第5話 「愛してる」という「さよなら」


 初めてキスをしたのは、私が彼の前で初めて泣いてしまった夜だった。

 仕事でミスが重なり、くたくたに疲れて帰宅した夜。カッコイイ彼氏に甘えたくもなる。ダメなアラサー女子、私は、つい、なんにも考えずにメッセージを送る。


『今日、もう疲れちゃった…。ハグしたい…。会いたい』


 そう出来たらいいな、なんて淡い妄想で。実際、それを切望していたわけではない。否、勿論望んではいたけれど、夜の八時を回っていたし、現実にそうして欲しいと甘えたかったわけではない。ただ、『お疲れ様。次に会う時に沢山ハグしよう』とか、そんな返信でよかったのだ。十分、私は満たされたはずだ。

 けれど、実際に返ってきたメッセージに、私はつい「えっ!」と声を上げてしまう。


『十時半になっちゃうから、眠たかったら寝てていいよ』


 あまりにも現実味を帯びている返答に、慌てて電話をかけた。


「あ、お疲れ様」

「今!何処ッ?!」

「今?駅の……あ、電車来た」

「乗らなくていいよっ!」

「え?」


 きょとん、とした顔が窺えるような声だった。


「………ハグして欲しいんでしょ?」

「……それは……、そうだけど…」

「行くよ」

「いいよ……。明日も大学あるでしょ…」

「行くから」


 待っててね。あ、寝てても良いからね。

 優しく囁くような声で、電話は切れた。電車に乗るから、と声がした気がする。ああ、とんでもないことをしてしまった、と思った。申し訳無くて、泣き出しそうだった。

 それでもインターフォンの音がして、玄関に立つ彼の姿を見た時、嬉しくって、結局、泣いてしまった。

 そんな私に、彼はそっと体を引き寄せて包み込み、優しく口付けした。

 今思えば、彼は、恐ろしい程自然に、私の欲しいものを適切なタイミングで簡単に与えてくれたーーーー…。


(……ねぇ、いつか、息の仕方を忘れてしまうんじゃないの……?)


 愛してるよ、なんて囁いてくれるようになった。

 当たり前のように身体を重ねるようになった。

 それは、傍見には愛を着実に育んでいるようで、しかしそれ程に確実に、違和感を浮き彫りにし始めた。


 彼はきっと、私のことを愛してはいない。


 夜を重ねる度、一緒に迎えた朝の表情の違和を隠しきれないでいた。

 それでもいい。ーーーそう、思っていた。

 彼が私を好きじゃなくても、彼が、“気遣い”で私と付き合っていたとしても、それで、いい。

 馬鹿で愚かな私は、思春期の子供みたいにそんなことを思う。私の日常にはすっかり、“彼”が必要な存在になっていた。彼が欠けてしまった世界では、もう生きていけないと、そう思っていた。

 日々、そんな風に嘘をつくように過ごし、いつの間にか、付き合い始めて一年と数ヵ月が過ぎていた。


 久々のデートの日。

 新鮮さを取り戻したくて、現地集合で待ち合わせをした。

 バッチリメイクに、普段はしない口紅。髪の毛はアイロンで巻いてみた。この日の為に、ワンピースも新調した。年齢的にギリギリかもしれない、お気に入りの可愛いパンプスを履く。

 道中、緊張で心臓が破裂しそうだった。

 気合い入れ過ぎって笑われないだろうか。変に思われないだろうか。イタくないかな。似合うって思ってくれるかな…。

 待ち合わせの時間を三十分は早く辿り着いたと言うのに、やっぱりと言うか、彼は、もうそこに立っていた。


「あれ?早いね」


 柔らかいその笑顔は、私が愛用しているハイライトよりも、眩しい。ヘアスタイルを真似させて貰った推しのアイドルよりも、尊い。

 ふわり、と香る柔軟剤の香り。同じ柔軟剤を使っていると知っているのに、何故だか彼の方だけ、いつも優しく香る。


 ああ、何もかも。

 彼の前ではまるで敵わない。


「一緒に来なかった理由が何と無く分かったよ」

「……そう?」


 待ち合わせたのは隣の県の水族館。先月新しく出来た、今かなりホットな水族館だ。私は、約束の時間に丁度間に合う電車の、一本前のものに乗った。彼に会うかもと思ったけど、結局会わなかった。彼は、そのもう一本前の電車に乗って来たのだろうか…?

 入場券を買う為に窓口へ行こうとすると、「もう買ってある」と言う。そんな気がした。財布を取り出すと、制止の手。


「後で飲み物でも奢ってよ」


 財布を仕舞うように促し、そのまま手を握る。指と指を絡めて、恋人繋ぎ。未だに、ドキドキとしてしまう。生娘か!とセルフツッコミで、なんとかその心臓を落ち着かせようと試みたが無理だった。

 順路通りに見て回り、魚が可愛いだとか、イワシの大群は美味しそうにしか見えないだとか、いちいち感想を言い合っては笑った。昼には施設内のカフェでランチをして、イルカのショーを見た。ペンギン達のエサやりタイムにも間に合った。お土産を見て、盛り上がったテンションのまま小判鮫のぬいぐるみを買う。水族館を出て、近くのカフェで紅茶を飲みながらケーキを食べる。

 模範的なデートプラン。

『よく見るカップル』の中に、きっと私達も上手く紛れ込んでいる。



(でもどうして、)



 今日が暮れ始めると、同調するように沈んでいく気分は、デートの終わりを惜しんでの事ではなかった。


「どうかした?疲れた?」


 目敏くそれに気が付いた彼は、丁寧に切ったハンバーグを口に運ぶ手を止めて、私を気遣う。


「何でもないよ。……確かに、ちょっとはしゃぎ過ぎちゃったかも。年甲斐も無く」

「年甲斐って…、まだ若いじゃん」

「アラサーだよ、アラサー」

「なりたてホカホカじゃんか。これあげるから、ほら!元気出して!」


 先程食べかけていたハンバーグを私の方へ差し向ける。私は迷い無く「あーん」を人前でやってのけてしまった。


「条件反射こわっ!」

「ははっ!良かった、元気出たみたいだ」


 夕日の茜色の光を受けても、彼の笑顔は眩しい。私は相変わらず、その笑顔に目を細めてしまう。


 私と彼。


 きっと、『お似合いのカップル』とは程遠い。

 私の何処が好き?なんて、意地悪な質問を今したら、直ぐに答えられるだろうか。ふと、そんなことを思う。


 私は、彼が好きだ。愛おしい。愛している。


 だけどそれ程に、益々、この想いが一方的なものであると気が付く。

 彼はいつもその、朗らかな表情を崩さなくて。ケンカなんてしたことが無い。私が食べたいと思うものを食べさせてくれるし、行きたいと言うところに一緒に行ってくれる。衝突するはずがなく、そんな彼に対して私はなんの不満もない。

 だからこそ、彼が『本当は何を望んでいるのか』、私は知らない。分からない。

 思ったよりずっと、彼のことを知らないままに時だけが流れていた。




 知らないふりは、もう止めよう。




 彼の寝顔を見ながら、静かに、決めた。

 小さな寝息。それに合わせて、上下する掛け布団。カーテンの隙間からこぼれる月明かりが、彼の白い肌を照らす。何処までも尊い、私の天使。神様。幸せを運んでくれる人。青い鳥。


(私が貴方に焦がれる程に、貴方はどんどん、自分を磨り減らしていくんだね……)


 愛とは何か?と、昔生きていた思想家だか誰かに問われたような気がした。

 その答えは、十人十色、人それぞれで良いと思う。


(私の場合、それは、『その人の幸せを願うこと』……)


 まるで、この心内を詩にして、歌にでも出来そうな気分だった。突然の出会いから、ありふれたラブソングは、突然の悲恋に変わる。滅茶苦茶かな。詩なんて作ったことがないから、定型的な決まりとかわからない。歌い出しはどうしようか?彼の持論、「青い鳥はペンギンのこと」は何処かに上手く盛り込みたい。難しいな。やっぱ無理かな。私に詩なんて書けないのかな…。


「ははっ…」


 静かな夜に、私の乾いた笑いが部屋の空気を震わせた。

 解放してあげよう、もう。

 この夜の後、その朝が来たら、言おう。君に、「さよなら」と。




 そして朝。


 


 私の紡いだ「さよなら」に、彼は目を丸めて、少しだけ考えて、案の定、「わかった」と言った。







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