7『その結果がこの熱いダージリンなんだ』

 気がつくと、息を切らせて『紅茶館ほっと』の前にいた。会社に戻ってからいつものように仕事をこなし、終わった瞬間に会社から走ってきたのだ。

 喉が乾いたから水が飲みたい。おなかがすいたからご飯が食べたい。それと同じレベルで今は猛烈に嬉野くんの淹れた紅茶が飲みたかった。

 そう思ってあたしは、吸い込まれるようにお店の中に入っていった。


「いらっしゃいませ。……三井か」


 店に入った途端、あたしは陰気な挨拶を返した嬉野くんと視線が合った。店の床をモップ掛けをしている。

 金曜日と同じで、他のお客さんはいなかった。


「………」


 あたしは何か答えようと思ったけど、言葉が出てこなかった。

 それでも、嬉野くんはそそくさとモップを収納スペースに片づけるとカウンターにあたしを座らせてお湯を沸かし始めた。


「前と同じでいいか?」


 あたしは頷いた。


「少し待ってろ」



 仕事から抜けて、他に考えることがなくなった時、『異国屋』さんの一件から抱え、一度はおさまったはずの心のわだかまりを意識した。

 客先から会社に帰った後、尾上課長と鳥谷さんは上機嫌だった。お客さんを失う危機を上手くやり過ごせたことで解放感を得たのだろう。

 

 ヘタをしたら値下げの交渉をされるところだったとか、他に乗り換えられるところだったとか、危険性をひとくさり話したかと思うと、それをどうやって沈めたか――つまりあたしの土下座の話にまで及んだ。

 あたしに土下座をさせたタイミング、思惑通りの店主さんの反応。つまり、いかに会社の損失を少なくするかしか考えていない。この人たちにはじめから謝罪の気持ちなどなかったのだ。

 

 何しろあたしに対して「ええ経験したやん」と言ってくるくらいの厚顔さだ。全く正当な『異国屋』さんのクレームも迷惑で面倒くさいものにしか映っていないのかもしれない。

 おまけに大声で話していたからか、あたしの土下座の話は昼過ぎには社内に知れ渡っていた。

 野口亜里沙などは帰ろうとロッカーで着替えている時、杵築先輩と話すふりしてわざわざあたしに聞こえるように、「あたしなら土下座なんて無様な真似するくらいなら会社やめちゃうけどなぁ」ときた。


 ふつふつと、心の奥では何か沸き立っている。でも、あたしはそれをどう外に出していいかわからない。あたしが嬉野くんの紅茶を求めている理由はきっとそのへんにある。



 蒸らしの時間を計っていた砂時計が落ち切った。嬉野くんはティーコージーを外し、紅茶をカップに注いであたしに出してくれた。

 受け取ったカップをゆっくり口には運び、さっそく一口。

 ああ、これだ。

 

 紅茶の甘さと熱が身体に行き渡っていく感覚。

 やっと気がついた。ちぃちゃんの淹れた紅茶や祥子さんがいれた紅茶に感じた足りないもの。

 それは熱だ。嬉野くんはこの紅茶を普通より熱い状態であたしに出している。


 今は夏で、身体が冷えてるわけがないのに、あたしはこの熱をずっと求めていた。

 この紅茶を一番欲していたのはどこだろう。

 この紅茶が一番沁みているのはどこだろう。

 あたしの心だ。

 あたしの心は融かしてあげなきゃいけないくらい凍えていたのだ。

 最初の再会の時にアイスティーを望むあたしに、嬉野くんは言った。


 ――今の三井にはこっちのほうがいい。

 

 この熱は嬉野くんの優しさだ。

 そう思うと、何か、じーんと込み上げてくるものがあって。

 あたしの目からはボロボロと涙が流れ始めた。


 金曜日に再会した時もそうだった。

 きっと、あたしはずっと泣きたくて泣きたくて仕方なかったんだ。

 つらくて、さびしくて、どうしようもなく情けなくて。

 でも、我慢してるうちに、心と一緒に涙も凍りついて、泣けなくなってた。

 それを、この紅茶は溶かしてくれたんだ。


 また嬉野くんにタオルを借りて顔を洗った。


「ゴメンね。紅茶飲むたび泣いてばかりで」

「謝らなくていい。泣くのは悪いことじゃない」


 とりあえず、落ち着いた後、あたしは昨日までの週末で気になっていたことを聞いてみた。


「嬉野くんは、高校3年生の時の文化祭って、憶えてる?」

「……忘れられない」


 少しいつもと様子の違う答えだった。

 いつもは1問1答だったのに、あたしがこれ以上質問を重ねないうちに次の言葉が嬉野くんの口を衝いて出てきた。

 

「喫茶店をクラスでやる予定だった。俺も紅茶を淹れる予定だった。でも、行けなくなった」


 行けなくなった、という嬉野くんの表現に引っかかって聞き返す。


「……どうして?」

「園田と早川、憶えているか?」


 聞き返されたあたしは、一生懸命、高校時代の同級生の名前を思い返す。幸い、園田くんと早川くんはあたしの記憶に残っていた。

 たしか、嬉野くんと並んで、同級生の中では不良とみなされていた二人の名前だ。こちらかは嬉野くんとは違い、間違いなく不良だった。髪も明るい色に染めてたし、授業中によく廊下に出ていたし、粗暴なふるまいも目立つ生徒だったからだ。

 そして文化祭当日の嬉野くんの喧嘩相手だった。

 

「その二人がウチのクラスの喫茶店を荒らしに来ると言っていた」

「な、何で?」

「俺が気に入らなかったから」


 嬉野くんは不良ではなかったが、よく喧嘩を吹っ掛けられては返り討ちにしていたと聞いた。園田くんと早川くんも嬉野くんに喧嘩を売って、返り討ちにあったうちの二人らしい。

 反目というのだろうか、不良は同じ不良でも同じチームでないかぎりは敵と見なす生き物らしい。喧嘩では適わないが、常に何らかの攻撃の機会はうかがっていたらしい。それが文化祭だった。


 あの時、クラスの中での嬉野くんの地位は急激に向上していた。見た目や振る舞いで損をしているが心根が悪い人じゃないと分かったせいか、だんだん彼の存在を受け入れるようになったためだ。そのことも、園田くんと早川くんには気に食わなかったのだろう。

 嬉野くんは傍目にも喫茶店を楽しみにしているように見えた。だったらそれを台無しにしてしまえばいい。2人はそう考えた。


 喫茶店が荒らされたのは嬉野くんの存在のせい、ということを明らかにすることで、上がっていた嬉野くんの株も急落する、という計算も入っていた。


「あいつらを、俺は喫茶店に近づけたくなかった」


 全ては喫茶店の成功を第一に考えた結果だったのだ。

 園田くんと早川くんの目的は、嬉野くんが喫茶店を楽しめないようにすること、そして嬉野くんのクラス内での地位を落とすことだ。

 そして、嬉野くんが第一に考えていたことが、無事に喫茶店が開かれることだった。それにはどうすればいいか、考えた結果が嬉野くんが喫茶店に参加しないことだった。

 

「でも、わざわざ喧嘩しに行くことはなかったんじゃないの?」

「俺がいなくても来るかもしれなかった。だから、こちらから出向いて潰しておくのが一番だった」


 ひょっとすると喧嘩したのは余計な行動だったかもしれない。でも、嬉野くんは二人を確実に抑える道を選んだ、ということになる。


「そう……だったんだ」


 あの時、嬉野くんに浴びせたあたしの言葉が脳裏をよぎる。苦渋の選択で、なによりあたし達の喫茶店のために参加しないことを選んだ嬉野くんにあの言葉の数々はあまりにも酷だったかもしれない。

 あたしの言葉に、嬉野くんが出て言ったのも、口下手でなにも言い返せず、かつあたしの言葉に耐えきれなかったのだ。

 

「ごめん。あの時はそんなことになってるとも知らずに責めちゃって……」

「謝らなくていい。結局原因は俺だ」


 突き詰めて言えば、吹っ掛けられた喧嘩を上手くあしらい、普段から恨みを買わないようにしていれば、何の問題もなかった。そういう意味では、嬉野くんに責任がないとは言えないけれど、この口下手で不器用な嬉野くんにそれを求めるのはかなりの無理かもしれない。



 しばらく口をつぐんだ後、嬉野くんはまた口を開いた。


「俺は悔しかった。……あの文化祭に参加できなかったのが」


 珍しく、本当に珍しく嬉野くんはあたしから質問することなく喋っている。


「初めてだったから。親以外で、人を喜ばせられたのが」


 ポツリ、ポツリと短い文節で嬉野くんが語ったところによると、昔から目つきと大柄な体で、両親以外は人を怖がらせるか、怒らせるかのどちらかしかできなかった。

 それが、文化祭で喫茶店をやることになり、あたしに言われて紅茶を淹れてみたところ、大変好評だった。自分のできることで、褒められたり、喜んでくれることが相当嬉しかったらしい。

 だから、あたしをはじめ、結果的にクラスの皆を失望させたことに関しては嬉野くんとしては相当無念だったのだ。


「だから、こうやっておの店で紅茶を淹れている」


 そう言って、嬉野くんはあたしのカップが空いたのを見計らって、お代わりを注いでくれた。


「これは俺のリトライだ」

「あの時のリトライ?」

「そうだ」

「ずっと文化祭?」

「そうだ」


 あんまり真剣な表情で答えるものだから、あたしは悪いかな、と思いながらも吹き出してしまった。


「ハハッ、ごめん……なんか、凄いね。強いね」

「やりたいからやってるだけだ」

「やりたくないことだったら?」


 やりたいことがある人はいい。いくら失敗しても好きなことだ。そのためなら、何度だって立ち上がれるのだろう。特に好きなわけじゃない仕事で嫌になれば折れるしかない。今日のあたしのように。

 だが、嬉野くんの答えはそれを許さなかった。


「そもそも悔しくならない」


 その答えに、最初に生まれたのは「それは違う」っていう拒否感だった。ただ、それをどう説明していいか分からず、言葉を探す。温くなった紅茶を口に含み、香りと苦みを味わっていると、やがて考えがまとまった。


「好きじゃないことでも悔しくなるよ」


 あたしは仕事が好きなわけじゃない。でも……あたしは仕事がうまくいかないのを悔しいと思ってる。

 だから、好きだから悔しい。そうじゃなければ悔しくならないというのは少し違うと思う。このまま仕事を辞めたとしてもずっと悔しい思いはわだかまりになって心に残ると思う。


「……だから、好きかどうかは関係ない。きっと悔しいと思ってしまったら、その悔しさとは戦うしかないんだ」


 嬉野くんは、ずっと戦ってきたんだ。淹れたかった紅茶が入れられなかった悔しさと。

 その結果がこの熱いダージリンなんだ。


 あたしは、残っていた紅茶を大事に飲み干して席を立ちあがる。


「嬉野くん、ありがとう。紅茶、美味しかったよ」

「そうか」


 お金を払って、店を出る直前、あたしは振り返って嬉野くんを見た。

 彼は、無表情のまままだあたしを真っ直ぐ見たままだ。そんな彼に、あたしは笑いかけた。あたしは、もう大丈夫だって伝えたかった。

 それが伝わったかどうかは知らない。ただ、嬉野くんもいつか見せたように不器用に笑い返してくれた気がした。


「嬉野くん」


 あたしは多分、またすぐここに来ることになると思う。

 辛いことがあってもなくても、きっとまたすぐに嬉野くんの淹れた紅茶が飲みたくなる。


「また来ていいかな?」

「待っている」


 きっとまたすぐに嬉野くんに会いたくなる。

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