第61話 最終回

 とてつもないプレッシャーを感じながらも、耕作に動揺はない。

 天や大地の本当の怒りに比べれば、たとえ100万の大観衆が相手でも、どうにかなると思うのが農民である。

 ランナーを出しながらも七回の裏を抑える。

 わずか一点の差であるのだから、いくら毒島が化け物だろうが、一点ぐらいは取れると思うのだ。

 だが二点差になれば、かなり気力が衰えるかもしれない。


 もう一点取られたら負ける。

(けど負けるからって、死ぬわけじゃないしな)

 耕作は本当に動じない。


 この甲子園の大舞台で、耕作のストレートはMAXを更新した。

 それでも右のサイドスローなら、140オーバーのピッチャーもいるのだ。

 左のサイドスローだから、ここまで来れた。

 まさかエースナンバーなどもらえるとは、思っていなかった耕作である。

 バカの多いベンチメンバーの、テスト勉強まで面倒を見てきた。

 その野球部の活動が、もう終わる。


 ベスト4まで進出した白富東は、まだ最後に国体に出る必要がある。

 これにはおそらく三年主体で出て、下級生は秋に向けて新チームを始動させてもらおう。

 おそらくそれでも、国体で優勝までは出来ない。

 この夏はもう、二度とない特別な夏なのだ。


 限界など考えるな。

 限界を超えていけ。

 そこはまだ、お前の限界ではない。


 七回を無失点に抑えた耕作は、ベンチの中でゆっくりと休みたい。

 だが長谷川の打順と交代したため、ここで打席が回ってくる。

 左投げの左打ち。

 毒島のストレートを相手に、あっさりと見逃し三振である。


 単純に、フィジカルのスペックが違う。

 だがそれを言うならば、試合の前から大阪光陰の選手との、スペック差は明らかなのだ。

 試合は大阪光陰が押しているが、白富東はぎりぎりでついていく。

 1-0の一点差は厳しいが、試合を諦めるほどではない。


 八回の表も三人で終わってしまった白富東は、これで残るは九回の攻撃だけ。

 だが大阪光陰はその前に、まだ八回の裏の攻撃がある。

 そこで一点取られたら、おそらく本当に終わる。

(終わりたくないな)

 そう思いながら、耕作はマウンドに登る。




 甲子園に来れたことは、あまり重要ではない。

 悠木のようなプロ志望の人間にとっては、もちろん自分の価値を高めるために、必要な場所であったろう。

 だがプロへ行くならば、別に甲子園にまでは行かなくても、プロのスカウトは取っていくものだ。

 甲子園に、本当に自分は来たかったのかと、耕作は自問する。

 答えは、それは単なる結果だというものだ。


 甲子園を具体的に目指すための、野球部の活動が楽しかった。

 耕作の志望大学はそれほど極端な偏差値も必要ないため、農業高校を選んでも良かったのだ。

 それでも普通科の白富東を選んだのは、大学にまで行って、さらに高度な勉強をしたかったからだ。

 特に重要だと考えたのは、経営の知識。

 あとは出来れば、高校で将来の嫁さんを探したかった。

 農家の後取り問題というのは、かなり深刻なのである。

 耕作の家は黒字経営の農家であるが、それでも家族経営をしているからだ。

 将来的には従業員を雇うような、そんな経営にしたい。


 ただそんな将来の目標を、時々忘れさせるほど、野球部は楽しかった。

 真っ黒に日焼けして、カンカン照りの太陽の下で、白球を追いかける。

 耕作は甲子園に来れたことは、おまけのようなものだと考える。

 野球部で、この白富東の野球部で、野球をすることが楽しかったのだ。


 この学校で、このメンバーで、この応援を聞きながら。

 終わらせたくはないのだ。

 耕作は大学に行けば、専門の勉強を始める。

 野球はもう、草野球程度しかやらないだろう。

(野球って楽しいな)

 終わらせたくないのだ。

 色々なことがあって、キャプテンとしても悩むことはたくさんあった。

 バカとバカをやるのは楽しかった。

 だから、終わらせない。


 八回の裏、大阪光陰に追加点はなし。

 そして九回の表、白富東の最後の攻撃が始まる。




 最終回だ。

 ここで一点も取れなければ、そのまま裏もなく試合は終わる。

 打順は運良く、一番の九堂から。

 ただしここまで、毒島から打ったヒットは、優也の一本と、悠木の内野安打だけ。

 既に14三振と、完全に圧倒されている。

 それでも一番から始まるこの回に、野球の神様が何もしかけていないわけはない。


 だが現実は非情である。

 九堂のバットにボールは当たらず、15個目の三振。

 九回で球威は衰えないどころか、むしろマウンド経験を積んで、ボールに伸びが加わっているような感じさえする。


 続く二番の城も、必死で食らいついていく。

 どうにか球数は投げさせたが、最後はストレートを空振り。16個目の三振。

 九回で155kmを投げてくる化け物に、城は金属バットを握り締めて、苦悶の表情を浮かべる。

 ツーアウトで、正志に回ってきた。

 一発で試合を振り出しに戻せるのは、正志と悠木のどちらかだけだ。

 ただ毒島はこの夏、府大会から数えても、一度もホームランなど打たれていない。


 正志はベンチを振り返ることもなく、バッターボックスに向かう。

 うなだれた城とすれ違ったが、両者共に何も言わない。


 あと一人だ。

 大阪光陰の応援スタンドからは、絶叫のような大声援。

 白富東からは、ブラバンの演奏。

 数多くの演奏曲を持つ白富東の応援であるが、正志の選んだのは、没個性とも言える名曲ルパンである。

 ただこの打席は、もう音楽に背中を押されることなどなく、バットを振ることに没入する。


 この打席の中で、おそらくチャンスは一球だけ。

 集中した正志の様子を見て、キャッチャーの呉は組み立てを考える。

(これで一年か。後がない三年並の気迫を感じるぞ)

 おそらくこいつは、プロに行くのだろう。

 そういった強者の気配が、明らかに感じられる。


 初球はスプリットを、低めに。

 ボールになったその変化球に、正志は全く反応しなかった。

 低めでストライクゾーンから沈むボールは、もし打ってもゴロになったろう。

 だが比較的コントロールの利くこの球を、正志は悠々と見送った。

(ストレート狙いか? フォーシームならある程度は制球出来るが)

 二球目の低めへのストレートも、正志は見送る。


 やや球速は落としても、制御されたコース。

 これはストライクとカウントされた。

 手元で曲がらない、低めとはいえストレート。

 これを打たないのならば、何を狙っているのか。


 MAXのストレートを待っているのか。

 確かにあれならば、手元で動かない分、ミートすればスタンドまで飛んで行くかもしれない。

 だがあくまでも可能性であって、実際のところは難しいだろう。

(とりあえずは、カウントを稼ぐか)

 呉のサインに、マウンドの毒島は頷く。


 危険だと感じたバッターに対して、なぜカウントを稼ぎに行ったのか。

 もちろん球数を少しでも減らしたいという考えはあったろうが、もう少し慎重になるべきではないのか。

 毒島の投げた三球目は、ムービング系。

 ほぼ150kmのスピードで、ツーシーム気味に曲がっていく。

 だがコースとしてはほとんどど真ん中のストライク。

 正志はそのボールを、完全にイメージと合致するスイングで打ち砕いた。


 ボールは、理想的な放物線を描いた。

 甲子園球場の一番深いところ、バックスクリーン付近のライトスタンド。

 そこまで届くのかと思っていたが、届いた。

 試合を始まりに戻す、同点のソロホームランであった。




「おおおおおっ!」

 吠えた正志が高くガッツポーズをして、ダイヤモンドを一周する。

 ホームベースを踏んで、スコアは1-1へと。

 白富東の応援席からは、もはや単なる感情の本流となった絶叫が聞こえ、誰も演奏をしていない。

 ベンチに戻ってきた正志の顔には、珍しい笑みが浮かんでいた。

 全員とのハイタッチを終えた正志の背中を、多くのメンバーが叩いていった。


 マウンドの毒島は、片膝をついて蹲っていた。

 歩み寄った呉も、かける言葉が見つからない。

 そもそも呉自身が混乱している。


 なぜムービングのボールを打ったのか。

 打つならば変化の安定しているスプリットか、反発力の高い全力のストレートではないのか。

 いや、それよりももっと重要なことがある。

 自分はあのサインを、最善のものとして出していたのか。

 相手は最初のスプリットを、完全に見逃してきた。ボールにはなったが、そこまでを見越していたわけではないと思う。

(ボール球を投げさせるべきだった)

 注意が必要なバッターだとは思っていた。

 だがそれでも、毒島なら大丈夫だと思ったのだ。

(俺のせいだ)

 だが下手に謝ってしまうと、ピッチャーからの信頼を失ってしまう可能性がある。

 もちろん謝ることによって、上手く行く場合もあるのだが。


 何かを言わなければいけない。

 だが何を言えばいいのだ?

 ここで毒島が立ち直れなければ、おそらく試合は負ける。

 そんな迷っていた間に、すっと毒島は立ち上がった。

「お待たせしました」

 どこか吹っ切れたような笑顔で。

「やっぱ甲子園は甘くないっす」

「ああ、そうだな」

 怪物が一人いても、甲子園では勝てない。

 上杉は一人では勝てなくて、SS世代の白富東は、投打に二つの軸があった。


 毒島は怪物だ。間違いなく将来はプロに行くだろう。

 いやスペックだけを見るならば、MLBさえ視野に入っていてもおかしくはない。

 そもそもそういった環境を目指す場所で育ったのだから。

 一発打たれただけで、終わってしまうのでは話にならない。

「世の中広いっすね」

「まあプロまで行けば白石とかいるしな」

 おそらく今の日本のプロ野球は、過去にないほどレベルが上がっている。

 NPBのトップに立って終わりではなく、その先にMLBという選択肢があるということ。

 目指す先が遠ければ遠いほど、人は努力しなければいけないものである。

「さっさと切って、裏でサヨナラだ」

「うす」




 沸き立つベンチの中で、もちろん喜んではいるが、冷静な目を持っているのは、まず国立である。

(一人で立ち上がったか)

 あの一発で折れることを期待したが、世の中そんなには甘くないようである。

「まだ続きそうですね」

 そしてもう一人冷静だったのは潮だった。


 マウンドで膝をつくほど、毒島はショックを受けていた。

 そのままであれば交代するか、次の悠木に逆転弾を浴びていたかもしれない。

 だが一人で立ち上がった。

 それでもショックを受けていることは間違いないだろうが。


 ツーアウトランナーなしで、四番の悠木。

 この悠木に対する第一球で、毒島のメンタルが本当に立ち直っているかどうかが分かる。

 ど真ん中からややカット気味に曲がってきたムービング。

 悠木はゾーン内のこのボールを、完全に見送った。


 毒島を攻略するとしたら、あちらのバッテリーがコントロールにこだわって四球でランナーを出すか、置きにきたボールを打つか。

 それでなければ一発に期待するしかない。

 正志が打ったように、毒島のストレートはムービングの変化がついても、それほどゾーンギリギリに入るようなものではない。

 正志は完全にツーシーム気味のストレートを、狙って打った。

 変化量まで完全に合ったのは、偶然の要素が強い。

 ただ、狙って打ったのは確かだ。


 他に当て勘などで打てるバッターは、白富東には悠木と、あとかろうじて優也であろうか。

 ここで一気に逆転出来ればいいのだが、そんなに甘くはない。

 毒島のストレートを打ち上げて、センターフライでスリーアウト。

 追いついたが、ここからは常にサヨナラの危険がある。

 幸いなことに大阪光陰の九回の裏は下位打線からだが、ランナーが出れば代打攻勢をしてくるだろう。

 そこで国立は、またピッチャーを交代する。


 耕作から優也へ。ランナーが出てから粘り強いピッチャーより、ランナーを出さない指数の高い優也をマウンドに送る。

 だがこの先も場面によっては、また耕作と優也をチェンジし続けるだろう。

 何度ものピッチャー交代は、おそらく二人にとてつもない精神的な負担をかける。

 だが勝つためにはそれしかない。

 単に球が速いだけなら、正志なども140kmを投げることは出来る。

 だがそれだけで抑えられるほど、大阪光陰は甘い相手ではない。




(ヒリヒリするな)

 背後にはもう後退するような余裕がないような、追い詰められた感覚。

 だが実際にはバックには、頼れる先輩たちがいる。

(俺を取らなかった私立、ありがとよ)

 そんなことを考えたあと、頭を切り替えてこの九回の裏のピッチングにかかる。


 下位打線の八番はそれほどの苦労も無く打ち取れたが、ラストバッターは毒島。

 打率はそれほど高くないのだが、府大会でも三本のホームランを打っている。

 なかなか当たらないが、当たればでかい。

 塩谷と共に球数をじっくり使って、最終的には内野ゴロに打ち取る。


 そして打順は戻って、上位の一番へ。

 ホームランまではいかないながらも、長打はそれなりに打てるバッターだ。

 ここから先はもう、連打があればそこで試合が決まりかねない。

 だが優也は、耕作とは別の形でプレッシャーに強い。

 そして応援に後押しされるという点では、耕作よりも支援がかかりやすい。


 中学時代に、シニアで敗北は経験している。

 チームを悪く言うようでなんだが、援護というものが少なかったし、ベンチからの声援も弱いものであった。

 だが、白富東は違う。

 このチームは本当に、色々な意味で野球を、楽しんでいるチームだ。


 九回を三者凡退で抑え、スコアは1-1と変わらず。

 白富東と大阪光陰は、もう何度目になるのやらという、延長戦に突入した。

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