二十日目

 日が暮れようとしていた。僕は昨日の夜からほとんど眠れず、ぶっ続けで勉強していた。

 昨日は寝ようとしても寝つけず、かといって酒を呑む気にもなれず、しかたなく勉強をすることにした。いつの間にか机に突っ伏していた仮眠以外に、昨日から睡眠をとっていない。こんなことは、大学受験の時すらなかった。

 大学院受験のために腰を据えたわけじゃない。ただ勉強することで、今僕の身の回りに起こっている問題や考えなきゃいけないことから、逃げたかったのだ。

 何も考えたくなかった。将来のことも、彼女の家のことも。


「……ッ」


 さすがに右手の指が痛くなり、僕は一旦手を止めた。朝から通算で五杯目のコーヒーを淹れに、台所へ向かう。パーコレーターのポコポコという軽快な音と香しいコーヒーの匂いも、今の僕の気持ちを晴れさせてはくれなかった。

 だが砂糖を匙で五杯入れて、味見をしたとき――彼女の顔が脳裏に浮かんだ。


(彼女も僕も甘党だから、カップだとスティックシュガーで二本以上、マグだと四本は入れるんだよな……)


 高校二年生の終わり。僕らは中学の同窓会からハブられた者同士ということで、少し離れたファミレスに行った。そこで彼女が粋がってブラックコーヒーを飲んでみせて、「うええ」って顔になったの、今でもよく覚えている。そういや僕も、それまではほとんどコーヒーは飲んだことがなくて、習慣的に飲むようになったのはあれっからだったな。

 そんなことを思い出して、少しおかしい気持ちになった時のことだった。

 スマホが震えた。彼女から『団地裏の公園で待ってる』と、メッセージが送られてきたのだ。

 僕はすぐに簡単な外着に着替え、公園へと向かった。


 外はすっかり日が沈んでいた。いつも立秋を過ぎると、日没が早くなったように感じられる。


「よー」


 全てが群青に沈む世界の中に、彼女はいた。牛の乗り物に座っていて、その手の中には、少しばかり結露した二本のビールのロング缶が握られていた。


「ん」


 彼女はそのうちの一本を僕に差し出した。僕は「あ、ありがと」と礼を言って受け取る。彼女の牛と対になっている黒い頭の鳥の乗り物に腰をかけた。


「今日は、これ一本だけな」


 彼女がそう言いながら、プルタブを開けた。プシュッという爽快な音とともに、かすかな酵母の匂いが広がる。

 僕は、どう話を振って良いやら測りかねていた。母親のことについては触れない方がいいのか。かといって他の話題に乗れる気分でもないだろうし。

 僕が黙っていると、彼女の方から話を切り出した。


「しばらく、バイト入れることにしたから。もう明日から入ってる」


 僕は「そ、そうなんだ」と、何とも間抜けな応答をした。


「あと、時間のあるときにハロワにも行ってくる」

「ハロワは……。あんまりオススメできないかな。一回ハロワの紹介でバイト入ったけれど、ブラックだったし……」

「だけど、どこだってそんなもんだろ。選り好みなんてしてらんねーよ」


 僕は彼女の進路の話を聞いていて、複雑な気持ちになった。

 それは経済的に自立しようという前向きな選択と言うよりは、現在の母親の負担を少しでも減らそうという否応なしの苦役のように思えたからだ。

 違う。彼女が、僕から離れたところへ行ってしまうことを恐れているんだ。

 なんて身勝手な、と僕は自分で自分が嫌になりそうだった。

 これまで散々背中を押してくれた彼女の足を引っ張るような考えを、僕は麦芽の香りと酔いで何とか振り払おうと、一気にビールを飲み干した。

 彼女が牛の乗り物から立ち上がった。


「……今までありがと。じゃあな」


 ――何だ、それは。

 まるで今生の別れのような表情をする彼女に僕は、ちょっと待てよ、と思った。

 だが、「うん。頑張ってね」と、余りにも月並みな言葉しか返せなかった。

 僕の手の中で空っぽのアルミ缶がつぶれて、ぎちぎちと音を立てた。


 「嘘」がバレて、彼女と離れ離れになるまで――あと十日。

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