第9話

 昨日の放課後で調べられなかった場所を調べようと、糸魚川は朝早く登校した。


 いつもと変わらない教室には、彼以外誰も来ていなかった。自分の席に着いて鞄を置くと、斜め前にある机にの引き出しから、白い紐のようなものが小さく揺れているに気づいた。


 いや、紐じゃない。

 光の反射で白く見えたが、近寄ってみれば、くすんだシルバーのチェーンだった。留め具は壊れて外されて、左右の長さがちぐはぐの状態ではみ出ている。引っ張ればこの先に、写真が入ったロケットがあるかもしれない。


 そのことしか考えていなかった糸魚川は、無意識に手を伸ばしていた。チェーンを掴んだその瞬間、教室の入口がガラリと開いた音がして、我に返った。


 どうして斜め前に座る奴をすぐに思い出せなかったんだろう。教室に入ってきた奴らの人が、嬉しそうな笑みを浮かべて叫んだ。


「泥棒だー!」


 声を上げた奴らが糸魚川を取り押さえるのと、生徒に引っ張られるようにして生徒指導の松田まつだが教室に入ってきたのは、不思議なことにほぼ同時だった。我に返ったときにはすでにチェーンから手を離していたから、引き出しから引っ張ることはできず、それが探していたロケットのものだったのか確認できなかった。

 クラスメイトに両側から押さえつけられた彼に、松田は酷く驚いた顔をした。


「……糸魚川? 何かの間違いじゃないのか?」

「でも松田先生、俺達が来た時に垣田の机を漁ってたんだ! 俺見たもん!」

「俺だって!」

「糸魚川、どうなんだ? 私には……お前がこんなことをするとは思えないんだが……」


 未だ信じられないといった表情をこちらに向けられる。反論しようとすると、取り押さえている奴らが糸魚川の腕を強く掴んだ。どうやら糸魚川を泥棒に仕立てたいらしい。

 すると垣田が二人の間に入ってストップをかけた。


「先生は糸魚川を買いかぶりすぎているんですよ」

「垣田……どういうことだ?」


「最近の糸魚川は放課後に校内を探索しているんです。人がいない教室を見繕って、何度も盗みに入っていたのを俺は見ました。それに名字の違う表札の家に毎日帰っているのを知っていましたか?それって学生としてどうなんですか? 家出中で泥棒、最悪の生徒ですよ!」


 他のクラスメイトも登校してくる頃を見計らって、垣田の声はどんどん大きくなっていく。廊下から様子を伺う生徒が増えてくると、彼らにも向かって垣田は法螺話を街頭演説のように撒き散らしていった。

 まるで反吐が出るようなヘイトスピーチだった。


 困惑して黙ったままの松田にひとしきり訴えると、今度は糸魚川に目を向けた。


「お前、ちゃんと家に帰ったほうがいいぞ? ……でもあんな古びた一軒家に住んでいても、誰も心配しないか!」


「――はぁ?」


 いつになく不機嫌な声を出して、垣田を睨みつけた。それでも垣田はニタニタと悪い笑みを浮かべている。糸魚川の窮地を目の当たりにして、優越感に浸っているのか、とても嬉しそうに見えた。


「なんだよ? 現に俺の机を漁っていたんだから言い逃れは――」

「家族は関係ないだろ。取り消せよ」

「え?」


 片腕の拘束を振り払って、間抜けな面をする垣田の胸倉を掴んだ。


「僕のことはまだいい、でも家族を侮辱するのだけは絶対許さない。今すぐ這いつくばって、馬鹿にしたことを取り消せ!」


 表札に自分の名前が無いことも、家族の写真が入ったペンダントを身に着けていたことも、全部二人と相談したうえで決めたことだ。親戚ならともかく、赤の他人が口出しする権利はどこにもない。自分が上に立ちたいからと他人の家庭事情を晒して荒して笑いものにして楽しむ、こんな人間に家族を馬鹿にされるのは、例え自分が退学になっても許してはおけなかった。


「やったな糸魚川、ついに本性が……」

「――そこまで!」


 取り押さえられているのを振り払い、垣田を殴り掛かる寸前で、力強い声と同時に横から腕を掴まれた。間に入ってきた長身の男子生徒は、まるで極悪人のような鋭い目つきで垣田を睨みつけている。

 教室の入り口では、艶のある黒髪を揺らし、ボストン眼鏡をかけ直して入ってきた生徒会長が、糸魚川に向かって笑いかけた。


「君はそんなことをしてはいけない。今までの努力が台無しだよ、トイくん」

「と……どろき、せんぱい……?」

「さて垣田くんとその他の生徒くんよ、朝から元気なのはいいことだけど、低血圧で鈍い人がいるから争いごとは避けようね。特に半ちゃんは重度の低血圧だから」

「は、はんちゃ……?」

「オイ垣田」


 咄嗟に垣田が呼ばれた方へ顔を向けると、長身の男子生徒改め、半井がいつになく低い声でしっかりと睨みつけていた。普段は髪も身だしなみも整っている彼しか見たことがなかったためか、ボサボサの髪と着崩した制服姿では言われるまでわからないほど、不良化していた。


「言ったよなぁ? こうなる前に相談に乗ってやるって」

「ヒィ……ッ!」

「てめぇらもさっさと離れろ。やっていることは恐喝と暴力だ。……糸魚川も、こいつらと同じになる前に冷静になれ。お前は簡単に手を上げる奴じゃない」


 半井の一言で、糸魚川を抑えつけていたクラスメイト達が離れてく。まさか生徒会が介入するほどのことになるとはと、教室の内外で大騒ぎになった。垣田や他のクラスメイト、連れてこられた松田、糸魚川ですら状況を飲み込めていない。


「轟木、半井。これはどういうことだ? 生徒会がどうして……」

「い、糸井川ぁ! 先輩を引き込むなんてずるいぞ!」

「いいえ、彼は私達に相談しに来てくれた生徒です。私達が気にかけるのも必然でしょう?」


 柔らかい口調と言葉で説明するが、眼鏡のレンズ越しから見据えるほまれの目は笑っていない。それに気づかず、垣田は声を荒げて抗議した。


「先輩たち、騙されていますよ! 糸魚川がしていることは校則違反です! 男のくせにペンダントを身に着けて、自宅にも帰らず他人の古い家に転がり込んでる! 何より、俺の机を漁っていたのを俺やこいつらは見たんです。こんな奴の味方して、生徒会の信用問題に関わりますよ!」

「なっ……!」


 垣田はこの場で完全に糸魚川を陥れ、生徒会に恥をかかせようとしているのが目に見えてわかった。


 この学校のトップである生徒会長――轟木ほまれは、突飛な演説によって今の会長の座を今まで守ってきた。その演説を垣田がより強いヘイトスピーチで制圧すれば、生徒会の支持は生徒からも教員からも無くなってしまうかもしれない。どこまで貪欲で、見苦しいだろうか。糸魚川が前に出ようとすると、ほまれが前に出た。視線は真っ直ぐ垣田に向けられている。


「垣田くん、君は学校から生徒手帳を受け取ったのかな?」

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