四日目

 小学校の教室というのは、どうして独特の匂いがするのだろうか。子どもたちがいなくなってもなお、不思議なことにこの匂いは残り続けている。

 僕は、市立図書館の学習室で勉強をしていた。

 ここは元々、僕と彼女が通っていた小学校だった。だが統廃合によって廃校となり、一・二階部分がそのまま図書館として使われることとなったのだ。

 ここの図書館の学習室は穴場だった。なにせ平日はほとんど利用客がいない。夏休みなんだから小学生とかもっといてもいいはずなのだが、ガラガラなのだ。

 僕は立入禁止の校庭を眺めながら、英語の勉強をしていた。

 秋にある大学院の入試には英語が出る。大半の人文系の大学院受験者が英語が苦手であるのに例に漏れず、僕も英語は散々な出来だった。大学での8コマも無駄にある英語の授業なぞ役に立つはずもなく、僕は英語を大急ぎで復習しているのだ。


 その時突然、僕の両頬を柔らかい金髪といい香りが覆った。


 僕は思わず見上げた。


「よ」


 そこには、彼女の顔がくっつきそうなほど近くにあった。


「わっ!」


 僕は驚愕の声をあげる。あと一歩で、学級椅子から転げ落ちそうになった。


「ナニ勉強してんだ?」


 彼女が問う。

 市役所の試験を受けないことを勘付かれるのではないかと焦った僕は、慌ててこう答え返した。

 冷静に考え直せば、大学院の過去問とかじゃないし、分かるはずないのだが。


「え、英語だよ。市役所の試験でも出るから」


 僕はそうごまかすと、彼女は「ふーん」と応えた。


「懐かしいな、ここ。アタシたちが小四んときの教室だよね」

「そうだよ。ていうか一応図書館なんだから、もう少し声小さくしようよ」

「誰もいねーじゃん

「マナーは他人に見られているから守るものじゃないんだよ。自分へのケジメ」


 僕の言っていることを聞いているのか聞いていないのか、彼女はキョロキョロと顔を動かす。多動なのは今に始まったことじゃないけど。


「なあ。誰もいない教室って、変な気持ちにならない?」


 彼女の言わんとしていることは、何となくわかった。

 「変な気持ち」というのは、普段人で賑わっている場所に誰もいないと必要非常に閑散と感じる、という以上の意味が含まれている。

 子どもにとって教室というのは、「人の集団が個人の意志を呑み込む」という理不尽を経験する初めての場所となりがちだ。最初っからクラスの中心になられるようなスクールカースト上位からすればそうじゃないのかもしれいないが、僕や彼女のような日陰モノにとって教室は、「人の集団に振り回される」どうにもならない理不尽が充満した伏魔殿だ。

 そんな教室に自分ひとりだけがいると、普段支配されている側の僕が、支配する側に回ったかのような錯覚を覚えるのだ。


「うん……。セカイが僕らだけになったかのようだよね」


 僕は、鼻につくような凡庸(ぼんよう)極まりない痛いセリフで返す。


「それって、中二病ってヤツか?」


 痛いのは自覚しているのだから、傷をえぐらないで欲しい。

 ガラリ。

 教室のドアが開き、四人くらいの小学生が賑やかな雰囲気で入ってきた。他の利用者である僕らの存在を認識するなり、彼らの声のトーンは小さくなっていった。

 彼女が、僕の肩を叩く。


「じゃあな。勉強、がんばれよ」


 彼女は快活な笑顔を浮かべながら、小声でそう言った。そうして、教室の出口から去っていった。

 その応援は、棘が刺さったように僕の胸でチクチクとうずいた。


 「嘘」がバレて、彼女と離れ離れになるまで――あと二十六日。

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