第213話 運だけでもなく

 この試合、まだ決定的な仕事が出来ていない。

 バッターボックスの正志はそう考える。

 野球はチームスポーツだが、やはり正志が自分の仕事と考えるのは、バッティングである。

 一点を一人で取る。

 それが出来なければ、その試合で仕事をしたとは感じられないのだ。


 この大会でも一本のホームランを打っている。

 だが北村は、ホームランにまではこだわるなと言っていた。

 重要なのは、自分のスイングで確実に打つこと。

 その過程がしっかりと出来ていれば、ホームランは自然と後からついてくるのだ。


 ただ帝都一の二人目のピッチャーは、少し厄介であった。

 サウスポーだ。

 昨今は左の強打者が多くなっているので、サウスポーの需要は増えている。

 だが白富東は今年は右の力が強い。

 しかしこのサウスポーがサイドスローに近く、そしてシンカーを使ってくるとなると、右打者にも相当に打ちにくくなる。


 逃げていくシンカー。

 サイドスローに近い角度であると、かなりストライクゾーンの判定が甘くなる。

 遅い球であるだけに、ゾーンを通ればそれだけはっきりと分かるのだ。


 シンカーを見るために、初球を見逃したのは甘かった。

 あれこそまさに、ホームランボールであったのに。

 監督の指示だったとしたら、まさに恐ろしい読みだ。

 もっとも正志が初球から狙うことは、そうそうないことなのだが。

 ここはもう少しだけ好戦的になっていいかなと、北村などは思う。

 だがそれはプロに行ってからの課題にすればいい。


 先頭打者なのだから、後ろを信じて塁に出ることを考える。

 シンカーを狙い、体は泳ぎながらも右方向へ。

 セカンドの後方へ落ちてライト前ヒット。

 まずはノーアウトのランナーとなった。


 


 なるほど。

「ああ打てばいいのか」

 センスだけなら正志以上の優也が、打席に入る。

 そしてまたシンカーを狙っていく。

 当たったボールは浮いたライトフライで、そのままキャッチアウト。

「くっそー」

 初球でアウトになった優也は、もう切り替えて次のピッチングのことを考えている。


 五番の川岸にとっては、シンカーはさほど打つのに難しいボールではない。

 だが左対左なので、自然とサイドスロー気味のボールは打ちにくい。

 食らい付いた打球はファーストのファールグラウンドへのフライ。

 簡単にアウトになってしまい、せっかくのノーアウト一塁が活かせない。


 六番の中臣。

「なんか難しく考えてない?」

 バッターボックスの中で、まずはシンカーを見逃す。

(こんな難しいボールじゃなくてさ)

 懐に入ってきたスライダー。

 金属音と共にレフト前に転がる。

「しゃあっ!」

 これでツーアウト一二塁。

 得点圏にランナーが進んだ。


 七番の久留間としては、また意外な展開である。

 内野ゴロで一点を取った時点で、自分はもうこの試合ではモブ化すると思っていたのだ。

 それがこの、内野を抜けたらまた追加点が入りそうな場面。

(何このフラグ。死ぬの? 甲子園終わっても告白する予定なんてないぞ)

 そんなことを思ったが、パンと顔を叩いて気合を入れる。


 ここでもう一点取ったら、間違いなく今日のヒーローだ。

 そして優勝へはまた一歩近づく。

 優也はさすがに一点は取られるだろうと予想していたが、上手くいけば一点で済む。

 つまり二点あれば、この試合に勝てるかもしれない。


 なんだか人生の幸運が、この試合に集まってるな、と思った久留間に、すっぽ抜けたボールが当たった。




 ツーアウト満塁。

 判断の難しい場面である。

 八番の栗林に、まともなヒットはあまり望めない。

 栗林に代打を出すとなると、深谷も一緒に代えてしまったほうがいいだろう。

 だがそこまでして代打を出すとして、あの変則的な左を誰が打てるのか。


 守備力を低下させてまで、ここで得点を狙うか。

 ワンヒットで確実に一点、それどころか二点入るかもしれない。

 だが北村は決めている。

 ここで代打は出さない。

 そして栗林に出したサインは「振るな」というものであった。

「中田、次に代打を出すかのような感じで、ちょっと素振りしとけ」

 もちろん中田を出すつもりはない。

 だがベンチからのプレッシャーを、相手のピッチャーにかけるのだ。


 自滅してもらう。

 ピッチャーを崩すために一番効果的な手段である。

 デッドボールはおそらく、シンカーのすっぽ抜けだ。

 ここまで上手く正志と優也を、打ち取った当たりにしているのだ。

 だがまた今度当ててしまえば、押し出しで一点が入る。

(ここでコントロールがつくかな?)

 こういった意地の悪い思考が出来るあたり、北村もやはり白富東の人間である。


 ツーアウト満塁から、継投するのは難しい。

 絶対的なエースでもいれば別だが、この事態で他のピッチャーなど、回ってきてもまともに投げられるだろうか。

 甲子園の決勝なのである。

 優也から三点を取るのは、帝都一でもそう簡単ではないだろう。


 ボール球が先行してツーボール。

 思わずベンチの中で、笑みがこぼれそうになる北村である。

 こういったところから崩れた場合の試合は、逆襲することがひどく難しくなるはずだ。

 ただここで動くのが、名将というものだ。

 崩れたピッチャーを引っ込めて、マウンドに送り込んだのは、それまでショートを守っていた小此木である。


 第三のピッチャーか、第四のピッチャーとしての登板実績はある。

 だがここで二年生のピッチャーを、ボール球先行から交代させるのか。

 北村には出来ない。

 白富東の選手は、そう出来るようには育てていないのだ。

 ただ今の優也にならば、任せることは出来るかもしれないが。




 二年生がこんな場面で、本当に投げられるのか。

 敵ながら心配になった北村であるが、小此木はしっかりと投げてきた。

 140km/h前後のストレートを、低めにばかり。

 緻密なコントロールではないが、ここでしっかりと低めに投げてストライクが取れる。

 それだけでも充分な度胸である。


(これは、来年のキャプテンはあいつなのかな)

 なんとなくマウンドに立つと、他の選手まで落ち着いた気がする。

 そしてツーストライクになると、もう点が入る気配が消えていた。


 最後には空振りで、スリーアウト。

 マウンドの上でガッツポーズをした小此木に、甲子園中が盛り上がる。

(うわ、まずいな)

 今のピッチングは、球場を味方につけただろう。

 帝都一は名門校で、はるか昔からの出場実績を誇る。

 関東のチームではあるが、贔屓の観客もいるだろう。

 これで流れが、向こう側にいってしまうのではないか。


 グラウンドに行く前に、優也と潮は少し話し合っている。

 北村が何か言う前に、既に対策を考えているのか。

 甲子園のマウンドに登ってきた回数を考えれば、この二人の実績はとんでもない。

 この状況から流れをまた引き寄せることが、出来るというのか。


 高校球児というのは、空気で力が変わってしまう。

 非科学的なものではなく、周囲の雰囲気によって、その集中力は変化するのだ。

 そして集中力こそ、天才と凡人を分ける大きな違い。

 ブーストされた能力で、一番バッターから優也と対決していくわけだ。




 だが、それでも抑えてしまうのだ。

 一番バッターを内野フライに、二番バッターを三振に。

 今日の優也は三振は控えめであるが、ここは奪っていく場面だ。

 だがツーアウトながら、バッターボックスには先ほどのピンチを脱した小此木。

 マウンド上の優也との間に、バチバチと火花が散る。


 ただ潮は冷静である。

 優也のエースのプライドを考えながらも、単純なパワーでの勝負は挑まない。

 ストレートで押すのは別にいい。

 だがまずはインハイに外す。

 これはボール球になったが、次はスライダー。

 やはりこれは空振りしてくれる。


 追い詰めるにしろ打たせるにしろ、チェンジアップはどうだろうか。

 そう考えたが、理屈ではなくそれはまずいな、となぜか感じた。

(理屈じゃないのは困るんだけどなあ)

 サインに優也は頷いて、カットボールを投げた。

 それを小此木は打ったが、ファールとなる。これで追い込めた。


 スライダーを振らせるのが、一番安全ではあるだろう。

 だがここで投げて振ってくるだろうか。

 う~んと考えた末に、潮はサインを出す。

 優也は頷いた。


 インローのストレート。

 厳しいこのコースを小此木は当てにいった。

 バットには当たったが、打ち取った打球。

 しかしそれがサードの後方へとポテンと落ちた。


 優也も潮も、憮然とした顔をせざるをえない。

 ここまでパーフェクトをしていただけに、しかもよりにもよって小此木の、かなり運が働いたようなポテンヒット。

 これもまた、運命の悪戯だとでも言うのだろうか。

(けれどこれで、運のいいバッターは一塁にいるだけになった)

 マウンドに近づいた潮は、優也に声をかける。

「今日の試合の強運男だね」

「俺は負けてないよな?」

「負けてないよ」

 結果が全てだが、過程も重要ではあるのだ。


 続く四番バッターは、内野の深いところに転がした。

 ここでしっかりとアウトを取れるあたり、やはり二遊間に代打を送らなくて良かったと思う北村だ。

 帝都一に傾きかけた流れは、まだ途中で止まっている。

 先の見えない試合が、まだまだ続いていく。

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