第2話

 何でもない日に、ただの教室のドアをノックする行為自体に緊張を覚えるのは初めてだった。


 数ヵ月前まで受験生だった糸魚川いといがわわたるは、高校入試の面接練習で何度も緊張しい自分を鍛え直し、本番では噛みこそしたが、無事に第一希望であった高校に合格した。

 楽しい高校生活が始まると心躍らせた矢先、入学して二ヵ月後にまさかこんなことになるなんて思いもしなかっただろう。


 「生徒会室」と掲げられた教室の前に立つと、途端に緊張で手が震えた。このドアの向こう側は、恐ろしい怪物の住処だとか、悪だくみをしている不良のたまり場とか、いろんな噂が次から次へと入ってくるからかもしれない。

 実際に生徒会に関わった生徒から話を聞きだそうとしても、皆だんまりを決め込んだ。「生徒の有意義な学校生活を応援します!」をモットーに活動している生徒会が、まさか脅しにかかったのかと考えたがここに入った生徒はそれ以来、清々しい笑みを浮かべて学校生活を送っている。なにかドーピングでも受けたのでは、と気味悪く思われているらしい。


 そんな魔の巣窟に自分からノックする奴は珍しいという。

 かくいう彼も、相当な変わり者だと自負していた。どうしても聞きたいことがあるから訪ねただけで、それさえ聞き出せばすぐ離れるつもりである。長居をする理由はないし、関わるような事はない。

 糸魚川は意を決してドアをノックした。緊張からか、軽く握った拳が震えた。


 コンコンコン、と鈍い音が三回響くと、中から「はーい。どーぞ、勝手に入って来てー」となんとも気の抜けた声が聞こえてくる。


「し、失礼します……」


 ゆっくりとドアを開けると、呆気を取られた。

 魔の巣窟と噂されるほどの生徒会室には事務机の他に、ボロボロのソファーとローテーブルを中心に組まれており、教室で使われている学校机は端に寄せられてドリンクコーナーと化していた。

 その中で一人、女子生徒がジャージ姿でソファーにうつ伏せの状態で本を読んでいる。生徒会室のドアは誰かの自宅と繋がっているとでもいうのか。


「んー? どうしたの? 早く入っておいでよ」


 一向に入ってこないのが気になったのか、上半身を起こしてこちらに目を向けた。腰のあたりまである黒髪はボサボサで、銀縁のボストン眼鏡の向こうで大きな瞳が不思議そうに糸魚川を見ている。着ているジャージは学校指定の三年生の学年に振り分けられた紺色の体操着で、ソファーの下には紺色のサンダルが無造作に転がっていた。


「もしかして生徒会室が怖い? 大丈夫、ここには私と半ちゃんくらいしか来ないから。気兼ねなく入っておいで」

「えっと……えぇ……?」


 おそらく先輩であろう彼女は、屈託のない笑顔で「おいでおいで」と手をひらひらと振ってくる。さっきまでの緊張感を返してほしい、糸魚川の心情は困惑していた。思わず後ろに下がると、どすん、と何かにぶつかった。よろけはしたが、肩を掴まれたおかげで転倒せずに済んだのが、唯一の救いだった。


「……邪魔なんだが」

「うおわっ!?」


 頭の上から低い声が聞こえて、思わずのけぞって驚いた。男子高校生の平均な身長の糸魚川に頭ひとつ、いやふたつも違う長身の男子生徒に見下されることは、育ち盛りの高校生であれば幾度となく経験するだろう。まさか校内でイケメンと評される三年生に見下されることになるとは、思わなかっただろうが。


はんちゃん、怖がってるよー」

「ん? ああ、悪い。怖がらせるつもりはなかったんだ」

「でも半ちゃんのおかげで中に入れたね。よかったよかった」

「だな。ここに用事があったんだろ」


 ジャージ姿の女子生徒は床を指さしながら嬉しそうに笑う。確かに糸魚川の片足は、すでに生徒会室の敷居を跨いでいた。


「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」

「え? あ、あの……」

「カフェインは苦手か。とすると緑茶……いや、ココア?」

「半ちゃん、私にもちょーだい」

「自分でやれ。……しまった、牛乳がない。ココアは無理だ」


 半ちゃんと呼ばれた男子生徒が困惑する糸魚川を中へ誘導すると、空いている椅子に強制的に座らせた。ジャージ姿の彼女にいたっては、先程と同様にうつ伏せになって読みかけの本を開いて読み始める。まるで他人の家に招かれた感覚だった。


 しばらくして目の前には、濃いオレンジの水色をした温かい紅茶が白いカップに入って差し出された。ご丁寧にスティックシュガーとスプーンまでつけてソーサーに乗せた状態は、完全にもてなされていると錯覚する。


「悪い、今は紅茶しかない。ノンカフェインだから飲めると思う」

「お、お構いなく」

「半ちゃん、わたしのはー?」

「自分で作れ。……それで、何か相談しにきたんだろ? えっと……」


「――糸魚川航くん。一年三組在籍、出席番号二番。身長一六五センチの細身体型。成績はそこそこ……ああ、化学が苦手かな。難しいよね、化学式。それ以外は目立ったところはないから…‥うん、普通のどこにでもいる生徒くん。むしろ地味だと言ってもいい。間違っているところがあったら訂正してもらっていいよ」


 寝ころびながらジャージ姿の彼女が、本から顔を上げることなく人のプロフィールを並べていく。糸魚川は未だにまともに言葉を発していないというのに。


「なんで、って顔してるね。それは私が生徒会長だから。全校生徒の顔と名前はすべて記憶しているよ。そして君はここに相談したいことがあって訪れた……ちがう?」

「そ、そうですけど……って、え!?」


 僕は思わず彼女に聞き返した。今、生徒会長って言った?


「以前は相談がある場合は目安箱を置いていたんだけど、去年くらいから悪戯が多くて止めちゃったんだよね。それから相談に来る生徒は減ったけど、来るときは来るもの。まさか私の休息タイムと鉢合わせするとは思わなかったけど。真面目そうな君がここに訪れるとしたら、授業の合間にある十分間の休憩ではなく、ある程度時間の取れる昼休みや帰りのホームルーム直後を狙う。そして放課後は必ず私が生徒会室にいると、三年の教室まで行って聞いてきたんでしょ? 怖いもの知らずだね、良い子!」


 彼女は読んでいた本をそのままにして起き上がり、淡々と喋った。ベラベラと、人の真意を見透かしたのを自慢するようにどことなく腹立たしく思わせるような口調で。

 噂は常に聞いていた。この学校の生徒会長は、良くも悪くもだと。


「改めまして、私が生徒会長の轟木ほまれ。宜しくね、トイくん」

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