3『この娘の庇護欲のくすぐり具合は半端じゃない』

 翌朝、起きたのは午前十時。妙にすっきりした目覚めだった。土曜日とはいえ、いつもはもっと体と目蓋が重いのに、すっと身体を起こせたのは久しぶりだ。

 カーテンを開けると、南向きの8畳のワンルームに日光が満たされる。窓は開けてないけど、日光と一緒にうるさい蝉の声も大きくなった気がした。

 

「うーん、今日も暑そうねー。……今日はどうしようかな」


 あたしは趣味とかはあんまり持ってない。買い物もたまにやると楽しいけれど、休日ごとにするほどでもないし、流石になりたて社会人の財布にそんな生活が耐えられるはずもない。

 いつもならもうひと眠りと行きたいところだが、今はベッドに入るのがもったいないくらい体の調子が良かった。

 

 直ぐに昼食の時間になるので、朝食は簡単にヨーグルト&シリアルで済ませることにした。これが結構手軽で美味しいのだ。砂糖をコーティングされたフロストタイプのシリアルだからヨーグルトと併せて丁度いい。

 飲み物は少し考えて、棚の奥にしまってあったリプトンのティーバッグを引っ張り出してミルクティを淹れてみた。ところがこれが大しておいしくなかった。寝汗をかいた朝なのだから素直に冷たいものにしておけばよかったと後悔する。

 味も、昨日の紅茶とは雲泥の差だった。


 いい天気だから、洗濯も済ませると、もう昼近い。冷蔵庫を見ても見事に空っぽだった。しょうがない、と自分に言い訳して自炊をあきらめ外に出た。



 あたしが向かったのは天王寺だ。駅からはちょっと離れているけど、一軒家の並ぶ住宅街。その一角を陣取るように一軒のケーキ屋さんがある。そこがちぃちゃん、千原綾の働く職場だった。

 今までここに来たことはなかった。来てもちぃちゃんと話せるとは思ってなかったし、彼女の邪魔をするわけにもいかない。でも話せないのに、ただお客としてケーキを食べてお茶を飲んで帰るというのも空しかったからだ。

 今日来たのは、単純に彼女の顔が見たかったのだ。本人としては、知り合いが席にいるというだけでも余計なプレッシャーになるかもしれないが、そのくらいは我慢してもらおう。


 そのケーキ屋はY字路の一角、三角形の土地に建築されていた。真っ白な洋風建築で、天使が生クリームを絞る器具で天国の雲を絞り出すデザインのウェルカムボードに書かれた店の名前は『Cake & Cafe あるてな』と書かれていた。

 扉をくぐると、ガランガランとチャイムが鳴り、すぐに店員さんが降りてきた。

 

「いらっしゃいませー! お待たせしました――って、かえでやん!」

「へへ。来ちゃった」

「久しぶり~。今、席案内するなぁ。ご新規さま一名ご案内しまーす!」


 ちぃちゃんは相変わらずの元気ぶりだ。小さい体で元気いっぱいに動きまわるので、学生時代もクラスやゼミのマスコット的存在だった。



 あたしは2階の席に案内された。店内もやっぱり白を基調にした、さっぱりとした空間だ。天井は高く、電灯の上では大きなシーリングファンが空気をかき混ぜている。

 通された席のそばには大きなデッキがあった。外にもテーブルとイスは置かれているが、そこに当たる日光は強すぎるらしく、誰も今は座っていない。聞けば階下にも屋外の席があるらしい。

 デッキへの出入り口にもなる大きな窓から見えるのは、あいにく住宅ばかりだけれど、すぐ外に植わっている蝉の大合唱の中で鮮やかな緑色をした葉桜が風に吹かれて揺れている。


 あたしを席に座らせたちぃちゃんは、すぐにメニューを持ってきた。


「ここってランチもやってるのよね?」

「全部ケーキやけどね」


 この店の売りはケーキの種類の多さだった。それこそ定番のデザートからごはんになるものまで食べ方も多様なのだ。


「ウチのおススメ的にはミートパイと、シーフードパイ。季節野菜とベーコンのキッシュ、かぼちゃタルト、それから……」

「いくつ食べさせる気よ。じゃあ、ミートパイと季節野菜とベーコンのキッシュにしようかしら」


 おススメと言っておいて、結局メニューの上から全部挙げて行くちぃちゃんにツッコミを入れながら、久しぶりのやり取りに心が弾むのを感じる。

 

「ハイ毎度。飲み物は何にする?」

「………紅茶にしようかしら。温かいの」

「了解。ほなチョイ待っててな。Bランチケーキセット入りまーす!」


 そう言って、ちぃちゃんは伝票をさらさらと書いてあたしの席に置くと、「ゆっくり食べてってな」と、愛嬌のあるウィンクを残し、厨房に戻って行った。


 昔のちぃちゃんは本当に目の離せない子だった。あまり自分で考えることをしない子で、あたしがいちいちチェックをしなければ、宿題やレポートの提出し忘れが当然のように発生したし、大学の時もどんな講義を取ればいいのかわからないというので相談に乗って、希望に添える講義を見つけて時間割を作ってやったものだ。

 流石に就職までは一緒にできないことは分かっていたので、どうしたものかと思っていたら、「パティシエになる」と宣言し、早々と専門学校への入学とこの店へのバイトを決めてしまった。

 少ししか見ていないが、きちんと仕事はできているようだ。安心したような、少しさびしいような。


「お待たせいたしましたー」


 満面の笑顔で、ちぃちゃんがお盆を持ってくる。注文通りのミートパイにキッシュ。それからポットに入った紅茶だった。

 そしてさらにかぼちゃタルトにメープルシロップのかかったホットケーキ、アイスカフェオレ。


 どう考えても一人分多い。

 どうしたことか聞こうとちぃちゃんを見ると、彼女はそのままあたしの向かいに座った。

 

「あ、それウチの分やからとったらあかんで」


 それ、というのは余分な一人分の事だろう。

 あたしが何を聞きたいかは分かったらしく、悪戯っぽく笑って言った。


「折角お友達来てるんやからって店長が1時間休憩くれてん。だから一緒にお昼食べよ」

「いいの……かしら」

「大丈夫。一応ランチはやってるけど、この店、あんまりお昼に人えへんから」


 本当にいいのだろうか、あたしが来たことでやっぱりお店に迷惑がかかったんじゃないだろうかと思ったけどここでおいとますることもないし、もう後の祭りみたいなものだから、今回はお言葉に甘えるとしよう。

 それにしてもこのタイミングでいきなりお休みをもらえるなんて、店長さんから相当可愛がられてるんだろう。この娘の庇護欲のくすぐり具合は半端じゃない。


「そう言えば、これって何?」


 枝豆とアスパラガスの入ったキッシュの味に感心しながらあたしが指したのは、ティーポットの上にかぶさっている布だ。たしか嬉野くんのところでも同じようなものをかぶせていた。


「ああ、ティーコージーやな。お湯入れた後でお茶っ葉蒸らすんに使うねん。結構本格的やろ? 紅茶をポットで出すとこなんてなかなかないし」

「あ、やっぱりそうなんだ。あたしも最近初めてみたしね~。……もうティーコージー外していいのかな? 嬉野くんは砂時計とか使ってたけど」

「嬉野?」


 ぽろっと出た名前に、ちぃちゃんが食いついてきた。ちぃちゃんの鈍臭さは前述のとおりだが、こういうのにはかなり敏感だ。学生時代もあたしの知らない友達の話をたくさん持っていた。


「嬉野って、アイツやんな? 高校でクラスおんなじやった目つき悪い男子。最近会うたん?」

「最近、というか昨日偶然にね。梅田で喫茶店やっててさ。紅茶ごちそうになったの。ってよく憶えてるね。あたしなんてしばらく思い出せなかったよ」

「嘘ぉ! 一番憶えてそうなもんやん。あの時一番怒ってたの楓やし」


 ……どういうことだろう?

 ミルクと砂糖を加えた紅茶をすすりながら、よほど事情が分からない顔をしていたのか、ちぃちゃんは若干あきれ顔でヒントを出してくれた。

 

「ホンマに憶えてへんの? 高校3年生の時の文化祭」


 そのキーワードを聞いて、あたしはすぐにちぃちゃんが何を言っているのか思い当った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る