第71話 名門の愚痴
(まったくどうして勝手に決めちゃうかなあ)
神奈川の名門横浜学一の監督尾上は、ため息をつきそうになるのをこらえる。
今年の夏、横浜学一は神奈川県大会の決勝で東名大相模原に負けて、甲子園に出場することが出来なかった。
神奈川県は全国屈指の野球強豪県であり、特に横浜学一と東名大相模原は、ライバル視されることも多い。
その東名大相模原は、今年の夏の甲子園を制した。
ついでに秋の大会でも負けている。
おおよそ神奈川は強豪の乱立する県であるが、時代によって少しずつ強さには偏りが出る。
一時期は神奈川湘南に選手が集まり、数年間神奈川を席巻した。
現在はまた東名大相模原と横浜学一の二強状態となっているが、そこからすぐに抜け出そうとしてくる、有力私学もたくさんいる。
(ちょっと甲子園に出るのが続くと、変なこと言い出してめんどくさいことにするしなあ)
尾上自身はもう、30年近くも横浜学一を率いている。
ただそれでも場合によっては、一度辞職したりもした。
甲子園で名前が売れたところに、他の付加価値をつけようと学校の理事が動く。
その影響で学校の方針が変わり、選手のスカウト方針も変化。
取れるものなら取ればいいというのが、尾上の考えである。
そんな生徒の素行だの、チーム編成だのというのは、監督の決めることだ。
そこに口を出されたため、一度は辞めてしまったのだが。
神奈川湘南の強い時期の次は、尾上の育てていたチームで勝てた。
だがそれがいなくなると、東名大相模原に押されるようになってきた。
そこでまた近所の中学生に教えていた尾上を、頼み込んで監督に戻したのである。
(俺はあいつ残してたんだけどなあ)
学園側からは、特待生とセレクションの生徒で、20名までという条件がついていた。
だがそんなことは尾上の知ったことではない。必要と思える選手には全部にチェックを入れて返したのだ。
そしたら春にはその選手が、白富東にいて春の大会を投げ、一年生ながら甲子園のマウンドにまで立った。
ぶち切れた尾上は理事会に対して、この事実を突き付けた。
おかげで今年は、いいと思えた選手を全部集められそうである。
(逃した魚は、またずいぶんとでかくなった気もするが)
本日の先発は、二年の渡辺。
もし出てくるとしたら、県大会でわずかに投げた山口かと思っていた。
渡辺は一般的なピッチャーと同じスタイルだけに、特に緻密な分析などをしていない。
(ただこういったところで、勝負が決まったりするんだよなあ)
還暦を迎えてなお、野球には学ぶことばかりの尾上である。
横浜学一というチームは、その基本方針としては打撃力向上のチームである。
そしていいピッチャーがいれば甲子園に行けるし、いなければベスト4までで終わる。
そんな分かりやすいチームであるだけに、ピッチャーのスカウトはしっかりと行っているのだ。
いいピッチャーを集めているチームのセレクションに洩れた。
これがピッチャーにとってどれだけの屈辱か、ピッチャーであれば誰でも分かるだろう。
(まあおかげで白富東に来れたけどな。どうせいヨコガクに行っていれば、一年の時はスタンドだったろうし)
白富東も大きなチームになったが、三割ほどは情報班だ。
野球は好きだが、やるよりは見る方が好き。そして色々とプレイを見ては、意見という名の愚痴をこぼす。
それに対して横浜学一は、全員が気合の入った野球部員だ。
毎年20人を特待生や推薦で入学させ、さらにそこに一般入試組が入ってくる。
三年の抜けた今も、80人ほどがいるわけである。
春日部光栄は血祭りに上げた。
ここで横浜学一を倒せば、残るは一つだけである。
先発で投げられないのは残念であるが、それも全てはセンバツに出場するため。
自分の恨みは、正直あまり残っていないのだが、機会があればやってしまうのが優也である。
「出ろよ! 俺がホームランで返すからな!」
既にツーアウトになってしまっていたが、三番の正志はクリーンヒットで塁に出る。
(うち相手に二番手ピッチャーは甘く見ていると思わないでもないけど)
国立はそんな感想を抱いているが、自分たちも同じことをしている。
気合充分でバッターボックスに入る優也だが、空回りの心配はないのか。
国立はじっくりと観察しているが、どうやらピッチャーとしての負担を考えて少し下位の打線に置くより、クリーンナップに置いたほうがいいのではないか。
気分で打つし、状況に合わせたバッティングなどは出来ないので、正志の後ろの打席に置いて、長打狙いで打たせたらいいのではと思う。
気負っていてもその気負いを、力に変えてしまうのが優也のバッターとしてのタイプだ。
(チェンジアップを使ってくるから、それを打てばいいとは言ったけど)
初球のストレートから手を出して、しかもそれを外野の頭を越えて飛ばすのが優也である。
早くスタートを切れた正志は一気にホームへ。
優也も三塁まで進出し、いきなり先制点と、追加点のチャンスである。
(ほら~! だから獲っておけって言ったのに!)
もし横浜学一に入れていれば、一年の秋から試合に出たかどうかはともかく、この一点は取られずに済んだ。
正志が東名大相模原を辞退したり、優也が横浜学一に復讐したりと、この白富東の二人は、神奈川相手には相性がいいというか、どこか運命付けられているらしい。
さらにレフト前にポテンヒットを打たれて、いきなり白富東は二点先制。
尾上は苦虫を噛み潰す表情を隠すのが精一杯であった。
国立は横浜学一については、ちゃんと昔から調べている。
それこそ自分が高校生の頃から、である。
その時から監督をしているのだから、尾上という監督もたいしたものだ。
春夏合わせて六回の全国制覇を果たすという、日本でもトップレベルの有能な指導者である。
その指導方法は、楽しい練習は見につきやすい、というものだ。
なのでバッティング重視である。
高校野球で過去の偉大なピッチャーを見てみても、決勝で無失点という荒業を成し遂げたのはそうそういない。
この10年で二人ほどいるが、そんな化け物はもう最初からどうしようもないのだ。
点を取っていく練習、バッティングと走塁は、やっていても楽しい。
そしてその中のバッティングにおいては、強く踏み込んで打つということを基本としている。
高校生でもまだ、体が出来上がっていなくて、ウエイトでパワーをつけるのは避けたほうがいい繊手というのは存在する。
それが強い打球を打つなら、全身で踏み込んでいくしかない。
するとその強打によって、対戦相手は外角のボールを投げてくることが多くなる。
ならばますます踏み込み、それを打ってしまうのだ。
なので国立は、あえて内角を攻める。
内角内角内角、時々外角。
そしてその外の球は、ボール球を基本とする。
この攻め方でまず、横浜学一の二人を内野ゴロに打ち取る渡辺である。
(けどクリーンナップになると、そうもいかないんだよなあ)
踏み込んで打つというのは、まだパワーの足りていない高校生だからこそ必要なものだ。
しかし横浜学一レベルであると、クリーンナップはもう完全に肉体はプロ級の分厚さがある。
白富東の強打者としては、引退した悠木よりも、さらに体の厚みは優る。
もっとも悠木も、バネで打つタイプであったが。
変化球を上手く使って、三人のうち一人を打ち取ればいい。
それぐらいの余裕を持っていると、打ち上げた球が深めに守っていた外野のグラブに入る。
ほっと一息の渡辺が、とりあえず三者凡退でベンチに戻る。
一回の攻防としては、文句のない白富東の優勢であった。
ただここまで自軍に都合がいいと、必ず天秤には揺り返しがある。
(四番五番の連打で点を取られるとか、そういうパターンかな?)
二回の表に白富東が追加点を取れれば、また違った流れになるのかもしれない。
だが下位打線の白富東は、九番の潮まではあまりバッティングに期待出来ない。
横浜学一のエースナンバーはサウスポーで、球速は140km/hちょいを常時出すぐらいだ。
球威で圧倒するタイプではなく、安定感で勝負してくる。
これに夏の大会でも投げた、一年生の蟷螂という珍しい名前の一年生がいる。実質的にはこちらが秋からはエースだ。
この二人をメインに回しているのが、今の横浜学一なのである。
そしてメイン以外でも、普通にエースクラスのピッチャーが揃っている。
このピッチャーの全てを分析して対策することは出来ない。
なので1番が投げてきてくれたことは、むしろありがたいのだ。
九番の潮が、ツーアウトからフォアボールを選ぶ。
ここで三者凡退しないあたり、まだ流れも勢いも白富東にある。
粘った末にアウトになっても、横浜学一に勢いをつけない。
それがこの場合では重要なことなのだ。
二回の裏、いきなり四番にツーベースを打たれて、得点圏にランナーがいる。
ただ五番をライトフライで打ち取った。浅いフライなので、タッチアップは不可能である。
(ワンナウト二塁打から、ここは右打ちを徹底してくるはず)
国立の想像通り、六番打者は右打ちをしてきた。
このあたりは強打のチームと言えど、チームの戦術は徹底されている。
ツーアウト三塁。
バッターは七番であるが、渡辺の実力からして油断していい相手ではない。
ヒットはもちろんエラーやパスボールでも、一点が入る場面なのだ。
(流れが来るなら、ここで何か起こるんだろうけどね)
尾上はそんなに都合のいいことは考えない。
ただ七番バッターには、早打ち厳禁とは言ってある。
ボールが先行して、しっかり見極めてくる相手だけに、渡辺も迂闊に勝負にはいけない。
やがてフルカウントになり、投げる球がなくなる。
(歩かせましょう)
(分かった)
追い込んではいたが、そこからの内容が悪かった。
ベンチの国立も動くことなく、これでツーアウトながら一三塁である。
どこかでアウトを取ればいいという状態だ。
さすがの横浜学一も、八番に強打者は置いていない。
定位置守備で、どこでもいいからアウトを取る。
(七番に球数は使いましたけど、ここもじっくりと)
継投が前提のため、潮はじっくりと球数を使っていく。
渡辺としても自分の役割を、しっかりと認識している。
八番の打球はショート正面で、二塁で普通にフォースアウトが取れた。
ランナー二者残塁で、二回の裏は終了である。
三回の表、白富東の攻撃は二番の清水から。
実際のところ清水は、それなりの打撃力を持っている。だが犠打に徹することが出来るからの二番だ。
(ノーアウト二塁から点を取られなかったのは大きいな)
国立はそう見ているが、ツーアウトながら一三塁にしてしまったというのは問題だ。
ただそこからも点を取っていない、横浜学一のツキのなさをも感じる。
渡辺は三振を取れていないが、守備がしっかりと守っている。
三回の裏も投げさせるかどうかは、正直迷うところだ。
しかし最初の予定では、三回までを二失点に抑えるというのが、国立の意図だったのだ。
球数を使ってでもしっかりと抑えているのだから、プランは変更するべきではない。
この三回の表をどう攻めるかでも、この後のプランは変わってくる。
追加点が取れたなら、間違いなく三回の裏も続投なのだが。
そう思っていると、清水がフォアボールを選んで塁に出た。
(おお、これはいい)
実質的には四番である、正志の前のランナーだ。
白富東としては、ここは正志に任せることが出来るが、横浜学一としてはどうなのか。
まだ序盤と言っても、これ以上の失点は厳しいのではないか?
こちらが優也を温存していることは、ちゃんと理解しているだろう。
横浜学一のベンチが動いた。
ピッチャーは交代であるが、エースはベンチに下げるのではなく、外野に移動する。
安定感が自慢のピッチャーであったはずだが、今日は調子が悪かったらしい。
いや、上手く気分よく投げさせないことが出来たと言えようか。
真のエースと言われる一年がいて、それがメンタルに影響を与えたのかもしれない。
リリーフのマウンドに出てくるのは、一年生の蟷螂だった。
カマキリという名は体をあらわすのか、腕が長くしなる。
そこからストレートに、カーブとスライダーを、大きく変化させて投げ込んでくる。
ノーアウト一塁。
一年生が背負うには、ノーアウトのランナーというのは辛い。
だがそれでも投げさせてくるのが、尾上からの信頼というものなのか。ならばやはり、こちらがエースだ。
ここで国立は、かなり具体的な指示を正志に出している。
ピッチャーが代わらなければ、初球に投げてくるであろうストレートを狙えばよかった。
フォアボールで歩かせたなら、次のバッターにはまずストライクがほしい。
だがピッチャーは交代した。
ここでキャッチャーが投げさせたいのは、ストレートではないだろう。
自慢のスライダーあたりで、空振りを狙ってくるのではないか。
そうでなくとも初球は、代わったばかりのピッチャーを見てくることが多い。
カーブかスライダーか。カーブは緩急のために投げてくることが多いので、おそらくはスライダー。
このスライダーがゾーンに入ってくるかどうかで、この打席を占うことが出来る。
スライダー狙い。
国立からサインは出たが、正志は自分でも、スライダーがくるのではと思っていた。
代わったばかりのピッチャーには、本当なら気持ちよくストレートを投げさせたいだろう。
だがこういう場合はどう考えるかなど、ミーティングで色々と話し合っている。
(ストレートかカーブならボール球。スライダーなら打ちにくい、いいところを狙ってくる)
正志はバットを回転させて、思考を閉ざした。
スライダーなら打つ。だがどう入ってくるのか。
蟷螂の指先からリリースされたボールは、正志にぶつかるのではという軌道を描いた。
だがここから変化するのだと、正志はわずかに体を開きながらも、ボールが中に入ってくるのを待つ。
(腰から当てるように!)
望みどおりのスライダーが、低めに入ってきた。
そしてそれをジャストミートした。
浮きすぎたか、と思った打球はレフトの頭を越えた。
そのまま転がって、フェンスで跳ね返る。だがそれほど勢いのある跳ね返り方ではない。
ここでもまた、三塁コーチャーは腕を回す。
清水は三塁ベースを蹴って、レフトからの返球をショートが中継し、キャッチャーへと届く。
滑り込んだその手は、わずかにキャッチャーのミットより早い。
打った正志は二塁ベース上で、悠々とそれを見ていた。
追加点が入って3-0。
出来すぎなぐらいの序盤が、白富東にもたらされた。
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