夏に飲む熱いダージリンは

@sou_sitaku

1『こんなに無力だとは思わなかった』

 期待なんてしていなかった。

 この就職難の時代だ。手当たり次第にエントリーシートと履歴書を送って、ブラックリストに載っていない企業から内定が出たというだけで御の字だ。

 だから、新しい世界が待ってるとか、素敵な恋が始まるとか、みんなから称賛を浴びるような活躍をするとか、そんな期待は社会人生活には本当にしてなかった。

 

 ただ、自分の力が社会に対して、こんなに無力だとは思わなかった。



「こんな企画書通せるか!」


 洒落っ気といえば申し訳程度に観葉植物があるくらいのオフィス、電話の呼び出し音が絶えない中、それを上塗りするような怒鳴り声が響く。

 バサッと叩きつけられた書類が視界中に広がるのをぼんやりと見やりながら、あたしは心が沈んでいくのを感じていた。


「あの、何が……」

「何がって、分からんか。ホンマにこれで儲けられると思ってるんか?」


 わずかに残った書類で机をばしばし叩きながら苛立った様子で叱責しているのは尾上おのうえ課長。あたしの上司だ。


「儲からんかったら損失分、お前が埋められるんか? 遊びとちゃうんやで?」


 原価率の計算はしているし、マーケティングの結果に基づいているので、売り上げの方も見込める企画のはず。自信はあったけど、責任が取れるかと問われると返す答えがなかった。

 ならどうしたらいいんですか、なんて聞こうものなら広すぎる額に青筋を浮かせて「それを考えるのがお前の仕事や、お前の仕事を俺にやらせるつもりか?」と返してくるのは分かってる。

 

「ともかく使われへんな」


 そう言って課長は手元に残った書類もあたしに突き返す。


「お前これで昨日四時間も残業してたんやって? よう頑張ったなぁ」

「いえ……」


 一応のねぎらいらしい課長の言葉が、床に散らばった書類を拾うあたしの頭上から掛けられた。

 いや、労いとかじゃないことは分かってるんだけど。


「それで没なんやから、無駄な四時間やったけどな」

「……すみません」


 暗に残業を付けるなと言っているのだ。昨日の定時間際に「明日の午前中までに企画書一つ作れ」と命じられたのだ、そこから作成を始めたのだから、残業は仕方のない結果だった。そんな言い訳はこの上司には通用しない。なにしろ使った時間が成果につながらなかったのだから。



 あたしは集めた書類を机に置くと、一旦席を離れて給湯室に向かった。

 コーヒースタンドで買って社内に持ち込んだタンブラーにインスタントコーヒーの粉を入れ、瞬間湯沸かし器の蛇口から熱湯を注ぐ、カップの中から漂うコーヒーの香ばしい匂いを胸一杯に吸い込むと、ゆっくりと、ゆっくりと重い息を吐いた。


「……で、清美、今日風邪引いちゃって来れないんですって」

「あらら、それはもったいない、折角の『丸紅』のイケメンをゲットするチャンスなのに~」


 笑い声とともに給湯室に入ってきたのは、同期入社の野口亜里沙のぐちありさ杵築法子きつきのりこセンパイだ。

 二人とも給湯室に入り、あたしと目が合うなりピタリと会話を止めた。亜里沙は、ピーターラビットの絵柄が入ったかわいいマグカップを右手にもってじっとあたしを不機嫌そうに眺めている。

 のんびりしてないで早くどいてよ、と視線が語っていた。

 あたしはそれが分からないふりをしてタンブラーのふたを閉めると亜里沙と綾子に軽く会釈してすれ違い、給湯室を出て行った。



 席に戻ると、パソコンをスリープモードから回復させ、事務机の書類トレイにうず高く詰まれていた注文書を処理しにかかった。「15時まで」「明日必着」「できるだけ早く!」と遠慮なく書かれたモノを選んで、先に処理をし始めた。

 さっき野口亜里沙と杵築センパイがしていたのは、多分、合コンの話だ。今日は花の金曜日だし。きっと男友達が多い野口亜里沙がコネをたどってセッティングしたのだろう。それにしたって月2回もよく開いてられるな、とは思うけど。

 入社当時に一度誘ってもらったことがあるけどそれは断ってしまった。大学時代に何度かそういう集まりに参加したことはあるけれど、恋人探しが第一の飲み会の空気は徹底的にあたしに合わなかった。第一お酒はあまり飲めない。

 今思えば、それがかなり大きな失敗だったかもしれない。それから一度も合コンには誘われないし、「亜里沙」「綾子センパイ」と、周りが下の名前で呼び合う中、あたし一人は「三井さん」だ。ランチは一緒にするけれど、生々しいオトコの話(結構えげつない)とか、あたしの知らない話ばかりなものだから、ちっとも口を挟めない。


 後もうちょっとで急ぎの注文書が片付くかな、というところで一つ問題に気付いてしまった。この注文された商品はいま受注停止になっている商品だ。

 メーカーに電話をして代替品の存在を聞くが、その商品は明日納品をするには15時までに発注を終えておかなければならない。今はもう16時だ。注文書を担当している営業に相談する。

 

鳥谷とりたにさん。『異国屋』さんの注文書にあるこの商品なんですが……」


 事情を説明すると鳥谷さんはあからさまに渋い顔をした。


「えー、なんで15時までに注文を終わらせられへんの?」

「私も、処理をするまでこの商品が受注停止になってること気付かなくて……注文書も『17時まで』というご指示でしたので」

「『17時まで』って言っても早く処理してれば、そうと分かっても間に合ったやん、ちゃう? なんでそんなギリギリにやんねん」


 午前中はずっと尾上課長に叱責を受けていたため、その間の処理が滞っていたのだ。昼休み返上で受注処理をしていたのだが、その叱責の理由はあたしにある。


「すみません……」

「一丁前に口答えなんかすんなや。お客さんにはできるだけ早く電話入れて謝っといて」


 それって担当がするんじゃ、といいかけて、「口答えするな」という言葉があたしの脳裏をよぎり、口をつぐんだ。


『夕方にそんな事を言われても困ります。こちらとしては商品が届いてなきゃ売れへんのですよ』

「申し訳ございません……」

『謝られても商品届かへんのでしょう? アンタじゃ話にならへん、鳥谷さんを出してください』


 席に戻って一番にお客さんに電話をしたが、向こうはにべもない。あたしは謝る以外に対応を思いつかなかったので気は重かったが鳥谷さんに内線を回した。


「あの、先ほどの件なのですが、お客様が『鳥谷さんを出せ』と……」

「あのくらいのことキミで処理できへんの?」

「え、でも、あたしじゃ……」


 何の権限も持っていない。勝手に何かを決めるわけにもいかないのだ。

 あたしの責任じゃないはずだ。それとも何かやりようがあるのだろうか。


「チッ、しゃあないなー。……あ、もしもし鳥谷ですー。いやホンマに申し訳ありませんねー、ご迷惑おかけしてしもて」


 本当にあたしのことを蔑んだ表情で舌うちしたのと同じ人とは思えない声色で、鳥谷さんはようやく電話に出てくれた。舌うちの音が耳に残る片方で重荷を受け渡せてほっとする。


「お疲れさまでーす」「お先ー」


 一人、また一人と同じチームの人が帰っていく中、あたしはずっと受注処理を続けていた。これでもまだマシだ。月末が近づくと売上処理がここに加わってくるのだ。

 最後に、あたしと尾上課長だけが残った。節電対策で周囲の電気は消えており、余計に残業のわびしさがつのる。


 課長も、仕事を終えたようで、茶色い皮製のカバンに筆箱などを詰め始めた。 

 どき、とあたしの鼓動が痛いくらいに大きく波打った。当然恋心からではない、単に緊張である。

 課長があたしに向かって歩いてくる。これは、あたしの背中の方向に事務所の入り口があるからだ。そして、そばを通り過ぎざまにぼそりと言った。


「残業代を多くもらおうと思ってトロトロ働いてるやないで、全く……」


 ずくん、と再びあたしの心臓が痛みを訴えた。

 ばたんと事務所の扉が閉まり、あたしが最後の一人になった瞬間、いろいろ緩みそうになる。

 

 やばい、泣きそう。

 

 あたしは、作業する手を止め、ゆっくり深呼吸をして気持ちを落ち着ける。

 熱くなった目頭にハンカチをあて、涙腺から染み出してきた水分をふき取る。平常心を取り戻したことを確認し、あたしは再び作業に没頭しはじめた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る