第216話 終わりなき道

 頭の中はリードのことでいっぱいの潮は、おそらく甲子園の最後になるであろうこの打席で、あっさりと凡退した。

 だがそれはいいのだ。試合にさえ勝てば悔いはない。

 逆に言えば負ければ、いくらでも悔いは残る。


 三番の正志。

 今日は決定的な仕事をしていない。

 ホームランを打てば、ここでおそらく決まる。

 だが安易にそれを狙っていくべきではない。


 後続の優也と川岸を見る。

 頼りになる球友たちだ。

 一点を取るのは、任せてもいい。

 ゆったりとしたスタンスから、正志はバットを振る。

 フェンス直撃のその打球は、わずかにスタンドには届かず。

 しかしツーベースヒットとなり、得点圏のランナーとなったのであった。


 ピッチャーとしての役割の方が、重要な優也。

 だがここで一点を取れれば、試合はほぼ決まったと言える。

 しかしコントロールの荒いピッチャーを相手にすると、自分もピッチャーの本能で身を守ろうとする。

 だが、ここで一点を取れれば勝てる。その確信があるのだ。


 呼吸を止めて、ピッチャーのリリースを見つめる。

 ボールはアウトローに入ってきたが、打てなくはない。

 プロに行けばピッチャーは、ほとんど投げるだけのポジションになる。

 ましてパのチームに行けばなおさらだ。

(これが最後だ!)

 優也のその執念が、ボールをライトの奥にまで運んだ。




 ツーベースヒットで、三点目が入った。

(終わったな)

 帝都一のベンチで、松平は悟った。

 甲子園にはマモノが棲むという。

 だが松平は、その甲子園で何度も敗北してきたのだ。


 当たり前だが、最後まで負けなかった大会よりも、途中で負けた大会の方が多い。

 だから負ける試合の空気というのに、変化したのが分かるのだ。

(九回まで、もたなかったか)

 まだランナーはいる。

 ここで松平は、二年生にピッチャーを代えた。

 その方が抑えられるかどうかは、微妙なところである。

 だが監督として、次の年のことを考えて、その選択をしたのだ。


 白富東の後続に快音はなく、スリーアウトチェンジ。

 あっさりと、白富東がようやく、クリーンナップのバッティングで一点を取った。

 その事実が、松平にとっては試合の流れの全てであった。

 選手たちに対しては感情を隠し、適切な指示を下す。

 負け方も重要なのだ。

 どう負けるかによって、次のチームの始動は変わる。

 松平は諦めたが、選手たちに諦めさせるわけにはいかない。

 利己的なことだと自分でも思うが、最後まで諦めないことの重要さを、甲子園ほど教えてくれる場所はないだろう。


 マモノが現れるか。

 もし現れるとしても、それは帝都一の逆転という、劇的な展開にはならないだろう。

(おかしなことは起こらなくていい)

 松平は作戦を立てて、選手たちを送り出す。


 八回の裏は帝都一も下位打線だ。

 それを優也は三振を含む三者凡退で終わらせる。

 九回の裏は一番打者から始まるが、まだまだ優也の球数は、ようやく100球を少し超えたあたり。

 白富東の選手の顔には笑みが見えた。

 勝利を確信しているのなら、まだ足元を掬われるかもしれない。

 だが向こうのベンチからは、北村がこちらを見ていた。


 松平は軽く帽子を取って見せた。

 北村はわずかに目礼した。




 勝てる、という確信がある。

 四番のエースが打って追加点を取り、点差を広げた。

 最終回は先頭が一番の上位打線から。

 それでも下手に優也が怪我などをしない限りは、勝てると思う潮だ。

 逆にいえばそれだけが怖い。


 ここからエースを負傷させて逆転させるか。

 甲子園のマモノというのは、そんな安易な展開を許すのか。

(最後まで、悔いなく)

 優也ほどのピッチャーのボールを受けるのは、この高校三年が最後だろう。

 そう考えて、潮はリードをする。

 大学でまさか、他の大学の小川と、大学選抜としてバッテリーを組むことになるとは、予想だにしていない。


 一番バッターは、三振にしとめた。

 勝利が近づいてくる。

 二番バッターは内野フライに終わった。

 勝利が近づいてくる。

 そして三番の小此木。


 ここでホームランを打たれても、まだリードしている。

 もちろん優也は、ここで終わらせるつもりだ。

(こいつも多分、プロに来るよな)

 しなやかに動き、そして柔らかくバットをコントロールする。

 今までに対戦してきた、プロに行った選手に比べても、小此木はかなり上位の方ではと思えてくる。


 正面から勝負したい。

 優也の視線から、その意思が分かるほどに、このバッテリーは成熟していた。

 高校三年間と言うが、実際には二年と四ヶ月。

 国体を入れてもそうそう変わらない。


 潮はベンチを確認したが、北村からはノーサイン。

 ここは全てをバッテリーに任せる。




 初球のストレートを振っていった。

 だが当てるのが精一杯で、前には飛ばせない。

(ミートには自信があったんだけど)

 即戦力級と言われる優也のストレートは、小川よりは遅い。

 だが配球が複雑で、絞ることが出来ない。


 技術とパワーのバランスがいい。 

 実質ここまで勝ち上がってきたわけで、この人が去年は故障していたからこそ、白富東は甲子園に来れなかったのだ。

 二年連続の春のセンバツの優勝。

 そしてこの夏を制すれば、春夏連覇となる。


 強いチームであることは間違いない。

 だが決して完全に手が届かないチームというわけでもなかったはずだ。

(二点差はワンチャンス)

 集中して、自分が最後のランナーにならないようにする。


 打たせるカットボールも、どうにかファールにしていける。

 スライダーを振らないことと、ストレートを狙っていくこと。

 この二つを考える。

(ストライクゾーンの中に入る、フロントドアのスライダーは厳しいけど)

 呼吸を整えて、追い込まれた状態から狙っていく。


 ボール球を投げることは出来るが、無意味に外してはこないだろう。

 小此木は打ち気になっているが、それが分かっていても勝負に来る。

 クレバーなピッチングをしてくるピッチャーだが、ここは力で押してくるだろう。

 エースというのはそういうものだ。


 ついていく。

 極限まで集中した中で、投じられたのはアウトローストレート。

 踏み込んだ小此木は、力の限り引っ張った。

 打球はまさにセンター返しで、ピッチャーを襲う。

 激突を防ごうとしたグラブが、ボールを包み込む。


 弾かれたようにグラブは動いた。

 だがボールが飛び出ることはなかった。

 ピッチャーライナーだ。

 捕球した姿勢のまま、優也は右手も上げた。

 ゲームセット。

 3-1で白富東の優勝である。




 最後の打球にはひやりとさせられた。

 だが優也を襲ったボールはどこかに激突することもなく、そのままグラブの中に収まっていた。

(勝った!)

 笑顔の潮が駆け寄ってきて、腕を開く。

(だせえ真似期待すんなよ)

 そう思いながらも、優也も腕を開いて、潮と抱き合った。


 整列し、礼をして、最後の校歌が流れる。

 応援の挨拶をして、一度ベンチに戻ってはきたものの、またこれから閉会式である。

 最後の試合を、勝って終わらせた。

 その高揚感があったから、しばらくは気づかなかった。

「うがっ!」

 グラブを外すと、人差し指がパンパンに赤く腫れていた。

「脱臼か、骨折じゃないか? よく痛くなかったな」

 医師の治療を受けるにも、閉会式がある。

 別に倒れるほどの痛みでもないので、優也はそれに出席した。


 終わってから他の選手とは別に、病院へ向かう。

「折れてるし、脱臼もしたね」

 全治二ヶ月。

 利き手ではないが、左手もまた、ピッチングでは大切な部位だ。

 少なくとも腫れが引くまでは、ピッチングの練習もしない方がいい。


 優勝はしたが、全てが良かったというわけでもない。

 ここでしばしピッチングが出来なかったために、白富東はこの後に行われる国体で、あっさりと負けることになる。

 二年生以下を秋季大会に集中させていたため、三年生だけの出場となれば、それはもう仕方のない結果であった。

 

 もちろんこんな怪我があったため、ドラフトには影響することはない。

 だが最後の最後でぎりぎり、しまらない結果になってしまったのだった。


 ともあれ――。

 白富東には、真紅の大優勝旗が、再び飾られることとなったのである。

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