第138話 球速と球質

 優也の球速は、故障以前にまで戻ってはいない。

 だがスライダーをしっかり投げられるようになったことと、指先まで集中したリリースにより、球質はむしろアップしたかもしれない。

 これでも優也と潮は、話し合って配球を決めているのだ。


 右打者のインハイとアウトローに厳しく決められるなら、高校野球の地区予選レベルでは、ストレートだけでも通用する。

 もちろんある程度のスピードは必要だが、本当のストレートを投げられるピッチャーというのは、相当に少ないのだ。

「っし!」

 変化球の後のアウトローで、手も出させずに三振。

 スライダーを使わずに、カーブとストレートだけで組み立てている。

 とりあえず初回の裏、相手の攻撃は三者凡退で抑えた。


 ベンチに戻ると北村が、満足そうに微笑んでいる。

「これでこちらの方がやや有利かな」

 北村としては、ややどころか、かなり有利になったという感覚である。


 高校野球において、先攻と後攻、どちらが有利か。

 論理的に考えればどちらも変わらないのだが、そこに論理以外のものが働いてくる。

 それはプレッシャーなどの、精神的なものだ。

 ごく単純な話であるが、高校野球はトーナメントの一発勝負だ。

 特にこの試合のように、センバツ出場がほぼ確定するベスト4にまで進出す試合は、それだけプレッシャーも大きくなる。

 プレッシャーは全てのパフォーマンスを低下させる、分かりやすい要因だ。

 そしてそのプレッシャーをかけるための方法の一つが、先取点となる。


 リードされた試合において、勝率が変わるというのは、他の全てのデータを合わせることが出来ないため、疑似科学の統計で行うしかない。

 だがおおよそ先取点を取ってリードするというのが戦略であり、その先取点は当然ながら、先攻のチームが得られる可能性が高い。

 ならば甲府尚武の後攻を取ったのはおかしなことのはずだが、要素は色々と存在するのだ。


 初回にエースが完全に相手の打線を封じた場合、その裏の守備側にはまた違ったプレッシャーが発生する。

 あのピッチャーから点を取るのは難しいから、しっかりと守らなければいけないというプレッシャーだ。

 強力なピッチャーを見せ付けて威嚇する。それが先攻を譲った理由。

 しかしこちらも強力な、センバツ優勝ピッチャーの復活を見せて、状況を有利にする。




 なるほどそういう意図があったのか、と納得する選手たち。

 強力なエースがいるチームにしか使えない手であるが、白富東にそれを使うのはあまり良くない。

 なにしろこちらは既に、甲子園でそれよりさらに強力なエースを見ているのだから。

 それでも甲府尚武のエース仁科は、小川や毒島とは違ったタイプのピッチャーだ。

 スライダー系を自在に操るピッチャーというのは、これまで対戦していない。

 知らないということは、イコール脅威である。


 幸いにもこちらは、復活したエース優也がいる。

 連戦ではあるが昨日は散発のヒットに抑えて、球数も増えていない。

 そして相手の打線は、優也によって封じられた。

(完投させないと勝てない可能性は高いなあ)

 それだけが北村の懸念していることだが、この試合にさえ勝てば次で負けても、おそらくセンバツには道が続いている。


 勝負は終盤。それはお互いが分かっている。

 だがそれを承知の上で、中盤に仕掛けられるように、北村は布石を打っていた。

 第一打席の正志の打席。

 一球も振ることなく三振した経験を、どこまで活かすことが出来るか。

 ロースコアゲームになることは間違いない。




 ここまで完全に優也の調子を最優先に考えてきた北村であるが、この試合は基本的に最後まで任せたいと思っている。

 それはバッテリーにも伝えてある。

 優也の肩は、ほぼ完治しているのは間違いない。

 ただ問題となるのは、これまで投げてこなかった最速ストレートを、どこまで維持することが出来るか。

 甲子園で勝つためには、肝心なところはまだまだ優也に頼るしかない。

 毒島や小川クラスと投げ合うならば、完投する必要が出てくる。


 スタミナ自体は、以前よりも増しているはずだ。

 だが単純な体力と、公式戦のマウンドで消耗するスタミナは、違うはずである。

 ブルペンなどとは違い、相手がいる勝負なのだ。

 バッターがいるストライクゾーンに投げてこそ、本当の力は示されることになる。


 序盤はお互いに、ランナーを出さない勝負が続いた。

 四番を打っている優也に、五番に抜擢された川岸なども、一打席目は対応し切れなかった。

 ただし左打者の川岸は、次の打席に対する手ごたえを感じたようであったが。


 四回の表、白富東の攻撃。

 一番久留間と二番岩城は、左打者の優位を活かして、スライダーを上手くカットしていった。

 最終的には内野ゴロに終わったが、二人で15球を投げさせている。

 そして打席に入るのは、三番の正志である。


 複数のスライダーの軌道は、既に頭の中にある。

 自分の役割は、エースのウイニングショットを確実に打つこと。

 しかし仁科のスライダーは、どれを一番のものと考えればいいのか。

「そりゃあの腰を引けさせたスライダーだろう」

 北村の回答は明確だ。


 右バッターが、ぶつかると思ってしまうほどの変化量のスライダー。

 体が逃げた状態からでは、スイングして当ててもまともに打てはしない。

 せいぜいが内野の頭を越えるポテンヒットか。

 しかし正志は、あえてそれを狙っていく。


 追い込まれてからは、カットしていく。

 あのボールは下手をすればデッドボールになるだけに、仁科もあまり使いたくないのだろう。

 だからこそ正志はそれを狙う。

 スライダー全体のコントロールを乱すために、ウイニングショットを。


 狙われているのが、分かっているのだろうか。

 もしも分かっていてもそれを待つなら、もうピッチャーの底は見えると言ってもいい。

 もっとも狙ってさえ打てなかったのなら、それはもはや攻略不能の球と言えるわけだが。




 どうなるか、と両軍のベンチが見ている。

 エースの決め球を、主砲が打つかどうか。

 とても分かりやすい、試合の流れである。

 逆にここで抑えられてしまえば、やや白富東の方が不利になる。


 ヒットでいいぞ、と優也は思っていた。

 正志が塁に出たら、自分はもうストレートを狙っていく。

 初球から投げてくれば、それを全力でスタンドに放り込む。

 そこまで届かなくてもツーアウトなのだから、外野の深いところに飛ばせば、正志は帰って来れるだろう。

 そう思っていた優也の目の前で、踏み込んだ正志は右方向に、大きな打球を打った。


 打った本人が、確信する当たり。

 バットを置いた正志は、その打球の行方を見ながら、ベースランを開始する。

 内角に入ってきた背中からのスライダーを、ライト方向へ。

 なにやら難しそうな話であるが、やってみたらしっかりと出来た。

 主砲の一撃で、先制点を奪取。

 そしてこの一打が、試合の流れを大きく決めるものとなったのだった。

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