6『心が折れる音を聞いた気がした』
いい休日だった。終わるのがとても残念で、月曜日がまた始まるのが憂鬱で。
でも、少しだけ期待していた。
何となく心の晴れた今なら、もう少し仕事だってマシなものになるんだって。
あたしは気付くべきだった。この心は晴れたんじゃなくて、少し浮いただけだということを。
そして、あたしは学んでおくべきだった。浮いた心を叩かれた時が一番痛いことを。
少し張り切って出社したあたしを、尾上課長が厳しい顔で手招きして呼んでいる。
「すぐ出かけるから準備せえ」
こんなに唐突に、しかも課長と一緒に外出とはどういうことだろう。まあ、外に出ると叱責されることも少なくなるので外出は歓迎だ。
準備と言っても来たまま出ればいいだけなので、そういうと課長は席から立ち上がり、鳥谷さんも呼んだ。
「鳥谷、行くで」
鳥谷さんも含めて三人で行くのだろうか。いつもと違った展開で、戸惑いを覚える。
あたし達が向かった先は阪神百貨店だった。この辺は百貨店が集中しており、うちの会社の営業先である店がたくさん収まっている。
その中の『異国屋』というのがあたし達の向かった店だった。ここは鳥谷さんの担当店舗で、輸入食料品店だ。インドの本格スパイスや、ロシアのキャビアの缶詰などを、日本の普通のスーパーでは手に入らない特別な食材がずらりと並べられている。
普通のスーパーでは見られないようなものばかりで、見ているだけでもかなり楽しい。そのうちの半分くらいはウチの会社から卸している商品だ。いつもは商品コードと商品名だけでしか認識していないものの実物が目の前にあると、いつもの味気ない仕事に実感がわいてきてなんだか嬉しくなる。
しかしそんな商品に視線を振ることもなく、尾上課長と鳥谷さんは店の奥に黙って進んでいった。どうも不穏な雰囲気だ。
道中も、課長も鳥谷さんも全く喋っていなかった。あまり気乗りのする話をするためにこの店にやってきたわけではないらしい。
それにしても何故あたしが一緒に来ているのか、それが気になった。
「この度は、ご迷惑をおかけしてしまい、申し訳ありませんでした」
レジに立っている、この店の経営者の方に揃って頭を下げる。あたしも事情は分からないものの、一緒に頭を下げた。
「本当に気ぃ付けて下さいよ。ウチ、結構特殊な品揃えなんで、店頭で選んで買う以外にも予約されるお客さまもいはるんですよ」
どうやら注文した商品を届けられなかったらしい。
そこであたしは思い当たった。金曜日に処理した受注伝票で『異国屋』さんのものがあった。注文された品が受注停止になっていて、代替品の発注も間に合わなかったやつだ。あれは鳥谷さんに取り次いだのだが、結局処理できなかったのだろうか。
「それに納入できへんならできへんって言ってくださいよ。持ってくるっていうから待ってたのに来ないなんてちょっと酷いんちゃいます?」
「すみませんすみません。ちゃんと土曜日の朝に直接こちらにお持ちするように、と、こちらの三井に指示しておいたんですが、どうやら指示されたんを忘れてしまったようで」
……え?
「ちょっと最近多忙で疲れ気味やったもんで、うっかり忘れてしもうたのだと思います」
この時、話が見えたのに、どうしてあたしはここで声を上げなかったのだろう。
金曜日、あたしが商品が注文できない問題でお客さんへの対応を鳥谷さんに変わってもらった時、鳥谷さんはあたしが仕入れ先から直接『異国屋』さんに商品を持っていく、という約束で勘弁してもらったらしい。
そうすれば注文がその日の発注時間が過ぎていても、運送のステップを飛ばせるので注文通りの日に届けられるというわけだ。
だけど、あたしはもちろんそんな指示はされていない。おそらく鳥谷さんがし忘れたのだろう。
月曜日の今日になって鳥谷さんは『異国屋』さんからクレームがあったのか、あたしに指示をし忘れていたのを知った。
そして相談の末、あたしに指示を出したが、あたしが指示をすっぽかしたことにしようとしたのだろう。
黙ってあたしをここに連れてきたのは、お客さんを前に抗議しにくい空気を作ろうとしたからだ。
「それでも、もう一度同じことをしない保証はないでしょうに、あまり御社が信用できないようでしたら、他所を探さななりません」
「滅相もない! 今回のはほんのうっかりです。本人は非常に反省しています」
口を挟んで話を壊さないまでも、あたしはずっと茫然と鳥谷さんと店主さんの話を聞いていた。
そこで尾上課長が、店主さんの注意が鳥谷さんに向いている間にあたしに囁(ささや)きかけた。
「おい、何ぼうっとしてんのや。誠意込めた態度できへんのか」
「え、でも……」
どうすれば、と問おうとしたあたしに、話の分からんヤツだと言わんばかりに具体的に指示を出した。
「――土下座、や」
その一言は、あたしの思考を完全に停止させるのには十分すぎる威力を持っていた。
「はよ……はよやれ」
その声に押されるように、あたしは小刻みに震え、地面を踏んでいる感触のない足を動かし、鳥谷さんの隣、店主さんの前へと移動する。
そして、その場に膝と両手をついた。店主さんの顔を見上げ、しっかり目があったのを確認すると、そのまま床まで頭を下げて言った。
「申し訳……ございませんでした……!」
全身が小刻みに震えている。
胸の中は沸騰している。でも、あたしはそれが外に出ないように必死で抑えている。
悔しい、悲しい、空しい。
泣きたい、叫びたい、怒りたい。
あまりにも強い感情がたくさん湧きすぎていて、あたしは今、どんな顔をしているか全然わからなかった。
ただ、とんでもなく醜くなっている気がして、あたしは頭を下げたまま上げられない。
「おい、聞いてんのか。もうええって仰ってはるやろ」
しばらく顔を上げられずにいると、課長に首根っこを掴まれ、起こされた。
「まあ、十分反省もしているようですし。実害もなかったから今回はもうええですわ。ただし次やったら遠慮なく切りますよ」
「……ありがとうございます。肝に銘じます」
首根っこを押さえられたまま、もう一度お辞儀させられる。
人形のような扱いを受けて、腰を折り曲げるのと同時に――
――やめよう。
――もう、いいや。
あたしは、あたしの心が折れる音を聞いた気がした。
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