8『そして、あたしも悔しさとの戦いを始めた』
あたしはずっと上手くいかないことを怖がってた。そして上手くいかないことに耐えるしかなかった。
でも違ってた。
きっとあたしに必要なのは上手くいかない悔しさと戦う意思だった。
「おはようございます!」
翌日、あたしはフロア内の全員が振り返るような大きな声であいさつをした。尾上課長も鳥谷さんもあたしが落ち込んでいると思っていたのか、一番驚いた顔をしていた。
パソコンの電源を点け、立ち上がるまでの間にタンブラーをもってコーヒーを淹れに行く。紅茶に換えようかと思ったけど、やっぱり紅茶は、あれだけ美味しいのを知ってしまうと、他のものは飲めなくなる。
給湯室には野口亜里沙と杵築センパイがいた。この二人とはよくかち合うなぁ。
「おはようございます」
挨拶すると、センパイは「おはよう」と返してくれたが、野口は何も返してこなかった。しかし、ちらりと視線を送ってきたのをあたしは見逃さなかった。
「何よ?」
「ずいぶん元気じゃない。オトコにでも慰めてもらったぁ?」
ま、あんたにはそんな器量あるわけないでしょうけど、とでも言いたげに憎たらしい笑顔を向けてきたので、あたしも精一杯の笑顔を浮かべて言い返してやった。
「まあね」
一応、事実である。
案の定、その返事は失礼なことに予想だにしなかったものであったらしく、野口の顔が驚愕に染まる。野口はともかく、杵築センパイまで同じ表情をしているのに少し傷ついたのは内緒だ。
「へえ? アンタでもひっかけられるオトコなんて、どこの馬の骨かしらぁ?」
「あらあら、馬の骨でもひっかけられるだけマシじゃない? そういうアンタはどうなのよ。金曜合コン行ったんでしょ? そうおっしゃるからには、さぞいいオトコをゲットできたんでしょうね」
おお、我ながら
そしてその嫌みは結構クリティカルなものだったらしい。野口はみるみる表情をゆがませるとマグカップの中に垂らしていたティーバッグを引き上げると、叩きつけるようにゴミ箱の中に放り込む。
「“角紅”のイケメン揃いだって聞いてたから行ったら末端の子会社! たしかにイケメンだったけど、全く気が利かない男たち! もう二度と京子の口車には乗らな……」
ここまで喋った野口は、はっ、と我に返ったらしい。慌てて笑顔を作るが、取り繕ったのがよく分かる。
「まあ、あたしとしては? 大物狙いなのよ、大物。馬の骨なんか目もくれないんだから。ア・ン・タと違ってね」
しかしいつもと様子の違うアタシに少しばかり動揺して分が悪いとみているらしく、そのセリフは捨ておいて給湯室から去って行った。
残された杵築センパイも、丸くした目で出て行った野口の姿を追い掛けていたが、姿が見えなくなったからあたしに視線をうつした。
「……なんだか昨日落ち込んでたみたいだけど、今日になって前より明るくなったみたいね。ホントにいい男でも見つけた?」
「彼氏ができたとかじゃないんですけどね。当たらずとも遠からず、と答えておきましょう」
「何それ、意味深~」
センパイも笑う。会社でこんな会話するのは初めて。こんな簡単なことだなんて、金曜日までは思ってなかった。
朝の女子コミュニケーションが比較的うまくいったのがうれしくて、鼻歌でも歌いたくなるような気分でたまっている注文書から片づけ始めた直後、どこかからあたしの名前が呼ばれた。
呼んだのはいつものように尾上課長ではなく、陣内部長だ。
「はい」と、返事をして立ちあがってみると、同じように立ち上がっている人がいる。尾上課長と鳥谷さんだ。尾上課長はともかく、鳥谷さんも同時に呼ばれるとなると、心当たりは一つしか思い浮かばなかった。
部長は同じフロアでパーティションで囲まれた小さな会議室にあたし達を招き入れた。尾上課長と鳥谷さんの顔が少し強張っているところをみると、この二人も何で呼ばれたのか分かったのだろう。
「今日呼んだのは、ちょっとした事実確認だ。昨日、『異国屋』さんから電話があってな。君達3人で先方に謝罪に言った時、店先で三井君一人に土下座をさせたというのは本当か?」
部長が『異国屋』の店長から聞いたところによると、あたし一人が土下座をしたのが、ものすごく歪に見えたらしい。直接ミスをしたことになっているのはあたしだったとはいえ、本当は一番謝らなければならないのは『異国屋』の担当である鳥谷さん、その次はその上司である尾上課長であるのが筋であるはずなのに、と。
「部長、それは『異国屋』さんの誤解です」と、切り出したのは尾上課長だ。「私たちはきちんと謝罪をしました。ただ、直接ミスをした三井は責任を予想以上に重く感じていたようで、突然土下座を始めたんです。私たちもあれには呆然としてしまいまして……」
その抗弁には正直呆れた。『異国屋』さんではあたしに責任を押し付けて、土下座の件もあたしの独断にするつもりだ。しかしながら、とっさに考えたにしては、あたしだけ土下座をしたというシチュエーションに筋が通った説明になっているのだから性質が悪い。
鳥谷さんもそれに同意し、その流れで、部長の視線があたしに向いた。
「事実か?」
あたしは迷った。ここで事実を洗いざらい話せば、尾上課長と鳥谷さんは厳しい叱責を受けることになるだろう。ちらりと二人の表情を伺えば、何か期待を込めた視線をあたしに送っている、そして言外にここで要らないこと言えばどうなるか、という重圧も。
正直、ここで二人の言い訳に乗るのも悪くないと思っていた。全て話しても、部長ならあたしの立場を
しかし、あたしの最終判断は違った。
「事実ではありません。そもそも私のミスで、というところから違います」
あたしは金曜日に鳥谷さんから『異国屋』さんへ荷物を届けるという指示を聞いていないこと。全く何も知らされずに『異国屋』につれて行かれたこと。尾上課長から土下座の指示を受けたことを話した。
「部長、三井は自分のミスをごまかすために嘘をついています」
「鳥谷さん、それは私に指示をしたという証拠がないと断言なんてできないと思います」
反論する鳥谷さんにあたしは言葉を返した。鳥谷さんからはメールもメモももらっていない。そんな証拠など出てくるわけがないのだ。
「三井、お前、散々世話になっといて恩を仇で返すような真似をするんか!」
「どれほどお世話になっていようと間違ったことは正すべきです」
あたしは、あの土下座が本当に『異国屋』さんに対する誠意を見せるための行為なら、汚れ役に甘んじていてもよいと思っていた。だけど、結局尾上課長も、鳥谷さんも『異国屋』さんのクレームを単なる言いがかりのように言い、あたしにミスを押し付けたうえで、問題を解決するためだけに土下座をさせた。
「この不健全さはこの機会に是正すべきだと思って言いました」
「新人のくせに生意気を」
「尾上君、黙るのは君だ」
あたしを黙らせようと口を開いた課長を、陣内部長が制した。
「部長は三井の肩を持つんですか」
そこで、部長は傍らに置いていたクリアファイルから数枚のA4用紙を取り出した。クレーム対応票だ。お客様からクレームが入った場合、それを記録し、どう対応したかを書き込む欄がある。ウチのチームでは形骸化しているけれど。
「……君のチームが担当するお客様からの最近のクレームだ。特に君のチームの場合はお客様への対応に関連するクレームが非常に多い。これは自覚していたか?」
「それはクレーマーが多くなってるからですわ。細かいミスを突いて少しでも値切る方向に話を持って行こう、というわけで」
「これらをクレーマーで片づけてしまうのもアレだが、結局それでは他のチームより多い理由は説明できないだろう」
これにはさすがに返す言葉がなかったらしく課長は
「それに、最近君の三井君に対する扱いも噂になっている」
開けたオフィスの中で大声を張り上げて毎日叱責していたため、尾上課長のあたしに対する扱いは社内に知れ渡っているらしい。
「僕も、君の三井君への叱責を聞いていたことがあるが、叱るために叱っているとしか思えない理不尽さだった。三井君もよく我慢してたよ」
「……! あ、ありがとう、ございます」
不覚にもあたしは、そこで涙を流してしまった。と言っても悲しいからではない、その陣内部長の言葉を聞いて、とても安堵したから。
毎日叱責を受け続けたあたしはずっと自分のことを駄目な社員だと思っていた。理不尽だと憤りはしても、その憤りさえ間違いなんじゃないかって、ずっと噛み殺し続けてた。
でも、あたしは間違ってなかった。それを認めてくれる人がいたことが凄くうれしかった。
あたしと尾上課長、双方の言い分に決定的な証拠は上がらなかったが、第三者からの証言や、陣内部長自身の所感から、今回はあたしの言っていることの方が信憑性があると判断された。
降格、減給などの処分は行われなかったものの、尾上課長率いるあたし達のチームは当分陣内部長が直接取り仕切ることになった。チーム内に蔓延している悪しき慣習はこの際一掃する、と意気込みは有言実行された。
そして、あたしも悔しさとの戦いを始めた。
「三井君、この企画書だけど、本当にこんなに売れるか? いまいちピンとこないんだが」
「マーケティングの結果にきちんと則してますから、計算上は売れるはずです。この企画は女性向けですし、部長は男性ですから納得しがたいのはあると思います」
「……じゃあ、ちょっと他の女子にも聞いてみるか……」
「今度は品切れ? 三井、いつも言うてるやん。なんでもっと早く発注処理せえへんの。品切れになるまでに発注することだってできたん違うん?」
「お言葉ですが、品切れまで予測できませんよ。『17時まで』って書いてあるんだからそれまでに処理するのはあたしの責任ですけど、それ以外は営業担当の責任のはずです」
「……チッ、妙に口が達者になりよったなぁ」
「ふふふ、鳥谷さん達センパイ方のご指導ご鞭撻の賜物ですよ」
「まったく、この世にはロクなオトコっていないのねー」
「結構野口って白馬の王子様を夢見るタイプなんだ? そんなの好きになるかならないかの問題じゃない。なんとなく気が合えば、目付きが悪くて、超陰気で、無口で、何考えてるか分かんない人でも付き合えると思うし」
「誰のこと?」
「あたしのちょっと気になる人のことー」
「三井、アンタの趣味は分からんわ……」
あたしはあたしの正しさを少し信じ始めた。今までは、何をしても怒られたり、拒否されたりしてたからあたしに正しさなんてないと思ってた。
でも人にもよるけど、理があれば、納得してもらえるし、気が合わないと思った人でも、もう少し話してみれば以外に共感できる部分もあることが分かってきた。今ではちょっと頑張って女子会くらいには参加するようにしている。
相変わらず、夢は持てていない。あたしの道は足元にしかないのは変わらない。
それでも視野は広がったし、見えるものも増えて、やっと分かった気がする。あたしの足元にだって色々なものがあるんだって。
それもこれも、あの一杯の紅茶のおかげ。
嬉野くんが入れてくれた、紅茶のおかげ。
今日の帰りには『ほっと』に行って紅茶を飲もう。
やっぱりまだ外は暑いけれど、嬉野くんの淹れた、熱いダージリンを。
(夏に飲む熱いダージリンは 了)
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