2『ずっと泣くのは我慢していたはずなのに』
結局家路に着いたのは21時過ぎだった。夜は完全にふけているが、まだまだ
(何か、美味しいものでも食べていこうかしら……)
あたしは一人暮らしだ。なるべく自炊をするように心がけてはいるけど、さすがに特に今日は受けた叱責も多く、自分自身を甘やかしたくなる。
でもカロリーには気をつけないと。気分は十分ゲッソリしてるけど、体は逆にこういう形の外食が多くなって太ってきている気がする。
何にしようか、と通りに出されている看板に目移りしているうちに、入社以来ずっと繰り返してきた疑問があたしの脳裏をよぎる。
(あたしは、駄目な社員なんだろうか)
ずっと真面目にやってきた。大学では授業はキッチリ出てたし、成績も悪いほうじゃなかった。
社会人になれば、つまらない授業を聞いている時間がなくなる分、もっと自由に、いろんな事が出来るのだと思っていた。
でも、違った。社会人になってからは、無力さを思い知るばかりで、むしろ学生の頃よりもできることは少なくなった。
何をやっても何かを指摘されて怒られる。あたしだって好きで叱られているわけじゃない。怒られたことは今度は間違わないように仕事している。それでも「とろい」、「やる気あるんか」、「口答えするな」エトセトラ、エトセトラ。
それもやりたいことや将来をあまり考えず、会社に入社したツケだろうか。やる気がないと言われたり、企画書を片端からボツにされるのはそのせいかもしれない。
対照的なのは小学校から大学まで仲良しで一緒だった親友だ。
ちぃちゃんこと千原綾は、なんとパティシエになる夢を捨てきれなかったようで、今は調理師学校に通いながらお菓子屋さんで砂糖袋を担ぐ日々を送っているらしい。
学生時代はよく失敗をして泣きついてきた彼女が、決意をあたしに伝えてきたときはとても驚いた。
夢を追うのは楽しいけれど、同時に夢を追う以外の時間はとれない。泣き言を言ってくるのではないかと心配していたが、平日調理師学校に通い、土日は修行を兼ねたバイトに精を出すという毎日を精一杯こなしている。
たくましい。でも少しさびしい。
あたしはと言えば、たまたま内定をもらっただけが縁の商社の営業。
お客さんに頭を下げて、上司に怒られて。商談はお客さんの喜ばせ方よりマーケティングの結果から最も売れる品揃え。そこに夢なんて一欠片もない。
あたしは空っぽだ。
恋はもちろん、夢も、やりたいことも。
人生はよく道に例えられるけど、あたしの人生はきっと足元にしかない。うつむいた視界に入る、その範囲にしかない。
何となく、足を進めていて、あたし自身その足がどこに向かっているのかさっぱりわからない。
看板を見ていたはずが、いつの間にかうつむいて歩き、実際に足元を通り過ぎる道路を見ながら、あたしはそんな例え話が浮かんでいた。
そのとき、その視界にほうきとエプロンの裾、そして男の人の足が見えた。
「三井」
その足の持ち主が、あたしの名前を呼んだ時、あたしはハッと顔をあげた。
そこに立っていたのは、同い年くらいの男の人だった。
その男の人が、あたしを睨んでいる。
「え? な、なに? ごごめんなさい」
「謝らなくていい」
仏頂面でその男の人は、あわてて視線をそらす。
しかしあの眼光、何か初めてじゃない気がする。
「ひょっとして……
「そうだ」
嬉野くんは高校でクラスメイトだった男子だ。体が大きく、目つきも怖いので、怖がってあまり人が近づかない生徒だった。
その怖かった子が、エプロンをして掃き掃除をしている。
嬉野くんの背後にある建物にも注意を向けてみた。
ちょっと古いけど、アンティークでかわいい感じのログハウスを意識した建物。入口に立ててある白樺の看板には、切り抜かれた板で『紅茶館ほっと』と書かれていた。
「う、嬉野くん、ここで働いているの?」
「ああ。……飲んで行くか?」
一瞬、何を言われたか分からなかった。
しばらくもう一度繰り返してくれることを望んで待つこと数秒。嬉野くんは期待通り、重々しく再び口を開いた。
「おごる」
古めかしい外見と似合って、中は木目調の小奇麗な内装だった。細かい装飾はされていないシンプルな意匠だけど、店の真ん中でカチカチ音を立てている柱時計など、明治の洋館をイメージするような小粋なアイテムがところどころにちりばめられている。
なかなかいい感じの店だ、とは思うけれど……、店員がこれじゃね。
21時という時間もあって、客はあたし1人だ。あたしをカウンター席に座らせた後、嬉野くんはカウンターの奥でやかんに湯を沸かし始めていた。よく知らないけど、瞬間湯沸かし器は使わないのだろうか。
湯が沸くのを待っている間、嬉野くんは近況を聞くでもなく、じっと私を睨んでいた。
帰りたい。
流石に怒っているのではなく、地顔だということは分かったけど、やっぱり怖い。それに気まずい。おごられておいてなんだけど、厄介なのにからまれてしまった。
お湯が沸いたらしく、嬉野くんはまた動き始めた。ポットにもともと入れてあったらしいお湯を捨て、瓶から茶葉を小さなスプーンで入れると、高いところから勢いよくお湯を注ぐ。
最後は静かに入れると、なにかファーストフードの店員の帽子のような布を被せて砂時計を置く。
嬉野くんは何も言わないけど、砂時計が落ち切るまできっととっちゃいけないものなのだろう。
また、静寂の時間がやってきてしまった。
お湯を沸かす音がなくなり、コチコチと柱時計の音だけが店内に響く。
よく考えれば、このままだと熱い紅茶を飲むことになるのよね。今は夏だ。室内はクーラーが利いていて涼しいけれど。
「あ、アイスティーじゃないんだ」
あ、つい声に出してしまった。おごってもらうのに文句なんて言えないのに。
だけど、嬉野くんは、気分を害した様子はなく、あたしを真っ直ぐ見たまま言った。
「今の三井にはこっちのほうがいい」
結局、ろくなことを話さないまま、砂時計の砂は落ち切り、嬉野くんがカップに紅茶を注ぎ、出してくれた。茶こしに残った紅茶の茶葉は、今まで見たことないほど葉が大きかった。
手に持ってみる。やっぱり熱い。
けれども、湯気と一緒にのぼってくる香りは、今までのどんな紅茶よりも良い。白い陶器のカップに琥珀色の液体たとても映えていて、自然とあたしは一口紅茶を飲んでいた。
美味しかった。
紅茶特有の上品な苦味とわずかな甘み、香り、そして紅茶の熱が、冷房で冷え始めていた身体にじんわりとしみわたっていく心地がする。
あったかいお茶っていいなぁ。
凄く気持ちが落ち着くし、なんか優しい感じ。
淹れてくれたのは無愛想な嬉野くんだけど、別に下心があるわけじゃないみたいだし(不覚なことに室内に男性と二人きりになるという状況を全く警戒していなかった)、純粋にあたしを心配して淹れてくれたんだと素直に思える。
「あ…」
ありがとう、と言い掛けた。だけど、声は出なかった。
喉から先に声が出ない。
声は、
「あれ……? ごめ、あれ……?」
慌てて取り繕おうと、涙を指でふき取ったけど、後から後から涙は湧き出してくる。
ごめん、と声にならない声で嬉野くんに断るとあたしは、テーブルに突っ伏す。
どうして今さら泣いてしまったんだろう。
ずっと泣くのは我慢していたはずなのに。
ひとしきり泣いた後、あたしはゆっくり顔を上げた。すると、嬉野くんがすっとタオルを差しだしてくれた。
「トイレなら、奥に行って左にある」
顔を洗いに行け、ということか。確かに泣きはらした後だから、酷い顔になってることは否定できないのでお言葉に甘えることにする。それにしてももう少し分かりやすい言い方ができないのだろうか。
「ありがと」
「ん」
顔を洗って、席に戻ると、あたしは借りたタオルを嬉野くんに返した。嬉野くんも特に表情を変えずに受け取る。
それにしても、嬉野くんは、女が一人泣いてるのに少しも動揺したところがない。ひょっとしてこういうことはよくあるのだろうか。
尋ねてみると、「ない」と一言だけ返ってきた。
「ここ、嬉野くんの店?」
「親の」
「学校卒業してからすぐ働き始めたの?」
「一応、大学は行った」
「何学部?」
「経営学部」
「お客さん、結構いるの?」
「昼間は」
目の前で泣いてしまった気まずさを塗りつぶすように、カウンター越しに食器洗いをしている嬉野くんに思いついた質問を投げかけてみたけれど、会話にならない。一問一答。これ以上の言葉が彼からは返ってこないのだ。
昔から、こうだっただろうか。というか、そもそも接点がなかったはずなのにどうしてあたしの事を覚えていたのだろう。あたしは声をかけられなきゃ嬉野くんだって気付かなかった。
「嬉野くん……って、何であたしの事、憶えてたの?」
「分からない」
明快な答えだった。そういえば、あたしは高校のころずっとクラス委員長をやっていたからかもしれない。HRでは教壇に立ってクラスメイトを仕切っていたのだから、それはこの上なく目立っていただろう。
「そう……」
十分に冷めた紅茶をぐい、と飲み干す。そして、ポットからもう一杯注ぐ。ポットで飲む紅茶は軽く2杯分はあり、飲むのに時間がかかる。
どうやら嬉野くんは顔ほど怖いことを考えている人ではないらしいし、黙っていても気まずさを感じる人でもないから、交わす言葉がないことに焦りを感じることはなくなった。
でも、この一杯の間にもう少し話しておこうと思ったのは、一旦泣いたおかげで心が軽くなったからかもしれない。
「あのさ、奢ってもらうだけってのも何だし、あたしに聞きたいことない? なんでも答えるよ?」
嬉野くんは数秒間あたしを見つめたまま(どうやら彼は視線を外すという行動をとらないらしい)、黙って考えると、尋ねた。
「どうだった?」
「え?」
「紅茶」
まともな受け答えを彼に期待したあたしが悪かった。
でも、少しほっとした。『何で泣いてたのか』と、聞いてほしかった。そして何もかも吐きだしたかった。奢ってもらうお礼として愚痴を聞かせるなんて、と嬉野くんに質問を促してからの数秒間で後悔していたのだ。
だから、あたしは少し清々しい気持ちで言った。
「うん、とっても美味しかったよ」
「そうか」
返ってきた返事はそっけない。
だが、いつもの仏頂面で、睨んだような目を少しだけ細めて、嬉野くんは続けて言った。
「よかった」
その笑顔になりきらない表情は、あたしの脳裏に焼きつくことになる。
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