたものの、先ほどよりも色が薄れて今にも消えてしまいそうだ。


「ー……」


何を口にしたのかは分からないが、口を弧の形に描いて目の前からまた消えてしまった。

その代わりに透明な楕円形のケースに収められた緋色の宝石が置かれた机が出現する。

いくつもの六面体の水晶のようなものが固まってできた宝石はこの場にあってもしっくりきたのだが、それを置いている机には違和感しかなかった。何しろ、学校で生徒が使う量産型の木製の机だ。今まで現実離れしたものばかり見せられていたのにいきなり現実に引き戻された感じがしたので、温度差で火傷しそうだ。


「何だこれ……」

「あの幽霊の正体がこの宝石……だったりして……」

「机つきの……?なかなか付喪神の範囲広いな……」


オブジェクト単体に憑いている神様のイメージが強いため、こうして2種類、正確には3種類の物体が出てくると戸惑ってしまう。

一体どれが本体なのか。いや、一体どれが顔の部分でどれが体の部分に当たるのかを考えた方が正しいのか。


「きっと神様があたし達に、ここまで辿り着いた褒美としてあたし達にこの宝石をくれるのよ!きっとこれを持って帰ればあたし達は億万長者になれるんだわ」

「確かに綺麗だし本物の宝石っぽいけど……これにそんな価値があるのか?」


八郎太は宝石に詳しくないから分からないだけで、実は然るべきところに見せればすごい高値をつけてくれるものなのだろうか。

しかし、どうも八郎太にはこの宝石が億の富をもたらすものだとは思えなかった。何が問題なのかと聞かれるとはっきりとは答えられないのだが、この緋い宝石を見ていると何となく薄ら寒いものを感じるのだ。


「ひとまずこの宝石を持って帰ればいいんだな。ケースに入ってるし、このケースごと持って帰ればいいだろ」

「……でもこのケース、机に貼り付いて取れないぞ」

「マジで!?」


八郎太がケースを持ち上げようとしたところ、机ごと持ち上がってしまう。接着剤なのか不思議な力なのかは謎だが、綺麗にぴったりと学習机に貼り付いて取れない。


「うえー、勘弁してくれよ。こんな汚い学習机に貼り付いてたら、絶対買い叩かれるって」

「この机、経年劣化でボロボロになってるだけじゃなくて、何か彫られてたのを彫刻刀で消した跡みたいなのがあるよな。……えーっと、何書かれてたんだ?これ」


消されると逆に気になるため、何とか読み取ろうと八郎太が机に顔を近付けようとした時、透明ケースの蓋が横から伸びてきた手によってさっと取り外され、緋い宝石が剥き出しになる。

ケース自体は机から外れないが、ケースの蓋は外れるのか。そこは八郎太にとっても甲賀にとっても盲点だった。


「ケースが取れないなら、宝石だって持って帰ればいいじゃない!」

「あー、確かに。お前にしては冴えて……」


仁沙の手が宝石に触れると、突然宝石が赤紫色の怪しい光を放ち始めた。

赤紫色の光が部屋中の鏡に反射し、まるで赤紫色の光に包まれている気持ちになる。

いや、気持ちだけではなかったようで、目に入ってくる色が全て赤紫色になり、一緒にいる2人の輪郭の境目どころか自分の姿すら分からなくなる。

そしてその光に意識を奪われるように、目の前が暗転した。

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